2013/03/05 記
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今日は日本財団と日本障害フォーラム(JDF)主催の活動報告会と試写会が、参議院議員会館講堂にて行われた。参加者は公開募集によるものというより、関係者が大半。
この会では、改めて
「生命のことづて~死亡率2倍 障害のある人たちの3.11~」
(30分監督:早瀬 憲太郎)
というドキュメンタリー映画が公開された。東日本大震災の被害は、障がい者にも襲いかかった。ところがどれほどの被災者が命を奪われ、被災後二年、今はどうしているかその把握データが全くない。陸前高田市に至っては、住民台帳を津波で喪失し、それもあって、昨年10月に、障害者訪問調査を行った。個人情報の守秘の壁を団体指定と目的限定の上、開いた。南相馬市と並んで二市が条件付き公開をしたのだった。この結果から推測された値が「死亡率2倍以上」という数字だった。
災害ボランティア活動は、被災健常者(奇妙な造語ですが)を対象にし、環境整備と産業復興、被災者激励を行い、要援護者への関心が薄かった関係で、元気な高齢者はいるが、歩行困難になったり、心身に不調を抱える高齢者や、障がい者の姿が忽然と消えたかのような、不思議な光景を生み出していた。
この障がい者の消息を追い、被災時どのような状況が訪れたか、または現在どのような生活をしているかを拾い出して点描を行う活動がやっと表に出てきたのだった。障がい者と支援者を結びつけ、全国支援の退潮の中、孤立化を防いでいく役割を担っていた。(高齢者の場合も、引きこもったり寝たきり状態の方の現状を、埋もれさせない同様の試みを期待している。)
その意味で、このドキュメンタリー映画の意味は大きいのだが、手話・字幕・読み上げ音声などに配慮したわりには、内容が浅く、スチール写真を過剰に積み上げ、ライブ感に欠けた、まるであらすじをみているような印象を受けた。費用も制作時間もかけていないことが顕わになってしまった。その割には、多くの障がいを網羅して紹介するために、改めて無関心という差別の影を知ることになる。あまりにも多くの出来事が起きた。しかしいずれもが、障がい者の居場所がないという現実だった。
私は、ふと引きこもり・不登校の青少年が田舎には少ないということをめぐる議論の彼方に、「家族の絆礼賛」の合唱だった。学校の人間関係だけでなく、家族の離婚・死別・DVなどの原因で、学校社会からはみだしてしまった子に「家族」の歪みに蓋をするような結果を生んでいることのきな臭さを感じていた。
避難所で知的障がい者が暴行を受けた例をきく。発達障がいの子を避難所の健常者の非難の目から避けるために、車の中で避難所生活をしてきたという話など、沈黙を強いられてきた実態が浮かび上がってくる。避難者にしてみれば、深刻な事態と疲れた心身を癒したいときに、「非常識」な行動は許せないとなってしまう。障がい特性を知らない結果だというのに。
この高ストレスな圧力のもとで、姿が消える悲しい状況。しかし、沈黙する障がい者とその家族は、被災しているのだ。
そういう空気のようなものは、この作品から感じることができる。だから、関連講演と組み合わせて使用するような使い方をすれば、価値が上がる。主賓にはならない。
上映権込みのBDディスクが¥10、000ーで、申し込み販売となり、一般販売は秋口からだという。
考えてしまった。テーマはタイムリーであり、日本財団とJDFとくれば、湘南上映は確実だろう。ただ上映会というには、役不足だ。
そんな思いでパネルディスカッションのパネリストたちの話を聞いていたが、絞れば果汁の出そうな方は、遠方。
発達障がいや、精神障がい、知的障がい、聴覚障がい、内部障がい等、外見から判断が難しい障がい者がすごした被災の日々を描く作品が必要だ。これを劇でやると嘘くさくなる。特定の障害者の家族を追っていくことで、他の障がいへの想像力をかきたてていく描き方がある。図鑑のように並べるだけが方法ではないだろう。
パネリスト関連のレポートは、あすに。
明日は朝、橋本面談。S君の就労相談に連れそう。お守りみたいなものだ。(疫病神かもしれないけれど。)
夜間傾聴:**子に連絡したら、父親が出た。
夜に電話がかかってこない、遮断されたかなと。
(校正1回目済み)
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今日は日本財団と日本障害フォーラム(JDF)主催の活動報告会と試写会が、参議院議員会館講堂にて行われた。参加者は公開募集によるものというより、関係者が大半。
この会では、改めて
「生命のことづて~死亡率2倍 障害のある人たちの3.11~」
(30分監督:早瀬 憲太郎)
というドキュメンタリー映画が公開された。東日本大震災の被害は、障がい者にも襲いかかった。ところがどれほどの被災者が命を奪われ、被災後二年、今はどうしているかその把握データが全くない。陸前高田市に至っては、住民台帳を津波で喪失し、それもあって、昨年10月に、障害者訪問調査を行った。個人情報の守秘の壁を団体指定と目的限定の上、開いた。南相馬市と並んで二市が条件付き公開をしたのだった。この結果から推測された値が「死亡率2倍以上」という数字だった。
災害ボランティア活動は、被災健常者(奇妙な造語ですが)を対象にし、環境整備と産業復興、被災者激励を行い、要援護者への関心が薄かった関係で、元気な高齢者はいるが、歩行困難になったり、心身に不調を抱える高齢者や、障がい者の姿が忽然と消えたかのような、不思議な光景を生み出していた。
この障がい者の消息を追い、被災時どのような状況が訪れたか、または現在どのような生活をしているかを拾い出して点描を行う活動がやっと表に出てきたのだった。障がい者と支援者を結びつけ、全国支援の退潮の中、孤立化を防いでいく役割を担っていた。(高齢者の場合も、引きこもったり寝たきり状態の方の現状を、埋もれさせない同様の試みを期待している。)
その意味で、このドキュメンタリー映画の意味は大きいのだが、手話・字幕・読み上げ音声などに配慮したわりには、内容が浅く、スチール写真を過剰に積み上げ、ライブ感に欠けた、まるであらすじをみているような印象を受けた。費用も制作時間もかけていないことが顕わになってしまった。その割には、多くの障がいを網羅して紹介するために、改めて無関心という差別の影を知ることになる。あまりにも多くの出来事が起きた。しかしいずれもが、障がい者の居場所がないという現実だった。
私は、ふと引きこもり・不登校の青少年が田舎には少ないということをめぐる議論の彼方に、「家族の絆礼賛」の合唱だった。学校の人間関係だけでなく、家族の離婚・死別・DVなどの原因で、学校社会からはみだしてしまった子に「家族」の歪みに蓋をするような結果を生んでいることのきな臭さを感じていた。
避難所で知的障がい者が暴行を受けた例をきく。発達障がいの子を避難所の健常者の非難の目から避けるために、車の中で避難所生活をしてきたという話など、沈黙を強いられてきた実態が浮かび上がってくる。避難者にしてみれば、深刻な事態と疲れた心身を癒したいときに、「非常識」な行動は許せないとなってしまう。障がい特性を知らない結果だというのに。
この高ストレスな圧力のもとで、姿が消える悲しい状況。しかし、沈黙する障がい者とその家族は、被災しているのだ。
そういう空気のようなものは、この作品から感じることができる。だから、関連講演と組み合わせて使用するような使い方をすれば、価値が上がる。主賓にはならない。
上映権込みのBDディスクが¥10、000ーで、申し込み販売となり、一般販売は秋口からだという。
考えてしまった。テーマはタイムリーであり、日本財団とJDFとくれば、湘南上映は確実だろう。ただ上映会というには、役不足だ。
そんな思いでパネルディスカッションのパネリストたちの話を聞いていたが、絞れば果汁の出そうな方は、遠方。
発達障がいや、精神障がい、知的障がい、聴覚障がい、内部障がい等、外見から判断が難しい障がい者がすごした被災の日々を描く作品が必要だ。これを劇でやると嘘くさくなる。特定の障害者の家族を追っていくことで、他の障がいへの想像力をかきたてていく描き方がある。図鑑のように並べるだけが方法ではないだろう。
パネリスト関連のレポートは、あすに。
明日は朝、橋本面談。S君の就労相談に連れそう。お守りみたいなものだ。(疫病神かもしれないけれど。)
夜間傾聴:**子に連絡したら、父親が出た。
夜に電話がかかってこない、遮断されたかなと。
(校正1回目済み)