使徒の働き 4章1−12節
昨日は、6年ぶりにあるご夫妻を訪ねました。相変わらず物事を前向きにとらえておられるのが話の端々に感じられて話に花が咲き、気がつくと2時間以上経っていました。「男の長話」というのがあるのでしょうか。
ここでペテロたちは、エルサレムの宗教指導者たち、権威者たちの前に立たされることになります。イエスをメシアと信じる人々が男だけで5000人になったというのは、権威ある人々にとっては脅威となりました。それゆえの迫害だったのでしょう。
ペテロたちは捕えられ、翌日大祭司たちの前での尋問が行われたのですが、それがまた、福音を宣べ伝える機会ともなりました。物事が自分たちの思いの通りにならなくとも、彼らは自分たちにイエスが授けてくださった務めを行なうことができたのです。
「神に導かれて」とはキリストを信じる者がよく口にすることばですが、それはどのような場合なのだろうかと立ち止まってみます。もしかしたら、自分たちに都合がよいように周囲が整えられることを期待しているのではないか、ペテロたちが突然捕えられ一晩労に留め置かれたというのは、「まずいことが起こった」と意気消沈するようなことかもしれません。
以前のペテロなら、弟子たちなら、逃げ出したり、あらぬことを言ってその場をしのぐようなことをしてしまうような局面です。しかし彼らはそうではなかったのです。「聖霊に満たされて」というのがその場合の鍵のことばのように読みました。
自分の身に「ひどい」「辛い」ことが起こった時、「神に導かれて」と思えるのだとしたら、なぜなのでしょうか。