2011/04/03 記
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私の古い友人で、数十年の付き合いになったが、低学力や不登校の子たちの仕切り直しを引き受けて私塾を運営してきた品*さんが癌で亡くなった。私より確か3つ上だったから63歳。埼玉県の北本市に教室があったが、私は昔、太郎次郎社の「ひと」という教育月刊誌の読者から有志を集めて「私塾の会」という交流会をたちあげて活動してきた。「私塾の会」から教科研を仲介する形で、そのころ彼と出あった。彼はいわゆるごりごりの共産党系の教育実践家で、教育機会の均等や、学力向上を目指していた。私は伝授型の学校教育そのものが時代的役割を終えて、デスクワークと知識の断片を積み上げていく教育を子供達が拒否し始めていると考えていた。だから私にとっては、学力競争のリングに子どもを戻していくことへの不毛さを唱えて、教育活動の転換を主張していた。
学習の枠組み転換を孕む教育実践をと語って来ただけに、教科研の場で品*さんとしょっちゅう議論したことを思い出した。長い付き合いになったが、彼は子どもひとりひとりの生活に寄り添いながら、道徳的な私塾通信を発行していたが、「子どものモラトリアムの期間を設け、知識と経験伝授型の学校作りは現行教育と同質でしょう」と言って、彼を怒らせていた。大人が子どもを、結局は囲い込んでいるだけではないかといいたかった。
子どもは「今、ここ」を生きており、その営みの中に知識の再構成を行うこと、それが教育であると考えた。生活実践活動とも異なる子どもの社会的立場の変更を伴う活動を考えていた。これはどんなフリースクールにもあてはまることだった。被災地で中高生が避難所の一部を支えているが、それに注目するような視座である。
私がセレスタン・フレネに関心を持ったのは、街の取材活動を通じ、それを糸口に知識を探究していく部分だった。「子どもと歩く」「まっすぐに生きる(地図上に直線をひき、それにしたがって、線上のお宅を強引に訪問かつインタビューをとりつけてくるという低学年向けのスリリングな企画)」「ミニFM・Beans Net 3」をぶつけてきたが、2000年末の交通事故で、2年間入院生活をおくることによって、私の私教育実践は突然崩壊したのだった。その経過を知りつつ、品*さんは、欠かすことなく通信を届けてくれたのだった。私がつけていた彼のあだ名は「ちょんまげ」。しぶとい善導居士だった。
不思議なことだが、私はなぜか共産党系の方との縁がある。しばらくお世話になった東京南部の私塾もそうだった。私が語ると相手が呆れるのに、なんだろうねと今でも思う。
品*さんとは、もう十数年、直接会っていない。しかし「郵送してくれた」通信を媒介に、共通の友人Tさんを通じてどうしているかという情報は、お互いわかっていた(つもりだった)。それが突然前触れ無く途絶えた…。
ひとのことは言えないが、灰汁の強い飲ん兵衛の白髪爺ぃだった。そんなに待たせないから、茅ヶ崎に挨拶に来なくていい、成仏しろ。合掌。
Tさん、連絡ありがとう。
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まだ相模大野校やJR相模原の私塾は休みなのだが、気仙沼から祖父母を引き取った**さんが、彼のご両親を紹介したいからと連絡してきた。町田で突然会うことになった。崩壊した気仙沼の実家の処置について、現地の関係者と連絡を取りたいとのことだったので、むしろ状況が安定している居住地・相模原市役所に相談しに行くことを勧め、必要なら立ち会うとを伝えた。
混乱している気仙沼市に連絡しても、時期を待たないと行政は動けない。ならば、気仙沼からふたりを預かっていることを伝えておくことから、私などより、相模原市に相談して、行政の担当者とも顔見知りになっていた方がいいだろうと伝え、承諾してもらった。週明けに、行政につないでくる。
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母と夕方買い物に出た。「保存用の水が2リットル1本のみ、ただしただ今、売り切れ」、どこに言ってもこればかり。茨城産の白菜、買おうか買うまいか悩んでいるご夫人を見た。この混乱、まだ当分続く。湘南でさえ余震が続いている。
母の手術日、近くのビジネスホテルに泊まれと言ったところ反発された。理由は地震が起こったら、両目塞がれている状態で放置されるからだという。なるほど。ここまで地震が影響しているのだ。
<入手した書籍>
●「無縁社会」(NHK「無縁社会プロジェクト」取材班)
●「野宿に生きる 人と動物」
夜間傾聴:□□君の親御さん(仮名・お礼の電話、ありがとうございます)
南大沢君(仮名・こちらから)
(校正3回目済み)
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私の古い友人で、数十年の付き合いになったが、低学力や不登校の子たちの仕切り直しを引き受けて私塾を運営してきた品*さんが癌で亡くなった。私より確か3つ上だったから63歳。埼玉県の北本市に教室があったが、私は昔、太郎次郎社の「ひと」という教育月刊誌の読者から有志を集めて「私塾の会」という交流会をたちあげて活動してきた。「私塾の会」から教科研を仲介する形で、そのころ彼と出あった。彼はいわゆるごりごりの共産党系の教育実践家で、教育機会の均等や、学力向上を目指していた。私は伝授型の学校教育そのものが時代的役割を終えて、デスクワークと知識の断片を積み上げていく教育を子供達が拒否し始めていると考えていた。だから私にとっては、学力競争のリングに子どもを戻していくことへの不毛さを唱えて、教育活動の転換を主張していた。
学習の枠組み転換を孕む教育実践をと語って来ただけに、教科研の場で品*さんとしょっちゅう議論したことを思い出した。長い付き合いになったが、彼は子どもひとりひとりの生活に寄り添いながら、道徳的な私塾通信を発行していたが、「子どものモラトリアムの期間を設け、知識と経験伝授型の学校作りは現行教育と同質でしょう」と言って、彼を怒らせていた。大人が子どもを、結局は囲い込んでいるだけではないかといいたかった。
子どもは「今、ここ」を生きており、その営みの中に知識の再構成を行うこと、それが教育であると考えた。生活実践活動とも異なる子どもの社会的立場の変更を伴う活動を考えていた。これはどんなフリースクールにもあてはまることだった。被災地で中高生が避難所の一部を支えているが、それに注目するような視座である。
私がセレスタン・フレネに関心を持ったのは、街の取材活動を通じ、それを糸口に知識を探究していく部分だった。「子どもと歩く」「まっすぐに生きる(地図上に直線をひき、それにしたがって、線上のお宅を強引に訪問かつインタビューをとりつけてくるという低学年向けのスリリングな企画)」「ミニFM・Beans Net 3」をぶつけてきたが、2000年末の交通事故で、2年間入院生活をおくることによって、私の私教育実践は突然崩壊したのだった。その経過を知りつつ、品*さんは、欠かすことなく通信を届けてくれたのだった。私がつけていた彼のあだ名は「ちょんまげ」。しぶとい善導居士だった。
不思議なことだが、私はなぜか共産党系の方との縁がある。しばらくお世話になった東京南部の私塾もそうだった。私が語ると相手が呆れるのに、なんだろうねと今でも思う。
品*さんとは、もう十数年、直接会っていない。しかし「郵送してくれた」通信を媒介に、共通の友人Tさんを通じてどうしているかという情報は、お互いわかっていた(つもりだった)。それが突然前触れ無く途絶えた…。
ひとのことは言えないが、灰汁の強い飲ん兵衛の白髪爺ぃだった。そんなに待たせないから、茅ヶ崎に挨拶に来なくていい、成仏しろ。合掌。
Tさん、連絡ありがとう。
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まだ相模大野校やJR相模原の私塾は休みなのだが、気仙沼から祖父母を引き取った**さんが、彼のご両親を紹介したいからと連絡してきた。町田で突然会うことになった。崩壊した気仙沼の実家の処置について、現地の関係者と連絡を取りたいとのことだったので、むしろ状況が安定している居住地・相模原市役所に相談しに行くことを勧め、必要なら立ち会うとを伝えた。
混乱している気仙沼市に連絡しても、時期を待たないと行政は動けない。ならば、気仙沼からふたりを預かっていることを伝えておくことから、私などより、相模原市に相談して、行政の担当者とも顔見知りになっていた方がいいだろうと伝え、承諾してもらった。週明けに、行政につないでくる。
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母と夕方買い物に出た。「保存用の水が2リットル1本のみ、ただしただ今、売り切れ」、どこに言ってもこればかり。茨城産の白菜、買おうか買うまいか悩んでいるご夫人を見た。この混乱、まだ当分続く。湘南でさえ余震が続いている。
母の手術日、近くのビジネスホテルに泊まれと言ったところ反発された。理由は地震が起こったら、両目塞がれている状態で放置されるからだという。なるほど。ここまで地震が影響しているのだ。
<入手した書籍>
●「無縁社会」(NHK「無縁社会プロジェクト」取材班)
●「野宿に生きる 人と動物」
夜間傾聴:□□君の親御さん(仮名・お礼の電話、ありがとうございます)
南大沢君(仮名・こちらから)
(校正3回目済み)