徳島鉄道風景(新)

昔の徳島の蒸機が尽きて関東中心にしてましたが
戻って来たんで、これからは徳島起点でやってきます。

徳島、鉄道1969年

2008-06-29 22:59:19 | 蒸機時代の徳島で撮ったん

やっと1969年のネガスキャンがそこそこ終わりました。

1969年(昭和44年)は個人的には前年に引き続き伯備線・布原と呉線に遠征、そして望遠レンズ入手が大きな出来事でした。念願の望遠でしたが当時使っていたカメラはキャノンⅦ型という距離計連動型で一眼レフではありません。ファインダーは35㎜・50㎜・RFの切替式、望遠の場合はまずRFに切り替えたファインダーでピントを合わせレンズ本体より読みとった距離をアクセサリーシューに付けた構図用ファインダー(スポーツファインダのようなもの)の距離目盛りをこれに合わせるという作業が必要でした。それでも構図はかなりずれてだいぶ余裕が必要、おまけにマウントはスクリュー式で結果的にはあまり使いませんデシタ。友人の持っているペンタがますます羨ましくなったのもです。

前置きが長くなりましたが鉄道には一大事が

S19690897

上の写真は19691968年8月24日に佐古で撮ったものですが、たまたま私の手元にある当時の鉄友K氏のネガには22日に小松島にいる117号機が写ってイマス。

S19690805

その後29日までの間何度か上のような光景に出くわしました。

S19690899

そして9月を待たずに単独運転開始

S19690808

蒸機を従えての練習運転を確認してから一週間ちょっとでの単独運転開始。布原から帰ってからしばらく徳島で撮っていませんでしたがお盆前から練習運転が始まっていたのかもしれません。

徳島の蒸機終焉は1970年3月末日ですが、高徳線・徳島線の客貨両方とその回送および小松島線貨物は9月にはDE10に置き換わっていました。その後翌年3月まで蒸機で残ったのは

Skippu16

8620の牽く牟岐線通勤列車1往復とC11牽引の小貨物の3列車(と牟岐線列車の小松島入出区回送)デス。というわけで、8月までは徳島で10本以上撮影していますが9月以降年内は10月の1本と大晦日だけです。すっかり効率が悪くなって足が遠のいてしまいました。

雑誌で「最後まで残る蒸機」と言われていたC58が真っ先に全滅、DE10と性能が似てたからだと思いますが。牟岐線のハチロクが残ったのは、友人からの又聞きによると鉄橋強度の関係でDE10が入線出来ないからだそうです。テンダまで含めればハチロクの方が重いんですが・・・

徳島に先駆け、1959年の土讃線多度津・高知間を筆頭に前年1968年の予讃線、この年1月の高知。窪川間まで無煙化が進んでおり小松島は四国の蒸機最後の砦となった感がありました。DF50に追われた高松・高知のC58が徳島・松山・多度津のハチロクを追い出し、前年に予讃線・窪川線から移ってきたC58が続々と小松島に異動してきて去年までハチロク牽引だった徳島線・池田までの通勤列車1往復もこの年にはC58に替わっていたのですが1年位でDE10に替わってしまうとは、もっと撮っておくべきだったと後悔したものです。

1968年3月の小松島配置のC58は9両ですが、ネットで調べると小松島を最終配置区として廃車になったC58は15両もあります。そのぶんハチロクは’68年3月の4両から2両に半減してます。次回からは'69’68年の写真を紹介シマス。

最後は今回のスキャンで見つかったお宝写真

S1969101213

1969年10月13日に小松島で撮った「赤ヒゲ」キハ58-303(たぶん)デス。撮ったのはこれで二度目ですが前回のハーフのネガは行方不明のため貴重なカットになりました。ヒゲ付きはミュージックホン、あるいはミュージックアラームはたまたミュージックサイレン等色んな呼び名があるようですがその音色は聞かずじまいデシタ。

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