みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

油注がれた方なのだから…

2024年07月16日 | サムエル記第一

サムエル記第一 24章

 日曜日スイスでの礼拝の後、約400キロをドライブして無事帰宅しました。帰路、初めて「ラインの滝」(Rheinfall)を訪ねることができました。いつも標識が気になってはいたのですが、まだ日没も遅いし…ということで決行。夕方5時を過ぎるとチケットを購入しなくても入ることができ、駐車場も6時を過ぎると無料で利用でき、さらには滝の手前に架かる鉄道橋をちょうど列車が通るなど、ぴったりのタイミングでした。

 滝といえば、ダビデがサウルの手を逃れた地の中にエン・ゲディの荒野があります。 「エン」ということばには「泉」、「ゲディ」には「子山羊」という意味があるので、「小さな山羊の泉」です。

 興味深いことに、エン・ゲディについて、23章29節には「エン・ゲディの要害」、24章1節には「エン・ゲディの草原」、2節には『エエリムの岩(山羊の岩)の東」、3節には「羊の群れの囲い場の洞穴」とさまざまな場所が示されています。おそらくダビデは、ここから次の場所、そこからまた違う所とサウルの手を逃れて歩いたのでしょう。

 その洞穴で、ダビデに『千載一遇」のチャンスが訪れます。3000人の精鋭を率いてダビデ殺害の意に燃える当のサウルが、なんと一人でダビデたちが潜む洞穴の中に入って来たのです。この時の家来たちの進言はもっともなこと、「神が与えられた絶好のチャンスです」と勇むような出来事です。

 しかしダビデは、サウルの衣の裾を切り取りはしますが、それ以上のことはしません。そのことさえにも彼は、心を痛めるのです。その理由は、サウルが主に油を注がれた王であるからです。ここでサウルを殺すのは、ダビデが主に逆らうことになるという考えをしっかりと持っていました。

 彼は、主が王としてサウルに油注がれたのだから、彼を王位から退かせるのも主である、という信仰を持っていました。ですから、彼はどんなチャンスが訪れても自らの手でサウルをあやめるようなことはしないのです。徹底的に逃れに逃れるのは、その確信に基づいての行動なのです。

 この後の「王よ」という呼びかけから始まるダビデとサウル王のやりとりは感動的なものです。しかし、ここで二人は通じ合って万事めでたし…とは行きませんでした。

 22節の「サウルは自分の家へ帰り、ダビデとその部下は要害へ上って行った」ということばが印象に残ります。ダビデはこれからもサウルから逃げなければなりません。やがて自分を主が王とするという約束を信じているからこそ…。


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