「レトリック辞典」「日本語修辞辞典」

2008-01-23 00:00:04 | 書評
数年来、枕になっていた二冊をまとめて読む。いずれも野内良三先生というフランス語の教授の方が書かれている。出版社は国書刊行会という、非常にヘビーな本を出しているところで、何しろ、函入りである。さらに辞典である。



しかし、実際のところ、この二冊を辞典として使う人はいないのだろう。実際に文を書くときに、「迂言法」により「修辞的否定」を織り込みながらも「くびき論法」で「転位修飾法」を使おう、とか考えることはない。だいたい、表現というのは、文章の基本構造とそれに論理的アクセントをつけるレトリックからなっている。もちろん、その前に、表現するべき内容が先にないと話しにならないが。大学の文学部の創作などの基礎的な勉強に使うのではないだろうか。

野内先生は、このレトリックに「文彩」という日本語をあてはめている。なんとなく、「美しい日本語」の世界である。

しかし、フランス語でのレトリックには、文章の「修飾(修辞)」という意味だけではなく、「論理性」をも含む意味があるようだ。

実は、この二冊のうち、先に買ったのが」日本語修辞辞典」なのだが、実際の発刊は「レトリック辞典」の方が先(にもかかわらず、買った順に読んで、後で気がついた)。「レトリック辞典」は、もともとフランス語のレトリック辞典を翻訳、出版しようとしたところ、「なんらかの」理由で、出版できなくなったため、「では、日本版で」ということで、古典から現代までの文筆家に例をとり、修辞と論理の二面から論考している。ちょっと堅い。1998年。

一方、日本語修辞辞典は、7年後、2005年の初版である。こちらは、修辞の方にまとを絞って、特に現代作家のレトリック、あるいはくせを解析している。野内先生がご存知かどうかはわからないが、米国でも、一時、ニューヨーカー誌を中心に、レトリック全盛時代があった。ジョン・アップダイクやフィリップ・ロスは比喩を多用するのが大好きだ。

もちろん、修辞は、頑張ればいくつかの論理的パターンに分けることはできるのだろうが、実際の文筆家は、お得意の表現方法を持っていて、それが「文体」となっていく。「文体論」という危険な学問分野があるので、ここには書かないが、「作者の行動が文体を作る」という野間宏のような過激派から、太宰治のように、無頼派たる表現が先にあって、「文体が個人の行動を規定する」という、まったく逆のタイプもある。実際は、その中間なのだろう。たとえば、軟弱派と思われている村上春樹は、その「他人の気持ちに壁土を塗りこめる」ような表現は、作者自身の内面から発現してくるのであり、一方、肉体派と思われている三島由紀夫は、先に文体があったのではないだろうか。

実際、太宰や石川淳は、この本に多く例文を提供している。例文には文末に引用作が明記されているのだが、ページをまたがる場合は文の最初の方は、誰の作かわからないので、「誰が書いたか」想像するのも楽しみであったのだが、奇妙なことに、多くは文体から作者を当てることができる。もっとも、上に書いた作家の作品は過半を読んだことがあるからだ。

ところで、個人的には、文章を書くときにはレトリック多用型である。ある専門家の先生からは、「化学調味料」と言われたことがある。この「化学調味料」という表現は、「味の素」という商品をイメージさせながら、「本物ではない安物を、高級な味と思わせる」という「転喩」という手法である。ただ、実際に高級な味に変えてしまうのか、単に錯覚させるだけなのかは大きな違いであり、その辺が、「化学調味料」と言われて、喜ぶべきか悲しむべきかわからないところなのだろう。

この「しょーと・しょーと・えっせい」では、レトリックを多用したいところを、ジッと我慢している。でもないかな・・