民数記 31章42−54節
当地から日本に帰国する場合の規制が強化され、帰国後の3日間は検疫所長指定の宿泊施設に滞在し、その後14日間の自主隔離ということになりました。祖国がさらに遠くなった感じですね。
31章を三日に分けて読んでいるのですが、終わりの部分には、ミディアン人との戦いに勝利して分捕り物を得た戦士たちが進んで神へのささげ物を携えて来たということが書いてあります。なぜ彼らがこのようにしたのかについて、戦士たちが一人も欠けていなかったからだとあります。
戦いにおいて一人の犠牲者も出さないということはありえないこと。しかし、彼らはそのありえないことを経験したのです。そこで彼らは、それらのささげ物を「主の前で私たち自身のための宥めとしたい」と言います。この部分を聖書協会共同訳聖書は「主の前で、私たちの命の贖いをするためです」と訳します。戦いでいのちを落とすことがなかったというのは、彼らが主の前に喜んだということではなく、むしろ罪を自覚したということです。
神が行われるみわざは完全。そのことを身をもって経験する時、人は大きな感謝とともに、神の聖さをおぼえ、自分の罪を覚えざるをえない…、そのようなことではなかったかと思うのです。
昨日信仰の大先輩と話をする機会があり、神の義と人間の罪の大きさをこの頃おぼえるということばに、魂の背筋を伸ばすような思いでした。罪を自覚する時に、ささげ物をもって宥めとする必要は私たちにはありませんが、十字架の主イエスのお姿を仰ぎ続ける者でありたいです。