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九份でウロウロ

2024-11-29 00:00:19 | たび
九份は元々金山で日本の鉱山会社も関係しているらしい(明るみに出ないほうがいいのだろうが)。現在はまったくの観光地。九份老街は入り組んだ細い道の両側に店舗が連なっている。夕方から夜にかかった時間なので、灯りが情緒的で、『千と千尋の神隠し』のモデルではないかともいわれているのだが、宮崎駿監督は九份には行ったことがないと言われているようだが、逆に、それでも似ているというのがすごい。



そして、細い階段道を上る観光客のおよそ8割は日本人のように思える。少し広い場所や階段の幅が狭い場所もあり、道の太さが変わるため、全体に人が詰まってしまうのだろう。上り階段で疲れたといって立ち止まることはできない。有名なパイナップルケーキを買った後、散策しているうちに道に迷って方向違いのところに行ってしまったが、町のはずれのほうでも結構人が多い。



途中で「九份駅」があったが、後で確認すると、現在、鉄道はないのだ。



金山があった当時は駅があって、その遺跡なのだろうか。あるいは、この奇怪な町のどこかにタイムトンネルがあって百年前に遡ったのかもしれないが、それならもと来た道を戻らないと現代には帰れないはずだが、道順は異なるがいつの間に元の場所に戻ることができた。(もしかしたら似て非なるアナザーワールドに迷いこんだのかもしれない)

十分で天燈を揚げる

2024-11-28 00:00:03 | たび
十分は台北市の東側、観光地として超有名な九份と同様に金鉱山の町だったが、そのままの町に風情がある。そして、近年、とくに有名なったのがランタン(天燈)を飛ばすこと。



実は、十分には鉄道の駅があり、つまり鉄道がある。ところが、十分の町は日本人を中心として観光客があふれている。この駅だけではなく線路の上でランタン揚げが行われていて、廃線かなと思っていた。



そして目的のランタン屋に行って手続きを行ってランタンに墨と筆で願い事と指名などを書き込む。つまり清水寺の住職が「今年の漢字」を書くように横向きに筆を使うことになる。



自分のランタンを揚げるところは写せないので、赤の他人様の所作を使ってみるが、願い事といっても多すぎて悩む。ともあれ、自分のランタンは威勢よく飛んで行ったのだが、中には黒い煙を漂わせながら上がりきらずに下降していくランタンもある。



帰りがけに、廃線かと思った線路を、警笛を鳴らしながら鉄道車両が走っていった。まあ、ランタン屋壊滅ということではないだろう。

中正記念堂は巨大だった

2024-11-24 00:00:26 | たび
台北を代表する観光スポットの中正記念堂、高さ70m。下から見るとかなり大きい。牛久大仏(120m)を見上げた時と同じような感じだ。中正というのは、建国の父である蒋介石総統の本名。本名は蒋中正というそうで、介石は号のような感じ。例えて言うと水戸黄門の本名は徳川光圀。光圀にあたるのが中正で、黄門にあたるのが介石ということだそうだ。



1975年に蒋介石総統がなくなった後、国民統合の証として建設された。一階には巨大な中正氏の座像がある、政治姿勢として、「倫理」「民主」「科学」の三民主義を掲げていた。次の米国大統領は「不倫」「独裁」「非科学」を基本としているようで、危ない限りだ。



建物の前で有名な衛兵交代式を見せてもらった。少し前は建物の中で式を行っていたそうだが、民進党は個人崇拝を嫌っていて、屋外儀式に変わったそうだ。



よく、民進党は「台湾独立」、国民党は「統一」を目指すといわれるが、国民党の「統一」とは国民党による中国大陸統一ということなので北京寄りというわけではないわけだ。今でも台北は首都ではなく、仮首都で、南京が首都ということらしい。

台北:龍山寺の日常?

2024-11-18 00:00:48 | たび
台北に限らず、日本でも旅行先で早朝から時間を有効に使うには寺社仏閣に行くということがある。まあ、無信心者の利得かもしれないが。

ということで台北で朝の観光スキマ時間に行ったのが『龍山寺』。パワースポットとして有名。東京の浅草寺のようなものかもしれない。17年前に訪台した時の写真に寺院があるのだが、どこなのかもわからない。紙幣代替物を燃やして金運を祈った記憶があるが、効果はわからない。

龍山寺について、急いでガイドブックやSNS情報を見たが、どうも参拝の手順が複雑で、まず右側の売店で線香をもらって境内に入るには左足から入らないといけないとか、5か所のお参りには順序があるとか、地元の人のお賽銭は100元札(500円)が多いとか・・

まず、地下鉄から降り、階段を上って地上に出ると、一瞬、方向を失う。これはいつものことで、先日は名古屋の栄駅で自己迷子になった。今回は交差点で周りを見回すと矢印があった。




そして到着したのは朝9時のほんの数分前。線香を買おうとしたが、それどころではなく人が多いし、何か大集会が行われそうな雰囲気が漂う。本殿前の広場も人が多く、そして突然、全員が歌うように声を合わせて読経が始まる。鳴り物も入り、一気に部外者感がこみあげてくる。
不謹慎ながら、この雰囲気は神宮球場のライト側応援席と似ている。





まあ、意味も解らず祈るふりをしても鉄槌を下されそうなので、こそこそと広場から外れて、参拝だけをすることにする。人が多いので左足ルールも参拝順もどこかに失念。お賽銭はポケットにあった大きなコインを。




後で調べても、その時の光景が、日常の朝9時のものだったのか、特別の日のできごとなのか不明(ということは日常か)。お賽銭に投入したコインは日本だと500円のように見えたが、そういう価値ではなかった。


故宮博物院(台北)など

2024-11-17 12:00:06 | たび
17年ぶりに台湾に行っていた。現在、日本人に一番人気の海外観光先だそうだが、実は殺到する前の昨年末に行く予定だったのだが、・・・

昨年末に予定を具体化するころに、デング熱が大流行して、台北市内は消毒作業が続いていて大変なありさま。

ということで、1年遅らせたら日本人殺到。もしかしたら「またトラ」によって米中間でディールがあって台湾の切り捨てがあるのではないかという思惑を感じているのかもしれない。といっても、領土の譲渡と輸入量の制限を天秤にかけるのは、「永久」と「一時」の交換で、アラスカを売ったロシアみたいな話だろう。




で、宿泊は台北市内の古くて高いホテルではなく、郊外の新北市の板橋という駅の近くの高級ビジネスホテルのような感じ。築5年ぐらいらしいが、トイレの紙をそのまま流せるというのがうれしい。台湾の多くのホテルは下水管が細く、使用済の紙は汚物入れに捨てることになっていることが多い。


しかし、窓から西方を見ると、ずいぶん建物が詰まっている。東京でいうと山手線の外側の目黒とか世田谷といった場所だが、外を歩いても大都会そのもの。新旧が混じり合って入る。




そして故宮博物院。地下鉄とタクシーで行くと、ここは欧米系の観光客があふれている。日本人は胃袋の満足を求め、欧米人は文化とか教養とかで満足しているようだ。とはいえ、日本と同じように「またトラ」のせいかもしれない。

何しろ、蒋介石が大陸から脱出した時に、将来の軍事費の足しになるように古来からの珍品を北京の故宮から運び込んできたわけだ。建物は行李には入らなかったから。

17年前に来た時には、ほとんどが大陸中国からのものだったが、今回見ていると、過去の名品にならった最近の作品も並んでいて、こうして新しい歴史と文化が根を張っているということがわかる。

注目すべきは入場料で、台湾市民は150元、外国人は350元となっていた。1元=5円位なので、1800円位となる。日本の国立の博物館や美術館は国籍問わず2000円が多いわけで、外国人に優しいのか日本人に厳しいのかどちらなのだろう。

所蔵品は30万点というらしく、途方もないわけだ。

館内は写真撮影可能ではあるが、人間を写さず展示品だけを写すことは無理なので掲示しないが、現在、本館の美術品としては最も有名な「白菜(バッタ付き)」だが、白菜の現物サイズのものかと思っていたら、高さ18センチの翡翠を彫ったものだそうだ。石をあれだけ精密に削るのか、と思う。もともとは花嫁の嫁入りの持参品だったそうだ。金持の娘と結婚する男はどういう身分だったのだろうと妙なことが気になる。



東山動物園の人気者は

2024-11-03 00:00:20 | たび
正確には東山動植物園というのだが、今回の名古屋訪問の大目的の一つは「コモドドラゴン」。日本に一頭しかいない貴重な爬虫類。体長2.7m、体重80kg。大きくなると4mになるというのだが。



名前は「タロウ」。ガラス越しの展示だが、最初は腹ばいで動いていなかったのだが、少し見ていると動き出したが、動きが素早い。少しカワイイ顔をしているが、実はイノシシやシカといった人間サイズの動物を襲って食べたりする。動物園の給餌タイムはネズミを与えたりしているようだが、まったく物足りないだろう。



危険度はワニだと思っていいだろう。つまり飼育員は大変だ。哺乳類じゃないので人間に懐く率は低いだろう。動くとギャラリーはざわめくが、こちらにやってくると悲鳴が上がる。

河村前市長の肝入りということだったが、市長は既に代わってしまった。記念として「タロウ」から「たかし」に変えてみたらどうだろうか。



ところで、「タロウ」の前の主役はゴリラの「シャバーニ」。イケメンゴリラとして人気だったが、最近は外に出されていないようだ。どうもゴリラ5頭の中の最長老のメスが体力的に弱っていて、残る4頭の間の精神的な問題が起きているようで、しばらくは共同生活しないような話らしい。


一方、ゴリラ舎の近くにある「フクロテナガサル」のケイジ君だが、檻の中を飛び回っていて、さらに奇妙な鳴き声で来園客を笑わせている。人間のようなゴリラのようなあるいは鳥のような声を出している。それも、いつまでもいつまでもという感じ。今年、最高に笑えた。



「東山動物園 ケイジ」と検索すると、動画で声まで聞こえる。最初は他の猿や鳥の物まねを覚えたのかと思ったが、後で調べると今は亡きメスの個体と二人で掛け合い漫才の様に交互にやっていたそうだ。一人になっても続けているということらしい。千葉市動物園にもフクロテナガザルはいるそうなのだが、一日、数回は鳴くらしい。

徳川園、往時は十倍

2024-10-29 00:00:02 | たび
徳川美術館の隣にあるのが徳川園。日本庭園で中央に大きな池(龍仙湖)があり、池の周囲を周遊するのが基本的散歩コース。鯉は立派だし、園内には滝(龍門の滝)まである。



元々は尾張徳川家の庭園で、第二代光友が隠居所として住むことになり、巨大庭園が造営された。現在の面積は4.5ha(ヘクタール)だが、当時は約44haだったそうだ。



なんと光友がなくなった後、家老の成瀬、石河、渡辺の三家に譲られたのだが、明治22年に再び尾張徳川家の所有になり、昭和6年には19代当主義親氏から名古屋市に譲渡されている。しかし、空襲でほとんどの建造物が焼失、単なる公園となっていたのだが2004年に日本庭園として公園内の公園として復活している。



園内の滝(龍門の滝)は実際には江戸屋敷にあったものが発掘調査の時に発見され、石材類が名古屋に運び込まれて復元された。

なお、園内に「虎仙橋」、「虎の尾」というように「虎」と命名された場所があるが、一括寄付された義親氏の趣味がマレー半島での虎狩りだったことに拠るそうだ。


ところで、日本の名園の多くは江戸時代の有力大名の庭園。岡山の後楽園は池田氏、金沢の兼六園は前田氏、水戸の偕楽園は水戸徳川家、高松の栗林公園は松平家、水前寺公園は細川家など。

岡山の池田家は、幕府との関係がそう良かったわけではないようで、例えば大坂城の城内の図面を隠し持っていたりで、豪華な庭園の存在も秘密にしていて、隠密が近づかないようにしていたそうだ。

ところで、日本三名園の一つの偕楽園について、地元の水戸市では、「世界第二位の広さの都市庭園」と喧伝しているようだ。第一位はニューヨークのセントラルパークの341haで偕楽園は約300haとなっているそうだ。

都市公園というコトバの解釈だが、そもそも水戸がニューヨークと並ぶような都市?という気もしないでもない。水戸よりもずっと大きな仙台市には、647haの「みちのく杜の湖畔公園」があるようだ。そもそも公園の価値は広さではないことは自明だ。

水の宇宙船 名古屋的物体

2024-10-28 00:00:05 | たび
名古屋の真ん中にある、不安定な形のオブジェが「水の宇宙船」。オアシス21という場所の中にある。夜は何色かにライトアップされる。もともと夜でも明るい場所なので、思い切って派手にしたのだろう。



この日は30度だったので、集まっている人たちは平均年齢が20歳位なので、あまり近づく気力がわかなかったが、少し離れてみると、広場の空いている空間に、きっちりはめ込んでいるようにも見え、機械の組み立てのような感じがあるし、このあたりの地下街も地下の複雑な構造の空きスペースに店舗があったり、名古屋駅の周りもそうだが、こういう空間を有効に使うというのが名古屋の人には受けるのだろう。

そういえば、レゴランドもあるし。

ところで、最近特に、名古屋の町に賑やかなものが増えているようで、古くは徳川宗春公や新しくは河村たかし公の好みの町と言うことだろうか。

河村公だが、今回の総選挙では高齢にもかかわらず機を見て衆議院議員のバッジを取り戻したが、民社党から始まり、自民党、日本新党、新進党、自由党、無所属、減税日本、日本保守党と転進。共同党首とは趣向が反対のような気がするので、今後、政権がレゴブロックのように組み直しになるなら、もしかして、再離脱して政権を決める最後の1ピースになる気かもしれない。

熱田神宮に参詣

2024-10-20 00:00:05 | たび
名古屋には何度も行っていたが、いくつかの名所には行ってなかった。今回の名古屋旅行では、それらを中心に回った。



熱田神宮は三種の神器の一つ、草薙剣を祀っていることで知られ、伊勢神宮に次ぐ格の社となっている。

大きさだけでいえば関東の鹿島神宮の方が広いのだろうが、やはり草薙剣の権威は格別ということだろう。



剣に因んで館内には草薙館という展示施設がある。無論、館内には草薙剣はない(はず)。多くは奉納された剣(刀)と思われる。刀剣の類は詳しくないが、武士の二本差しというのは、一本は短刀で、俗説では切腹用ともいわれるが、展示された短刀の中には長刀の七割位の長さのものもあり、戦闘用と思われる。接近戦になった時に相手の鎧を突き通せるように、カーブのない直刀(よろいとおし)が専らだったようだ。



確かに映画「たそがれ清兵衛(2002年)」の中で真田広之演じる井口清兵衛は、長刀の方を質で流してしまったことを隠し、短刀の達人として剣術の指南役を務めていたのだが、短刀が切腹用の30センチくらいだったら、そもそも剣術にはならないだろう。

少し予定よりも時間が余ったので、絵馬の見学をした。

絵馬にかかれるのは7割位が、自己中心的な願い事で、2割位は切迫した願い事(病気が多い)。残る1割以下に考えさせられる案件がある。

今回は2件。


  • これ以上 ヤバいクレームが 入りませんように。
   カスハラなのか、臨家とのもめごとなのか、

  • 7日 はなしあい。うまくいきますように。
   話し合いの内容を、はっきり書かないと、願い事とは認められないと思うが、

庄内へ行かず

2024-08-19 00:00:10 | たび
先月(7月)25日の山形県(庄内地方)を襲った大雨は、県内の罹災家屋が3710棟だったそうだ。地形的山形県の南部から県央を北上し、新庄のあたりから急に向きを変え日本海の鶴岡に流れ込む最上川は、松尾芭蕉が「五月雨を集めてはやし最上川」と読んだ通り県内の豪雨をすべて集めてしまうような構造になっている。

その最上川沿いに人々が住んでいる関係で、今回の豪雨は住宅だけでなく鉄道も道路も破壊してしまった。

そして、実はもうすぐ少人数での庄内地方の小旅行を予定していた。東京方面から山形新幹線で終点の新庄まで行って、車で鶴岡方面まで国道47号線で向かい、途中で最上川の舟下りをして、日本海側の湯野浜温泉で夕陽を堪能、といったプランだったのだが、中止とあいなった。

そもそも国道47号は元々片道一車線のところ、崩落した道路の片側だけ直して交互交通できるのが8月末ということ。何時間かかるかわからない。観光客は復興用のトラックの邪魔になるだろう。さらに最上川の川下りは、観光船の中には大雨で流されて最上川の河原に打ち上げられていたりするし。

ところで、川下りは何社かがやっているが、そのうち1社が乗船場として使っている場所が戸沢村。人口3751人だ。山形県の全市町村には温泉が沸くそうで、こちらにも3つの温泉場があるが、観光スポットとしては、道の駅とざわ高麗館というのがある。韓国風の建物で韓国の物産が買える上、韓国料理が食べられる。予定では冷麺を食べようということだった。



こちらの施設は大雨被害は少なかった上、地元の人の話だと、最上川決壊の危機の時に、緊急避難所に逃げる時間がなかった人は、道の駅に駆け込んで命拾いしたと言われていたようだ。

採算的には不振の時期があったそうで、それで積極的に「KOREA」を宣伝して持ち直していたそうだ。閉館しなくて良かった。

ではなぜ、山形県の戸沢村が韓国なのかということ。特にコリアンタウンがあるわけではない。農業の後継者がなく人口が減る一方で廃村危機が予想されていて、韓国から女性を招いて国際結婚して住民数の確保を図ろうとしたわけだ。それで何とかしても、毎年100人ずつ人口が減っている。一方、韓国でも農業後継者対策で他国の花嫁を誘致しているはずだ。

災害の後の報道では、この道の駅から生中継していた局もあったが、韓国風の建物が一切映らないようにしていた。何を考えているのだろうか。

成田山新勝寺に思い出を重ねる

2024-05-12 00:00:06 | たび
茨城県南部の旅行に行くのに千葉県の成田にあるホテルを出陣基地にしていたので、最終日は成田山新勝寺へお参りに行く。幼少期には千葉に住んでいたので、何回も行っていた、何度も行った理由は、実家が真言宗の寺院の檀家だったことだけではなかった。



駅前から続く参道が終ると山門があって、本堂に行く前に小さな橋があり、両側に小さな池がある。昔のままだ。ただ右側の池にある亀の形をした岩の上には、多くの亀が甲羅干しをしていたはずなのに、そうではない。コインが無数に岩の上に投げられている。コインが当たらないように水の中にいるわけだ。さらに水中の亀を観察すると、すべてがミシシッピー・アカミミガメ(いわゆるミドリガメ)である。人も寺も亀も変ったものだ。変わらないのは岩だけ。



そして、本堂。幼少の時は古い木造の建物で、そのうちピカピカの金色の本堂に変わった記憶がある。すでにピカピカではなくなっているのは世の無常ということだろうか。新しい物はいずれ古び、いずれ滅びるということか。

そして、記憶の中に複雑な感情と共に残っているのが本堂に向かって左側にあった易者の建物。何軒も並んでいて、母親がどれかの易者にはまっていて、何か家庭で決めなければならないことがあると易者の意見を聞きに行くわけだ。宗教にはまるよりはましだと思うが、改築する家の設計とかこどもの学校とか、旅行の行き先とか、い平安時代のような話だ。しかも、親子で意見が対立するときなど、「親の言うことを聞きなさい」としかる親はいるだろうが、「易者さんの言うことを聞きなさい」という親がいるだろうか。



記憶とほぼ同じ場所に広場があって、易者さんが並んでいる場所と土産物がならんでいる場所が向かい合わせになっていた。多くは廃業しているように見えるが開業している数軒の外には、順番で待っている人もいた。



そして、本堂から右奥に進むと成田山公園になっていた。記憶の中では大きな池の中央あたりの畔に食堂があって、行く度に鰻重か海老天重を食べた記憶があった。はたして池は見つかり、歩いていると蒲焼の匂いがしてきた。池の奥にある食事処からだ。記憶の場所とは位置が違うが、おおむね成田山に関する記憶は正確なので、食事処の方が移転したのだろうということにしておく。

日本三名園コンプリート

2024-05-06 00:00:00 | たび
茨城県の旅、最後は水戸の偕楽園。

岡山の後楽園、金沢の兼六園、そして水戸の偕楽園を日本三名園と呼ぶ。岡山の池田藩の秘密庭園だった後楽園にも、前田藩の大庭園だった兼六園にも行ったことはあったが、最後に兼六園が残っていた。



そして感想なのだが、他の二つの庭園とは、かなり感じが違うと思った。三名園と並べるのはどうかなというのは、第一に歴史的に偕楽園を開園したのは幕末の水戸藩主徳川斉昭公と言わるのだが、他の二園は江戸時代初期から代々の藩主が手を入れていた。ということで、規模や趣向に凝りが入っている。またそれぞれの藩の城に隣接し、主に藩主のための庭園という風情だが、そもそも水戸藩は御三家と言うことで、江戸定府ということになっていた。

実際に徳川斉昭公が水戸に住むのは井伊直弼との政争に敗れ、水戸蟄居の処分を受けてからだ。一方、正妻の吉子様は王女であり、江戸に在住中に後の15代将軍慶喜公を含め七人の子女の母になっている(斉昭公は多数の妾を囲い、37人も子がいたそうだが)。



園内は、梅ブロック、竹ブロック、杉ブロックと分かれていて、好文亭といわれる屋敷からは千波湖が眼下に広がる。こういう造りは後楽園にも兼六園にもない。好文亭は城内から側室の女性が景色を楽しみに訪れるという説明になっていたが、殿が江戸定府ということとどう結び付ければいいのかよくわからない。



水戸蟄居中の斉昭公が亡くなった後、明治維新が進行。明治の初期には未亡人の吉子様が居住することになったが、そういうことは、どこにも書かれていないので後で知ることになった。広島原爆の4日前の空襲で焼失した後、再建され、現在に至っている。

大名庭園として三名園に匹敵するとすれば、高松の栗林(りつりん)公園と熊本の水前寺公園かな。かつて9年間だけ存在した日本最高のレベルだった佐賀の観頤荘については、いつか文献で読んでみたいと思っている。

牛久大仏は、とにかく大きい

2024-05-03 00:00:20 | たび
そもそも大仏という言葉は、「大きな仏様」という意味であるが、大きいというのは物理的に大きいというのか、心が大きいという意味なのか、あるいは態度が大きいということなのだろうか。

どうも物理的に大きな仏像を意味するようだ。大部分の大仏は座像だが中には立像もある。たとえば三重県にある純金開運宝珠大観音は高さ33mで金1トンが使われている。1g10,000円とすると100億円だ。大金だが盗まれる心配はあまりない。



それらに比べ牛久大仏は圧倒的に大きい。掌の上に奈良の大仏が乗るそうだ。

高さ120m。1993年に完成。



像の中に構造模型があり、高層ビルと同様に内部は鉄骨組になっていて、体のパート別に銅板で作られ、鉄骨の上にとりつけられているそうだ。近づいてよく見ると継ぎ目が見えるのだが、近づくのは難しい。

像の後ろ側から内部に入り、エレベーターで像の中段から除き窓で外を眺めることができるが、外を見ても周りにはあまり美しい景色はないようだ。

日本三名瀑の一つ、袋田の滝

2024-05-02 07:06:33 | たび
日本三〇というのがあって、それが夜景だったり、庭園だったり。

茨城県には有名な滝がある。それが袋田の滝。「ふくろだ」ではなく「ふくろた」だそうだ。「いばらぎ」ではなく「いばらき」のような感じだ。

日本三名瀑といわれるのは、1、2位が不動で華厳の滝と那智の大滝。3位はいくつか候補があるようだが、自分で行けそうなのは袋田の滝だが、それでもかなり遠い。



やっと町営駐車場に辿り着き、川沿いの道をしばらく進むと滝が見えてくる。



かなりの奇景だ。

華厳の滝や那智の大滝は、川の流れが崖に到達して、水がズドンと落下する感じだが、こちらの滝は岩山から水があふれるというような異常な景色だ。



冬になると、水が凍ってしまうらしい。もっとも極寒の時にここに辿り着くのは容易じゃない。

展望台から滝を見ると、滝のある岩は全体で一つの様にも見える。

大洗海岸に鳥居が

2024-05-01 00:00:59 | たび
宝くじの欲望にかられた人たちの心の平和を満たすべき『酒烈磯前神社』には、同一系の『大洗磯前神社』にも参られるようにと案内があり、宝くじを買った後、大洗海岸に向かう。

酒烈より大洗の方が相当立派だ。大きいし。隣が有名なシーサイドゴルフ場だ。

大洗磯前神社の御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と小彦名命(すくなひこなのみこと)。大己貴命はいわゆる大黒様。皮を剝がされた兎を治療したように、医療関係の神様。小彦名命は一寸法師のモデルで、非常に小さい。これも医薬系で、大己貴命というも一緒で、いわば看護師のような存在だ。

一方、酒烈磯前神社の御祭神は小彦名命だけなので、看護師だけで医者のいない医院のようなものだろうか。



記録に依れば、西暦856年12月29日に大洗の海岸に二神が御降臨されたそうだ。もとは日本創始の頃に日本に来たのだが、そのうちどこかに帰っているうちに日本に疫病が蔓延し、これでは困るということで、再度、御降臨を賜ったわけだ。

おそらく疫病とは天然痘かはしかであっただろうと思われている。838年から839年に帰朝した遣唐使が持ち帰って流行させたと考えられている。

その後、大陸との往来は激減したため、小さな流行を繰り返し、大流行は江戸時代に起こっている。



海岸の岩場に鳥居が立つが、鳥居の前で海水に浸かると完治すると言われている。

なぜ、京都ではなく大洗に降り立ったのかは、誰も教えてくれない。「洗」という文字が良いのかもしれない。病を洗うのは良い行為だが、脳を洗うのは問題があるが。