岐阜市最高峰の百々ヶ峰(どどがみね)についての資料を、前日の同窓会に配布されましたので、アウトラインを記します。記事執筆は、ワンゲル部3年後輩の酒井さん。
地元では、昔から「百々ヶ峰」と仰いできた標高417mの山が、国土地理院の地形図では、無名のまま放置され、その名が1km西の何でもない山に三角点がつけられていました。彼は早くから気づいていたのですが、いずれは正されるであろうと待っていました。ところが何年たっても改まらないので、地形図改訂のための運動を開始。まず、国土地理院に電話し、更に正式文書で要望書を提出しました。
ところが国土地理院は、地名変更は、地元の市町村長の具申に従うので、その証拠が必要との回答。彼は岐阜市にかけあったのになかなか進展せず、紆余曲折を経てようやく改訂となりました。市長へ手紙を出してから7年が経過していました。この経緯は、Wikipediaにも詳しく書かれています。その文中の市民が酒井さんです。
さらに彼は、百々ヶ峰という名前が古代朝鮮語では、「日がのぼる山」という意味であることを聞き、行動を開始。3年前の秋分の日に、百々ヶ峰の真西にある古墳群で早朝から日の出を待ちました。するとその真上から日が上ったのです。更にその位置は、平安時代の地名に、大唐卿と記されてありました。西隣の糸貫町では、「モロコシ様」という祠も見つかりました。
続日本記には、715年に「席田郡迩近と新羅人七十四家で席田郡を設置」という記述がありました。(席田は現存)その郡境の小川は、北緯35度27分45秒。百々ヶ峰の緯度は、北緯35度27分45秒と酷似しています。驚くべく正確さで、郡境を決めたとは、古代人にとって百々ヶ峰は何だったのか・・・
更に冬至の日の出、日の入りも追いかけて、魏志倭人伝に記述のある狗奴国についても考察されています。
大学は今は統合され別の場所に移りましたが、当時百々ヶ峰は、大学教育学部の北側に聳えていました。後に医学部、農学部、工学部と共に統合されました。教育学部跡は公園になっていますが、百々ヶ峰を仰ぐことができます。上の写真は百々ヶ峰。(ネットより) 下は資料の一部。