きえもの(九螺ささら著)

2020-01-09 00:00:49 | 書評
kemono歌人、九螺ささらのおそらく第三作。もっとも一冊目の『神様の住所』と本著は短歌と散文が混在した形式で、まず「お題」があって、一首あって散文があって、最後に〆の一首となる。そしてお題が70題ほどあり、200ページほどの書籍になっている。まだ読んでいないが二冊目の「ゆめのほとり鳥」は純粋な短歌集とのこと。

そして、タイトルの「きえもの」だが、日本語単語としては「消え物」ということ。見慣れぬコトバだ。例えば三省堂の新明解国語辞典(第六版)には載っていない。純粋の意味でいうと、短い時間にこの世から消えてなくなる物、例えて言うと「消耗品」とか「食料品」とか。歌舞伎の世界では紙吹雪とか破いて捨てる手紙とかの小道具のことを指すらしい。料理カメラマンが被写体を盛って見せるために卵白を塗ったり霧を吹いたりするのも「消え物」。

いきなり余談だが、結婚披露宴とか香典返しとかにカタログギフトが使われることが多いが、結婚の場合、カタログの内容に、以前は食料品はなかったそうだ。「消え」というのは相応しくないとされていたからだそうだ。香典返しにしても、故人の思い出をすぐに消し去るのは、あまりに冷たいのかもしれない。

で、本書の中の「きえもの」は、すべてが食品である。ネクター、ぶどうガム、ラング・ド・シャ、マルメロ、ハチミツ、ゴーフル、羊羹、醤油、ひじき、鳩サブレ―、・・・・

「きえもの」ではなく「くいもの」でも良かっただろうが、今後、食レポ歌人路線を続ける覚悟が必要だろう。

実は、本作、第一作の『神様の住所』を超えていないような気がする(個人的意見)。説明的な散文が重く感じるところがある。文字の切れ味が鋭くないということかな。あるいは、散文に短歌が引き摺られているように感じる。

なぜなのか、考えたのだが、食品についている名前、そして食品そのものの加工品としての存在が、それだけで論理的であり、物語的であり、詩的であるからではないだろうか。

なぜなら、食べ物というのは人類(あるいは全動物)にとって地球上にあらわれた時からこだわり続けたものであるわけだ。ナウマンゾウを棒で叩いて捕まえていた時だって、肉を切り分けで生肉をムシャムシャと食べる行為だって、詩的ではないか。鳩サブレ―の形や色、舌触り、壊れやすさ、かなりの論理と物語があるだろう。食品とその名前があれば、余計な説明は不要という感じがあるのではないだろうか。

短歌に書くべき「自らの想い」の他に「食べ物の持つ固有の価値」が存在して、なんとなく気持ちがザワザワする感じが生じてしまう。

二首を選んでみた。

どうしても雲の部分が食べたくて 雲州みかんに親指を入れる(温州みかん)
*散文の中で、「うんしゅうみかん」は「温州」ではなく「雲州」と書くものと思っていたという錯覚を詠んでいるわけだ。

舌を出すしめしめと思う 神様に知られずに彼の心を盗んだ(ラング・ド・シャ)
解釈は難しいが、焼き上がりのフカフカのクッキーは思わずつまみ食いしたくなる。

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