岸根公園と戦争(2)

2017-08-15 00:00:52 | 市民A
岸根公園は、戦争中は日本軍によって高射砲を設置されていた。

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しかし、昭和20年の敗戦のあとは、米軍に接収されることになる。そして、数年後には広い敷地に何本も低層の建物が並ぶことになる。米軍の極東戦略の中で、この場所に当てはまったのは、「病院」であった。

特に朝鮮戦争勃発により重傷者や死者も増え、岸根公園はもっとも困難な状況を受け入れていた。地元では今でも「篠原池の水は、いつも赤く、血が流されていたからだ」、と言われているが、まさかそういうことはないだろうと思う反面、打ち消す理由もない。

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米軍からは1972年に横浜市に返却されたので、多くの樹目は45年前に植えられたものだろう。当時の状況を残すものはあまり見つからず、隣地との間のコンクリート壁は米軍時代からのものだろうと思われ、意味のよくわからない棒材の突出などもある。

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そして、朝鮮戦争が長期化した結果、多くの戦死者や重症者が、この米軍岸根病院に集まる。米国人の習慣では、戦死者は遺体のまま運ばれることになっていて、そのためにこの病院で傷口を縫い合わせたりといった死体の処理を行っていたそうだ。

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ただ、「だから米軍がいるのは嫌だ」という考え方の人もいれば、当時、この病院で働いていた看護師のように「どこの国籍だろうと、生きるか死ぬかの瀬戸際の人を助けるのは当然」と言われる方もいる。

実際にこういう戦争状況の一部に組み込まれると、良し悪しよりも目の前の問題を片付けるしかなくなる。残念だが。