国吉康雄20作品

2008-06-29 00:00:37 | 美術館・博物館・工芸品
52e1c253.jpg国立近代美術館で国吉康雄を観てから、この画家が妙に気になっていた。たまたま、岡山方面にいたので、覗けば、そこには国吉を中心に展示している一角があった。数えれば、20作品であった。

1889年、岡山市に生まれた彼は、ごく普通の家庭のこどもであり、岡山県立工業高校染織科を突然退学し、1906年日本を離れ、シアトルに向かった理由は、今も謎に包まれている。後に、父親に会いに日本に帰郷したことからして、家族を残しての出国である。一説では、米国へいって、生年を1893年と4つ繰り下げていたことから、徴兵逃れではなかったかとも言われるが、確定的ではない。

そして、当時、反日的な空気が広がっていた米国ではなく、いったんカナダに上陸したのは、米国に入国できなくても、すくなくてもカナダにはいられるという、当時の日本人の一般的「手口」だったそうだ。そして、失業者となり強制送還を恐れ、とりあえず「留学生」の身分を得るために入学したのが美術学校だったことから、彼の画家人生が始まる。思えば、渡米後、語学力が乏しくても、すぐに留学できるのが美術学校ということかもしれない。

52e1c253.jpgその後、パリに留学し、米国に戻った時には、もう米国を代表する画家として地位を築いているのである。彼がパリで誰の影響を受けたのか資料はもってないが、シャガール風の神秘性を感じたり、藤田のような人形のような少年を描いたり、している。米国に戻った頃からは、ワイエスのような薄茶色の落ち着いた画風になる。

しかし、彼も戦争の影響を受けるのである。重病の父の見舞いに日本に来たときは、国内各地で講演やパーティを回ることになる。本来、彼は日本が嫌だから、日本国籍のまま米国で自由主義のアピールをしていたたのだが、レオナルド藤田から、「日本では刺激的なことを言わない方がいい」と事前にアドバイスももらっている。

戦争中は、さいわい西海岸ではなく東海岸で活躍していたため、強制収用所送りにはならなかったものの、活動を制限されていた。戦後になると、まったく異なる画風に変わり、ピンクの「鯉のぼり」などを描く。1853年、胃がんで亡くなるが、病床でもスケッチブックを離さなかったそうだ。彼の晩年の明るい絵画が、その先どこに続いただろうと考えてみるのは、残されたファンの一人一人精一杯のシンパシーだろうか。

52e1c253.jpgそして、実は、現在、すこしやっかいなことがおきている。

つまり、この日本生まれで日本国籍でありながら、ほぼ米国人の国吉康雄の絵画の収集を始めた日本人ということ。その一つが、岡山県立博物館。郷土出身の画家ということから、かなりのコレクションを持っている。そして、もう一つが岡山に本社を置く「ベネッセ」である。旧福武出版。社長の福武某氏がコレクションを作り、自社ビル内の一角に私設の半クローズの美術館を持っていた。

福武と言えば、岩波とともに、書店からの書籍の返品を認めない売切制度で有名だったが、国吉の収集と維持に費用が嵩んでいたのだろうか。とうとう、所有権はベネッセのまま、この岡山県立博物館に寄託することになった。つまり、彼の絵画のかなりの部分が、岡山県立美術館に集まることになる。

52e1c253.jpgその結果、彼の絵画を見ることができるのは、世界中で本の少しの人だけ、ということになっている。岡山にばかりに集めてしまえば、彼の米国での活躍も、いずれ忘れられてしまいかねないわけだ。可愛い子には旅をさせろ、というのは古くからの言い伝えでもあるし、是非、海外、特に米国に出してもらいたいものだ。

思えば、彼が家族を日本において米国に旅立ったのも、そのことわざ通りだったわけだ。




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