湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

11/20 平塚の老健に父を訪ねたものの/トリエステ日本講演に思う

2010-11-21 15:48:46 | 引きこもり
2010/11/20 記
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母がうなまぶしが食べたいと言い出した。うな重といわないところがなんともひっかかるのだが、母いわく、どのみち一口しか食べられないからだという。こうして私のけんちん汁は抹殺されたのだが、「食べたい」と言い出したとき、母の体調は要警戒なのだった。

19日は父の老健に行く約束の日。レンタル衣類代の支払いや、冬物の持ち込み衣料届け、車椅子散歩の準備が進んでいた。また、介護度が4から3に下がったため料金が変わり、加えて介護保険料改正で、料金があがることになるために、その変更の話を聞きにいかなくてはならなかった。

だから、母の突然の申し入れには、父の老健の帰りに平塚で待ち合わせで解決することになった。この「平塚待ち合わせ」ということが曲者で、自宅から平塚駅改札口まで「めまい」やダンピングを起こさないで済むかは、賭けでもあった。相模大野のグリーンホール駆け込みのような事態は再現したくなかった。

今回の巡回は昼間、相模大野が1件、海老名が1件だった。ひとりは彼の中退した出身校に立ち寄る必要があったが、これは授業担当の**さんが行くことになった。巡回を終え、帰り道は、私は海老名から厚木経由で北側から平塚の老健に寄ることにし、この選択が、今回成功したのだった。バス路の田舎道、今回異様な渋滞で、あとから聞いたところによると、細い工場地帯の町中の路上で、トラックの荷崩れ事故が起きたため、バス路線上下線とも通行止めになっていたのだ。路線を逆からはいったことで、事故地点を通らないで済んだのだった。

しかし渋滞は渋滞、予定を40分遅れて到着したので、早い日の入り、空が暗くなり始めて、父の車椅子散歩は中止となった。偶然は重なるもので、私の到着時、老健の入口も救急車が止まっており、入所者の女性が運び出されるところだった。隣接の所属病院には担当科の医師がおらず、別の病院に運び出されるところだった。事務室は騒然としていて、父の費用の支払いは出来たものの、新しいプランの確認は延期。月末にもう一度行くことになった。

話を聞くと、父は風呂場で指示無視の立ち上がり歩行事件を起こし、倒れる寸前に担当者が取り押さえる出来事が起きていた。その方向には何も無いのに、電車が来たと言ったという。認知症の進行を思わせる話だが、私が会った父は力が無くなった感があるが、極めて意識明瞭で、一応軽い会話は問題が無かった。担当者の話によると相変わらず他の入所者との交流は無いが、予定の先取り行動が出てきており、自分の始末に対する意識は強いという。認知症フロアなので、友人が出来ないのもやむ終えないことだった。母の近況を父に話したが、父の意識の中では祖母がまだ生きていた。

時間を早めに切り上げて、事務室に立ち寄って事故の復旧具合の話を聞いた。現場検証が終わって、片付けていたとマイクロバスの運転手から話を聞いているとのこと。渋滞はだいぶ解消していたが、問題は母である。携帯電話をかけてもバッグの底に入れてしまうので電話に出ないことが多く、時間通り平塚駅に着く必要があった。事故地点を通らない別路線まで歩くことにした。競歩で20分。この選択も当たりだったのだ。駅前も軽い混雑。到着が約束の時間の5分過ぎ。無事母と出会うことが出来た。

食事も帰宅も無事に済んだと思っていたら、母は帰宅時トイレに駆け込んでしまった。動悸がひどく、その場で座り込んでしまった。何かを食べたいと要求したときは、用心しなくてはいけなかった。夜の巡回を入れないでよかったのだった。

母のベッドを整え、母をベッドの縁に座らせた。寝かせないのは、ふたたび嘔吐を催したとき、ベッドから離れる時間がかかるので、様子見の間、ベッドに布団を折りたたんだ山を作って座位を保持する、もたれかかり部分を作った。

私の自分のベッドはくしゃくしゃである。夜中に限界がくると休止に飛び込んで横たわる、その状態のままなのだ。私の知り合いのIT屋さんも、親の在宅介護をしている。かれはベッドを持っていない。仕事の合間に毛布にくるまって、ソファーで睡眠。夜間のおしめ交換を担当している。しかし彼は40代、私は60代(なりたて)である。活力が違うよなと相手に言っているが、ベッドを使うだけいいじゃないですかと、妙な持ち上げ方をされている。父は夜間、いつの間にか階段上にいた。階段転倒との格闘技が、そのままのベッド放置の癖をつけてしまっていた。私はバツイチである。文句言う連れ合いももういない。私は介護という怪物に食われたなと思いつつ、やり残したことはやりきっておきたいと願っている。

昨夜は奇妙に夜間傾聴の予約メールが来なかった。静かな夜が過ぎていった。梅永雄二氏の「発達障害の人の就労支援ハンドブック 自閉症スペクトラムを中心に」を読み終え、炭谷茂氏の「ソーシャルインクルージョンと社会的起業の役割 地域福祉計画推進のために」に移った。炭谷氏の交渉、著作の読み直しが絶対に必要。交渉難航中。

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トリエステの日本縦断講演は、私が参加した東京講演が一番時間が短かったらしい。横浜講演はどうだったのだろうか気になる。精神病院を廃止し、地域センター通院型のインクルーシブな環境づくりの件は、興味がある。しかし今度の講演もそうだが、聴衆の設定をいつも誤っていると感じる。イタリアは精神病院の廃止を既に実現している。その発火点がトリエステの活動だった。実現には時間が流れている。その実践経過を知りたいのに、初めてトリエステを知るビギナー向けに企画されてしまうので、新しい情報が入らない。何のために来日してもらっているのかわけがわからないのだ。この手の来日企画はいつも的外れを経験する。なんとかならないものかと思う。

トリエステ精神保健局から「トリエステ精神保健サービスガイド : 精神病院のない社会へ向かって」が出ている。2006年に出たものだが、神奈川県の図書館にも複数在庫がある。予約を入れておいたが、しばらくは配本されないだろうなと諦めている。


夜間傾聴:なし


(校正2回目済み)

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11/19 慈恵医大眼科の診察を受けた~診察のコンセンサスということ~

2010-11-21 10:41:40 | 引きこもり
2010/11/19 記
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順天堂大病院の眼科の紹介状を持って、東京・御成門の慈恵医大病院の眼科に行った。網膜色素変性症の詳細な状態をつかむために、網膜の部分撮影を行う機器と診察経験医を兼ね備えた病院へと転院してきたのだった。網膜色素変性症は遺伝性のものと非遺伝性のものがあり、後者は更に治療例が少なく、死んだ視神経の再生は、今後のiPS細胞の再生治療技術の確立を待たなくてはならない。ここ10年では無理という。少なくとも進行を抑えることが現在の治療となる。

検査の重複を避けるためにと、順天堂からの紹介状は検査データを添付した厚いものとなった。それを窓口に提出しながら、詳細な問診表に記入していく。筆記台がないので紙面までの距離が不安定となり、右目を閉じないと、視野の部分が霞んで記入欄を間違えたり、はみ出したりしてしまう。台を求めて席を立つと、たちまちのうちに席がなくなってしまう。建物が旧く、外来のフロアはL字に曲がって見通しが利かないが、相当の人数が順待ちしていた。私の場合は紹介状ありなので、初診医が違い、ひとりに対する診察-検査ー診察の順の、目的の医師の診察前の下調べ時間が長い。問診まで2時間、検査まで30分、再び診察まで30分待たされる。その上で、紹介状に指定された医師に送られる。ここで順待ち1時間。昼を挟んで5時間弱が過ぎていった。

初診担当医がチェックしたのは、病歴の詳細な問診。また、網膜写真撮影とその大まかな判定。つまり順天堂大の検査から経った数日の時間のブランクを埋めて、現状が変化しているかということと、現在早急に治療をしておかなくてはならない症状が出てきているかのチェックだった。担当医は30代。若い。

とにかくカーテン一枚の仕切りで診察が進むので、話は全部漏れてしまう。すごいところに来たなという旧式の構えである。乗ったエレベータがまた古い。機械接点の押しボタン、震動して止まるタイプ。待っているときの外来廊下の椅子も年季が入っていたから、余計担当医の若さが際立ってしまう。

一応電子管理のシステムは整っているが、診察ブースの背後の薄闇を忙しく看護師が行き来していて、楽屋裏が見えている安っぽい光景だった。

しかし検査は、眼圧・視力だけの簡単なもので、重なりは少なく、形式的なものであっさり済んだが、問診は診察の条件が整っているかだけではなく、問診表にある病歴家系図の補間、他の疾病を含んだ私の病歴の詳細な記録作り、紹介状と私の受診目的のずれがないか確認のうえ、ゴールドマン動的視野検査の放射グラフを見せて、順天堂大学の事前検査結果が送られてきていることを告げ、検査の重なりを避ける旨の説明が入った。ゴールドマン視野検査は、微細な光点を追う時間のかかる視野の分布検査で、重複検査はしませんよというシンボル的な意味合いで、そのデータを私に見せたのだった。私の両眼の視野は見事に歪んでおり、右目は不規則に歪んでいた。背筋が寒くなった。

しかし紹介状をいつ読んだのだろうと思うほどに、前の患者の問診との間が少なかったにも関わらず、話と質問は紹介状の詳細にわたっていた。またその紹介状の中身を開示したこと。これも大概は、やらない。専門的なデータなので、見せても仕方が無いという判断なのだろうが、診察の経路が患者に明示されているというのは歓迎だった。資料の中には干渉断層画像が入っていた。スリット光を使った視診。慈恵医大で重ねた検査結果の報告と意見を添えて、専門医に送ると説明した。一見気がつかないで過ぎてしまうことだが、診療の公開性を感じた。

そのあと、昼を挟んでいたが、診察は継続しており、途切れることはなかったが、とにかくひとりが長い。カーテンの向こうのやり取りが皆、聞こえてしまう。前の方もやはり加齢による重篤な網膜疾患の方で、手術の治癒の可能性を話し合っていた。この患者の短時間な入れ替わりの間に、どうカルテが書かれているのだろう。電子カルテ以前の手書きカルテのときは、記録修正が騒ぎだっただろうと思う。ワープロと原稿用紙のようなものだ。

北里東病院の母のカルテのように、診察科を横断してデータが瞬時に取り扱えるということは、診察の質を変える。電子カルテは慈恵医大データベースではどのようになっているのだろう。眼科と横断する例は、糖尿病網膜症のように内科との横断がその例だろう。

しかし1時間の待機はさすがにいただけなかった。

私が送られた医師はやはり若かった。30代後半の感じ。網膜色素変性症の診断には違う意見を持っているようだった。前の眼科の担当医は専門が違うのにと首を傾げたのには、若いなと思わされた。反骨意識である。私の症状は非遺伝性であり、典型的な網膜色素変性症ではない。別の症状との判別検査の意味合いもあると、目的の検査の説明をもらった。神経束の部分と黄斑の部分の詳細な撮影を行い、桿体細胞と錐体細胞を分離した検査にかけるというこの部分が、順天堂大から慈恵医大に検査機器を求めてきたその機器の機能でもあった。

ところがこの機器の撮影予約が厄介なものだった。三ヶ月前からの順待ち状態で、私がそのまま入れば、来年3月を過ぎてしまうという。救急で入れないか調整しますとの話のあと、医師が席を立ち看護師と相談していた。5分後、私は診察室に取り残されていたが医師が戻り、1ヶ月後に空けたが、申し訳ないが選べる状態ではないので、日程を合わせてもらいたいとの要請があって、来週の撮影が決まった。救急で1ヶ月後と思ったが、助かったことに午後である。(笑)承諾してこの日の診察は終了した。順天堂大には、結果連絡を入れておくので、診察はそちらでもかなわないとの話があったが、非遺伝性はこちらと話があったので、このまま継続をお願いすると伝えた。まもなく14時になろうというのに、その医師は次の患者を受け入れていた。

今回の診断でわかったことは、診察と治療の開示がしっかりしていること。出来ることと出来ないことをはっきり伝え、論拠もわかりそうな範囲で説明があることだった。コンセンサスを得て診療を進めるという方向は納得のいくものだった。しかし待たせる。9時の予約が終了が14時近く、つまり5時間が経過していた。大半が待ち時間である。

今までの治療薬(栄養剤みたいなものだそうだが)を継続することになって、処方箋を薬局に持ち込みながら、新しい素っ気無い診察券を眺めていた。慈恵医大から回ることになったら今度は遠いなと思いつつ、前の医師が権威と専門用語で患者を煙に巻いていたことを考えると、正解かなと思っていた。

私の家からは、茅ヶ崎>品川>田町>御成門というルートで行くが、これが困ったこと。贅沢であるが品川からでは絶対に席に座れないこと、田町(三田)経由が面倒で雨天は濡れてしまうこと、御成門から東京に出るのが案外不便なこと。御成門からはすぐなので、この辺は便利ではあるのだが。

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とにかく生業の巡回が押されて変更続きになってしまう。鶴嶺高校の件や、母の診察付き添いなどを避けると不規則な巡回になってしまうので、従来から変更を頼まれていた20日の土曜日の巡回を受け入れた。この日は視覚障碍のサポート電子機器の話と石川准氏の講演が専修大学で予定されていて、予約を取っていた。障害者リハビリテーション協会でご挨拶して以降だから、ずいぶん年月が経っていた。しかしキャンセルということにした。この日を空ければ重ねて巡回が出来るからだった。

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時間が中途半端なので、私の昔の庭、神保町に足を向けた。出版社のある猿若町や小川町の方に立ち寄ってもいいのだが、沈没の可能性があったので、田中夏子氏の「イタリア社会的経済の地域展開」を求めて書店を歩いてきた。これはオンデマンド版なので出版社に直接注文すれば入手できるのだが。やはり新刊書店には無く、古書店も開架状態にはなっていなかった。見つけることは見つけたが、新刊料金と大差ないので諦めた。

とにかく神保町やすずらん通り界隈は、糖尿病患者には行き場所のない、ハイカロリーの店だらけなので、古瀬戸でコーヒーを飲んできただけなのだが、それでも足が向いてしまう。母に頼まれた品物を馬喰横山経由で人形町に出て受け取った。職人技のみえる店なのだが、今は亡き母方の叔父の同級生の店でもあって旧知の関係だった。つい長居をしてしまったが、この人形町・水天宮周辺も足を運んだ町だった。

ここからは横須賀線で戸塚乗換えで帰った方が早いのだが、新宿から小田急線で巡回先に回ったほうが時間が合理的と判断。新宿紀伊國屋書店を散策して時間調整して東林間に出た。

奇妙なものを持っているので、気が散らないかなと思いつつ、東林間のお宅にお邪魔した。本校からFAXが届いていて、二度手間は避けられたが、巡回を迂闊に当日変更していたら雷ものだった。

帰宅して、食器と洗濯物の山を見たときは、うんざりした。母には前日けんちん汁を作っておいたので、あとは冷凍の半調理品ですませるように指示しておいたのに、全く手をつけていなかった。めまいでテーブルの角にぶつけたのだと寝込んでいると、困ってしまう。私が帰るとわき腹を押さえて出てきたので、打撲だろうと思う。風呂には、単独のとき絶対に入るなと言ってあるが、このめまい、長い。すでに半年を越えている。胃切除後の体力減退は、食欲が無くなり、食べないからなのだが、食べるとダンピングが待っている。厄介なのだ。

しかし食器が山という事は、食べた証拠。問い詰めると来客があって、寂しいからふたりで食べたとのこと。その客が惣菜を持ち込んだので、それで食べたという。私の作ったけんちん汁は、塾の子たちと食べたこともあった。まずくはないはずなのだった。回答した冷凍物半調理品は、面倒なので使わなかったという。結局ここから、私の糖尿病対策メニューは破壊されていくのだが、今回はため息がでた。疲れていた。とにかく食器と洗濯物をやっつけて、1時間仮眠した。

石油ストーブが油切れだと起こされた。灯油のポリタンクも空だった。離れの下が物置になっている。そこから交換して、満タンの灯油タンクを持ち出してくるのだが、夜間シャッターを開けなくてはならなかった。音がうるさいと隣人ともめたことがあるので、時間も0時を回っているので、忍び込むようにシャッターを開閉した。気の疲れる家である。父の介護の大騒動の影響なのだった。

<気になった書籍>
●「途上国障害者の貧困削減-かれらはどう生計を営んでいるのか-」
●「大都市のひとり暮らし高齢者と社会的孤立」


夜間傾聴:東林間君(仮名・さきほど会ったばかり)
     ******君(仮名・母親から)


(校正2回目済み)

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