みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主が宿る地に住む人々

2021年03月10日 | 民数記

民数記 35章16−34節

 治療の帰り立ち寄った駅構内の持ち帰りケバブ屋さん。ずっと2.99ユーロだったケバブサンドイッチが、3.4ユーロになっていました。どこよりも安くてと喜んでいたのですが……。それでも、安いですね。

 35章後半では、人を殺した者をどのようにするのかについての、神のお考えが明らかにされています。まず、故意に人を殺した場合についてです。ここには殺人に用いる道具のことも詳しく述べられていますね。何を用いても、故意によって人を殺した者は、必ず殺されなければならないとあります。

 20節に「憎しみをもって」、「悪意をもって」、21節に「敵意をもって」とあります。人に対するこれらの思いは、凶器をもって立ち向かうとまでいかなくても、誰もが抱いたことのあることではないか、と考えます。私たちの社会の法は、人の内側の動機や思いだけで犯罪だとして処罰の対象にはしませんが、事件が起こったときには、動機が何であったのかを探ります。

 「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』という者は最高法院でさばかれます。『愚か者』という者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます」というイエス・キリストのことばを思います。⇒マタイの福音書5章22節

 この箇所に限らず、特に旧約聖書には「殺す」ことについての戒めが多くあります。その原則はここに記されていることと同じです。一緒に生きていく中には、故意でなくて結果として人を殺してしまうこととが起こります。そのようなとき、人を殺した者を守というよりも、神が正しくさばかれるということで「逃れの町」が存在します。

 心に留めたのは、本章最後のことば。「自分たちの住む土地、わたし自身がそのただ中に宿る土地を汚してはならない」と主は言われます。私たちの生活の場もまた、同じ。何によってその地をきよく保つのでしょう。


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