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買ってから撫でるか、撫でてから買うか

2024-04-30 00:00:22 | たび
ひたち海浜公園でネモフィラとチューリップを愛でた後に行こうと思っていたのは、酒烈磯前神社(さかつらいそさきじんじゃ)。宝くじがよく当たる神社として有名だ。具体的には、海浜公園の向かい側にあるジョイフル本田の一階にある宝くじ売り場が開所した時に開所式を磯前神社が行ったそうだ。そして高額当選者が磯前神社にお礼に行ったことから、その後、多くの人が当該売り場と磯前神社を両参りすることになったそうだ。

神社には『撫で亀』といわれる石像があって、それにご利益があるらしい。



ところが、直前に決めた行き先なので、「くじを買ってから撫でるのがいいのか」、「撫でてから買うのがいいのか」よくわからない。物流合理性の観点からは、公園の前の売り場で買ってから神社に行けば、そこで終わりになる。神社の方が南にあるので宿泊先の成田のホテルまでも無駄がない。神社まで車で10分ほどなので先に神社に行くと、また公園前まで戻って、さらに南に行くので往復時間が重複する。もちろんそういう問題ではないのだが。



そして熟考してみると、どちらが先か問題は、奥が深いことに気が付く。もちろん亀に効力があるとした場合だが。

まず、先に買っていると、すでに手元には番号の決まったくじがあるわけだ。くじの番号を変えることはできないから、亀の効力はくじの当選番号を変える力と言うことになる。だいぶ離れた場所だ。

逆に、撫でてからくじを買う場合だが、撫でて効力を得た段階ではまだくじを手に入れてないので、効力は撫でた人間に与えられる。そしてそのまま手を洗わないで、宝くじ売り場に並べば当たりくじを引き当てることができそうだ。

ということで、先に神社に行くことにしたのだが、後で再考してみると、いずれにしても宝くじを買う段階では、まだ当選番号は決まっていないのだから、同じことのような気もしてきた。



高額当選金を得られた場合は、お礼参りに行かないとまずそうなのだが、最高金額だったら自宅からタクシーで往復してもかなり余りそうだ。

チューリップの行方

2024-04-29 00:00:32 | たび
国営ひたち海浜公園では見晴らしの丘のネモフィラ以外では、たまごの森フラワーガーデンではチューリップ畑が広がっている。



普段、あまりみない各色のチューリップが開花している。

世界初の金融バブルがオランダ起こったチューリップの球根だったというのも、こういう怪しげな色合いのチューリップだったのだろうか。日本産の鯉も海外で高額で取引されているのも、同じような事象なのだろうか。



花畑の一角では、既に咲き終わった種類のチューリップの花の剪定が行われていた。球根を太らせ、来年に再利用するための準備かと思い、作業している方に聞いてみると、来年は別の球根を植えるので、この球根は使いません、とのこと。



もったいない限りだ。色が混じったり、生育が悪い球根があるかもしれないが、袋に詰め直して10個1000円くらいで売り出せば購入者は数多くいるだろう。

とはいえ、国営公園ということで「一般入札」ということなのだろうが、業者向けということで、球根1トンで〇〇万円というようになるのだろうか。

国営ひたち海浜公園へ

2024-04-28 00:00:42 | たび
ネモフィラとコキアで有名な国営ひたち海浜公園へ。



ちょうどネモフィラが満開を僅かに過ぎたあたりなのだが、フラワーカレンダーを見ると、4月末には水仙が終り、チューリップとネモフィラが終りかけ、5月の中旬までが空白期間で、その後、バラとポピーに主役が変わるということで、運が悪いと何も咲いてない時期にあたるかもしれない。出発前に確認した方がいいかもしれない。



そして、とにかく人間が多い。ネモフィラ(秋にはコキア)は公園の奥の方、つまり海に近い「みはらしの丘」の斜面をすべて覆っている。丘の頂上に向かって一列に歩いていくわけだ。列に並ぶしかないが、自分の意志で歩いているのか、歩かされているのかよくわからなくなるが、もちろん長く止まることは難しい。



実は、一面にネモフィラだけかと思っていたが、なかには雑草がかなり生えていたり、不均一に生えているところもある。遠くから眺めると見えないものが近づくと見えてしまう。



丘の上の方から海の方を見ると、新港が見えた。そういえば石油会社にいた頃に、「もう少ししたら、ひたちなか市に新港ができて、物流の拠点になり、どんどん船舶がやってきて重油が沢山売れるので船舶用に重油を販売しないか」という話があったことを思いだした。重油を売っても赤字になるだけの話なので、当時は聞き流しただけだっだが、今はどうなのだろう。補助金次第かな。

北淡震災記念公園

2024-03-14 00:00:10 | たび
決して観光地ではないが、地震の記憶ということで、淡路島北部では、はっきりした形で断層のずれが地表に残ったということで、保存施設ができている。



1995年1月17日、六甲山から淡路につながる断層の下、つまり明石海峡の地下16キロを震源として直下型地震が発生。震度7、死者6000人以上の大災害となったが、淡路北部の地表に現れた野島断層が、そのままの形で保存されている。



野島断層は1~2mの横ずれと、1mの縦ずれが同時に起きている。2000年間眠っていた断層だそうだ。六甲山(海抜931m)はもともと海中にあり、南から北へ押し込まれて1000mも持ち上がったようだ。一回の地震で1mずつ高くなるとすると今までに1000回の大地震があり、それが2000年に一回の割だとすると、200万年ということになり、だいたい理解できることになる。地球の歴史からすると、それでも2000分の1。



しかし、本当に大きな地震、よく起きていると思う。阪神淡路大震災の時は村山富市内閣、東日本大震災の時は菅直人内閣と政治的バランスが変った時に震災が起きているのは単に偶然だろうが、そろそろそういう時期になっていているような気もする。

鳴門の渦を見に行く

2024-03-13 00:00:41 | たび
淡路島は島と本州や四国との間が海峡になっている。和歌山との間が広そうに見えるが紀淡海峡(あるいは友ヶ島水道ともいう)で間に4つの横長の島がある。明石との間が明石海峡幅が3.6Km、四国との間が鳴門海峡で幅が1.3Km。

以前、海運会社にいたが、会社所属船は鳴門海峡の航行を禁止していた。幅が狭く、漁船が多いというだけではなく、潮の流れが速く、潮流は最速で10ノット(18.5Km)にもある。通常の瀬戸内海での航行速度が10ノットなので、潮に向かえば前に進まないし、潮に乗れば通常の倍速になりどちらも危険。一日に2回転潮するので、間違えたら大惨事になる。太平洋と瀬戸内海を結ぶには鳴門海峡の方が2時間ほど早いが、リスキーといえる。

鳴門海峡の渦潮を見るには、方法としては観潮船に乗るか、鳴門大橋の下に設置された「渦の道」という徒歩の橋を歩くかになる。その道は徳島県側からなので、淡路島から行くには有料の橋を車で渡らないといけない。地元でレンタカーを借りているので、有料道路の通行料が必要だ。一方、観潮船は淡路からと鳴門市側からの両側から出ている。



ということで、まず淡路島南部の福良港に行って船を確認する。渦潮に巻き込まれてしまう小説があった。エドガー・アラン・ポーだったか。小説の結末は覚えていない。ちょっと嫌になったのは船の名前。『咸臨丸』となっていた。太平洋を渡った船のデザイン盗用の上、鳴門の渦潮1時間2500円とは、ちょっと主義が合わない感じで、歩きの方にする。それに船の上からではなく橋の上からの方が良く見えるのではないかとも思ったわけだ。



そして道すがら立ち寄ったのが、「おっ玉葱」。淡路側から海峡を望む場所だ。淡路島の名産。島に行く前に東京日本橋にある「すもと館」で情報収集した時に、館内で淡路特産の牛丼をいただいたのだが、淡路牛と玉ネギ、そして千光寺にちなんだ千光米で作られた牛丼はチェーン店のものとは別種の料理だった。鶏糞を肥料に使うのが淡路農業のようだ。



そして橋の下の有料駐車場から、凍えるような寒風の中を歩くこと10分で「渦の道」につくが、ここからさらに10分、凍えるようではなく凍り付くような強風のなか、海の上を歩いていく。



そして見たのが、さっきみた咸臨丸。渦潮見るのではなく、走り回って自分で渦潮を作っているようにもみえるが、船上から見るとどうなのだろう。



なんとなくそれっぽいのをいくつか見たが、20から30mの大型渦潮は発見できず。



余りの寒さに、特産品の鳴門金時の焼き芋に救われる。

神話の島

2024-03-12 00:00:04 | たび
淡路島は国生み神話と大いに関係がある。古事記によるとイザナギノミコトとイザナミノミコトの二柱の神が空の上から長い矛で地面をかき混ぜて矛を持ち上げるとしずくがボタンと落ち「おのころ島」になり、そこに両神が着地し、数多くの島を作り始めたと言われる。スプーンからスープがこぼれてテーブルクロスに染みができるような感じだ。

おのずから(自から)凝り固まった島という意味で、淡路島の近くの島ではないかと考えられている。淡路島は本州と同様に地上に降りた神様が作ったことになっているので二次的な島ということになる。




ということで、最初に島の南部の「おのころ島神社」に行く。淡路島は北中南別に、淡路市、洲本市、南あわじ市の三市にわかれ、それぞれ東と西、さして南あわじには南というパートに分かれる。「おのころ島神社」は南の西側。



どちらかというと、自然発生的な地神感がある。神社には神や人ではなく山や岩や森といった天然物を祀るという場合がある。また神話の神様を祀る場合、特定の個人を祀る場合などに分かれるが、ここは神が降臨するより前(あるいは神話が成立する前)の時代から信仰があるのではないだろうか。




日を改めて北部の淡路市(西側)にある「伊弉諾(イザナギ)神宮」へ。こちらの方が堅い感じだ。働き過ぎたイザナギノミコトが余生を過ごしたといわれる神社だ。立派感はこちらの方が上だ。岡山の『吉備津神社』と『吉備津彦神社』のようなのだろう。



夫婦(めおと)大楠という樹齢900年の大楠が、根元で合体してしまったように見える。夫婦大樹というのは楠に限らず杉だったり別種の樹木だったりして夫婦円満の象徴とも言われるが、それぞれの木からすれば、何百年も窮屈な思いをしているとも言える。相手が早く枯れればいいと思っているはずだ。だから夫婦と言われるのかもしれないが。

有馬温泉に蕎麦を食べに行く

2024-03-08 00:00:00 | たび
神戸に行くなら有馬温泉に足を延ばして、ダッタンソバを食べに行こうという気分になる。



到着したのはお昼前で、まず「ねねの橋」を渡る。「ねね」とは秀吉の正妻。秀吉が茶々(淀君)に熱を入れ、申し訳としてねねには有馬温泉に別宅を与えていたそうだ。妻の旅行中に愛人といい思いをしようというのだろうが、晩年には淀君とも有馬に行っている。


温泉の前に『ごんそば』に行く。狙いは韃靼蕎麦(ダッタンソバ)。

韃靼とは、なじみがある?ことばなら、タタールのこと。タタールに生えているソバから作ったもの。



この韃靼蕎麦と普通の十割蕎麦を半々で合盛りして食べることにする。

まず、蕎麦の色はやや黄色いのが韃靼そば。食べ方の注を見ると、
1. 蕎麦になにもつけずに食べる
2. 赤穂の塩をつけて食べる
3. 汁につけて食べる

というのが作法のようだ。



蕎麦の後は蕎麦湯。韃靼そばの蕎麦湯はかなりの黄色。これも作法がある。
4. 蕎麦湯になにも入れずに飲む
5. 赤穂の塩を入れて飲む
6. 汁を入れて飲む

つまり同じだ。


次に温泉。公共の湯は、金の湯と銀の湯だが、ちょうど銀の湯は建物の改修中で休み(もともと知っていたが)



金と言っても金の含有量があるわけではなく、湯が黄色から茶色ということで、鉄分が多いとのこと。錆といってもいい。そして入浴客は若い人が多い。先に上がって着替えしていると、大学生グループの一人が青い顔をして出てきて、更衣室で倒れ込む。足が真っ赤で顔が真っ青。足だけ湯に沈めていたのだろう。貧血というか湯当たりというか。

緊急介抱することになる。すぐに床に寝かせてタオルをかけ他の客に従業員への通報を頼む。意識が戻ったようなので、すぐに立ち上がらないように言ってから立ち去る。金の湯の源泉も近くにあった。



有馬温泉街もかなり賑わっている。画像を撮ろうと思ったが、狭い道路で観光客しか映らないのであきらめる。

神戸中華街が賑やかで驚く

2024-03-07 00:00:34 | たび
日本三大中華街は横浜・神戸・長崎と言われる。長崎は江戸時代には中国人街だったので一番古いが、行ってみると賑やかなことはない。中国料理店が限られた場所に多めにあるということ。横浜中華街は規模が大きく常に人があふれているが、震災や空襲や米軍の街になったり、日本の政治史の縮図のような場所だ。

神戸中華街(別名、南京町)はコロナより前の頃に行った時は閑散としていたので期待していなかったが、人出であふれていた。日本はどうなっているのだろう。得体のしれないバブルの風が吹いているのだろうか。天狗の仕業かもしれない。



当日は、朝食のあと9時間も食事をしなかったので、食べ歩きではなく広東料理店で飲茶をいただくことにする。



料理の名前は、まったく記憶に残っていない(小籠包だけは覚えている)ので画像だけになるが、美味しい中華料理というのは、今まで食べたことがない料理をおいしく食べられることだろうか。そういう意味で初めての食感の料理もあったのだが、口に合う料理だった。さすがに広東料理だ。



食後、北京ダックを食べ歩き、というか共同広場で頂く。しっかりしてよく焼けているし、奥の方には皮ではなく肉の部分も含まれていた。よく、皮だけ食べて、肉はどうなるのだろうと疑問を持っていたが、やはり食べていいのだろう。以前は広場にはゴミ箱があったが、撤去され、購入店のゴミ箱に入れるようになっていた。不届き者がいたのだろう。

灘の生一本

2024-03-06 00:00:10 | たび
関西方面に旅行していた。京都、淡路島、神戸。京都のテーマは紫式部。淡路は純然と観光。神戸には何度も行っているが、移動時間の調整的に個別攻略したいところがいくつか。

ということで、今週は神戸。

まず、最初は、灘の酒蔵。阪神住吉駅の周りでは以前、櫻正宗と菊正宗の見学と試飲はしているので今回は『白鶴資料館』へ。本当は『浜福鶴』優先だったが、スケジュール的に休館日だった。



白鶴酒造は昨年が創業280年。もっとも、酒は平安時代から飲まれていて、『紫式部日記』には、関白藤原道長が、孫が産まれたうれしさに、酒を飲み過ぎて酩酊して宮女たちを冗談で笑わせる場面が書かれているのだが、考証すると真冬のできごとで、熱燗で飲んだに違いないと考えられるそうだ。平安時代は酒を鍋で温めて飲んでいたそうだ。私の想像だがおそらく紫式部も道長と杯を重ねたことがあると思う。



白鶴酒造は1743年(吉宗の時代)に材木商人の治兵衛が灘・御影郷で酒造業を起こしたことによる。異業種進出である。そして4年かけて辿り着いたのが「白鶴」。

灘は江戸の酒飲みの酒蔵となり、海に面している灘は大樽積の樽廻船で江戸に送られていた。江戸へ送るのを下りと呼んでいたため、「灘の生一本」のブランドに適さない品質の落ちる酒は「下らない酒」ということで、「くだらない」という単語の語源になったそうだ。



江戸の人たちは大変な酒飲みで、一人当たり毎日二合平均で消費されていたという推計もあるそうだ。



ところで、無料の試飲だが、ビール工場では缶ビール1本、ウイスキーの工場ではシングル1杯というのが相場だが、当資料館では猪口1杯分というところだろうか。残念。たぶん、運転していることを隠して飲む人間がいるからだろうか。あるいは単に。

若い女子が富山脱走中

2023-12-21 00:00:16 | たび
富山のテレビで聞いたのだが、人口減少の中でも特に若い女子の県外への流失が多いそうだ。手近なところでは隣の石川県の金沢市。そして東京。

原因としては、富山県は工場の誘致が盛んだった結果、若い女性の好む就職先がないということが一因だそうだ。工場勤務ということ。

別の原因だが、アンケートの結果では、「遊ぶところがない」という理由が多いそうだ。確かに美術館や博物館ばかりでは飽きてしまう。

こちらの原因は、日本全国、多くの場所で起こっているのだろう。関東や大阪周辺なら友達と日帰りで遊びに行けばいいだろうが往復新幹線は高いし。市内にホストクラブでも誘致した方がいいのかな。

江戸城腹痛事件と富山の薬売り

2023-12-19 00:00:49 | たび
富山は薬売りで有名だった。昭和の時代でも全国の家庭を回って置き薬を販売していた。各家庭に置いてある薬の減った分だけ販売することになっていた。少し前のビジネスホテルの冷蔵庫のようなもので、飲んだ分だけ払うわけだ。年に一度回ってきて、おまけに紙風船を置いていく。



一年後に訪ねた時に、引っ越しているかもしれないし、家そのものがないかもしれない。ロス率も含んだ単価だったのだろう。



その起源は17世紀後半、富山藩二代藩主の前田正甫(まさとし)の時代。富山藩は越中にあるのだが、藩主の住む富山城は、当時は加賀になっていた。そのため、城を越中にするため、加賀と越中で換地を行ったそうだ。しかし、その結果、良田が加賀の方が多くなり富山は貧しくなる。ということで、産業振興として始めたのが売薬業だったそうだ。

そして、富山の薬が全国区になったのは、ある事件からだった。

江戸城腹痛事件。



時は元禄3年(1690年)12月15日。参勤交代で江戸城大広間で綱吉将軍に歳暮のあいさつへ行った後、ある部屋(大名控室)で陸奥三春藩(福島)藩主の秋田輝季が腹を押さえて苦しんでいた。そこに駆け寄ったのが前田正甫。腰の薬篭の中から『反魂丹』の丸薬を取り出し、一服飲ませると、しばらくして苦しみが去っていった。



それを目撃した多くの大名が丸薬の名を尋ねると、『越中反魂丹』とのこと。そして全国に富山の薬の情報が拡がったそうだ。反魂丹というのは魂が反ってくるという意味で、死んだ人間も生き返る薬という意味だそうだ。11年後に同じく江戸城内で浅野内匠頭の癇癪玉が破裂した。切腹してから飲む薬はない。



富山市内で反魂丹の製造販売をしている池田屋安兵衛商店では、丸薬の製造を公開している。

なお、購入した反魂丹飴だが、舐めてみると悪くはない味だ。死んでから舐めるより、すぐに舐めた方がいいだろう。



高岡は鋳物の街で、藤子不二雄の街

2023-12-08 00:00:02 | たび
高岡の名産と言えば銅の鋳物。400年前からの鉄の鋳物生産が派生し、銅の加工も有名だ。町全体が鋳物生産を分業化しているらしい。



街の中に、ブロンズ像がいくつもある。大きくいえば高岡大仏だってその一つだろう。高岡駅に近いところに鳥獣戯画像があった。

そしてもう一つ有名なのが、マンガ家。藤子不二雄のふるさと。



といっても藤子不二雄は実際には二人の漫画家、藤本弘と安孫子素雄の合作に使われる。このうち藤本弘は高岡出身、安孫子素雄は隣の氷見市出身だが、小学生の時、安孫子が高岡に引っ越した時に知り合う。合作の時の有名作は『お化けのQ太郎』。分立した後。藤本は『ドラえもん』を描き、安孫子も『笑うセールスマン』などを描いている。

駅前にはドラえもん関係者像が描かれている。

国宝瑞龍寺 禅宗の典型的な造り

2023-12-07 00:00:22 | たび
高岡市の観光地の中で、高岡城と対で考えるべきは瑞巌寺。寺院の中で、山門、仏殿、法堂という重要建造物がすべて国宝となっている。



もともと、加賀二代藩主の前田利長が家督を弟の利常に譲った後、金沢から高岡に移動し、高岡城を築城しようとしたものの、江戸幕府の一国一城令により未完に終わったため、利常は利長を弔うために瑞龍寺を建立した。1663年の完成時には寺域は三万六千坪、周囲を水濠で囲み、城のような規模だった。



あいにく雨まじりの天候だったが、落ち着いた雰囲気の中庭など心静かになる場所なのだが、かすかに、鉄道のような音が聞こえる。JR城端線か新幹線の音だろうか。



趣向だと思われるが、山門、仏堂、法堂それぞれ趣向の多いのが屋根であろうか。日本的ではない屋根の勾配である。

海王丸は見るだけ

2023-12-04 00:00:38 | たび
新湊の「きっときと市場」そばのカニ小屋で紅ズワイガニ一匹を食べ、さらに氷見うどんを食べた後、向かったのは、1キロほど先に見える帆船海王丸。全国の商船学校の練習船で、老朽化したあと、新湊港に係船され、海王丸パークとして観光資源になっている。



横浜には帆船日本丸があり、こちらは何回か船内見学しているのだが、徒歩で海王丸に近付くと、日本丸よりも大きいように見えた。実際には両船ともほぼ同じ時期に建造され、姉妹船であり基本的には同じということだったのだが、日本丸の背景には297mのランドマークタワーや大観覧車などがあって、小さく見えるのだろう。

そしてさらに残念なのは、営業していなかったこと。ほぼ一年中乗船できていたのに、訪船した時は定期点検中だった。細かく調べればよかった。



その代わりに、近くに海上保安庁の巡視船が停泊していた。PL41と艦船番号があり、後日確認すると、「あそ」だった。1000トン級。1999年の能登不審船案件の時、高速の不審船に逃亡され、それに対応するために小型の高速艇をはじめとした数隻単位でのユニット戦略が立てられ、その中の一隻として30ノット(時速56キロ)以上のスピードが出るそうだ。

そのため船体の軽量化としてアルミ合金でつくっているそうだ。特に仮想対峙国の関係で、敵艦攻撃能力が高いようだ。(尖閣方面の場合は船速や武装規模よりも船隊の数とか大きさにこだわっていてように感じる。また、海上保安庁には日仏間のプルトニウム輸送船の護衛艦として7000トン前後の高額の大型船が2隻あるが、輸送が1回だけという思惑外れもある。もちろん海上保安庁のせいではないが、後々、臨海公園に展示されることはないだろう)

万葉線に乗る

2023-12-01 00:00:35 | たび
北陸シリーズ2日目は、まず新湊へ。高岡から路面電車の万葉線に乗る。富山に宿を取ったのだが、新湊にいくには高岡まで行ってからブーメランの形のように行かないといけない。この万葉線だが延伸したり短くなったりルートが変わったりと数奇な歴史があり、赤字になった結果、現在は富山県や周辺の市が加わった第三セクターで持ち直したそうだ。



さらに北陸新幹線が富山駅、新高岡駅に停車するようになると、今度はJR西日本が北陸本線を廃止して、富山県が出資の「あいの風とやま鉄道」に譲渡してしまう。したがって富山と金沢の間の在来線はJRではなくなった。さらに、まもなく氷見線、城端線の前述の「あいの風とやま鉄道」への譲渡が決まっていて。残るは高山線の北側(富山県内)だけになる。一両で運航しているようで、県内に在来線にJR線がなくなってしまうことも見えてくる。

この万葉線だが、市街地は道路の上を走り、途中から専用の線路になり、新湊の方にいくと、無人ではあるが、普通の駅になっている。速度が遅いこともあり、高岡市内の街並みを楽しんでいると、妙な文字の看板があった。昼間は営業せず、夜間にバーを営業しているような感じだ。



小さな文字で店名が添えられていて、「あきない」と書かれている。「商い」と言う意味なのか、店主の名前が「秋内」とか「秋野紅」とか・・ 春夏秋冬ではなく春夏冬ということ。