一昨年の3月1日は一泊で姨捨から飯田線完乗、そして翌日は四日市に行ってました。
高崎で長野新幹線に乗換、この時が初乗でしたが以来乗ってません。
3月は改正前と言うことで撮り鉄が増える時期ですね。今年の場合は185でしょうが、貨物ではデーデーや66百番台に注目かいな?
この時は時間が合いませんでしたが、ここは貨物も通るらしいんで改めて行ってみたいとこです。
解除されそうですが油断は出来ませんねぇ。今日あたりの数字が底で、気を緩めると直ぐに増えそうです。気兼ねなく撮り鉄に行けるんはいつになるんやら・・・
いい加減昔の写真も飽きて来たんで今回で終わりたいと思います。
1969(昭和44)年3月30日(たぶん)、小松島を発車する521レの回送。例年なら桜も咲く頃ですが。寒そうで暖房用蒸気ホースが未だ付いてます。
こちらは池田行き423レの回送ですね。521レは徳島駅で単純に機回しして先頭に立って下って行きますが、C58は前に書いたとおり、小松島の転車台に乗らんので徳島駅で方転します。
四コマ表記の客車。2両目はスハ32の様です。手前のオハ61は外板ベコベコですが、スハ32はやはり造りが上等なんやなあと思います。
機関庫の横を通過。オハ61の床下を通して見えてる自転車は小生とK野君のものです。
形式写真的にC11の31号機。
順番はめちゃクチャですが、当日の機関庫全景。88号機に人が集って修理中?
こっちの写真では88号機が給炭台の横に居ます。ひょっとしたら別の日かも・・・
今回は訳あって時間がないんでここまで。
次回は昔の写真以外にしたいわ。
2014年2月20日は王子駅付近の跨線橋から通称・王子貨物を撮っていました。
蒸気機関車顔負けの爆煙を吹きながら長大編成を牽いてかなりの勾配を上ってきます。左上は新幹線、右側は東北貨物線(と言うより今は湘南新宿ライン)と京浜東北線。
ほぼ同じ場所で帰りの列車。上の二枚は緑色の跨線橋から撮ったモノです。この跨線橋は複雑な形をした迷路の様な造り。
隅田川方向に去って行きます。直ぐ右下の田端操引上線も長く使われてないはず。地図で見ると、王子貨物の終点だった製紙会社倉庫はマンションになってました。
自粛中シリーズも4回目で蒸機時代の2月写真も出し尽くし、弁当の包み紙で凌ぎます。
だいぶため込んでいたんで、今回は駅弁に多い「○○軒」と付いたヤツだけにしました。
最初は静岡の東海軒。1976(昭和51)年正月なんで帰省が終わって帰京する途中かな。
名前はよく似た小田原の東華軒。さっきの東海軒と言い、ATOKでは一発変換してくれん・・・この弁当は今でも健在。
これは絵じゃなくて写真です。やっぱり絵の方が駅弁らしいし、写ってる方々もヤル気なさそうな表情なのが気になる。
同じ東華軒の別の弁当。いかにも駅弁と言う風情。
もうひとつ「と」で始まる近所の桃中軒(これはATOKに載っとる!)。沼津や三島で駅そばもやってますね。
ここも鯛めしやってました。鶏めしとか鯛めしは多かったですね。
値段が100円も違う・・・その差は不明。
いきなり舞鶴へ。鶴寿軒は西舞鶴駅が本拠の様ですが、これを買ったのは天橋立駅。
こっちは幕の内。たぶん家内と旅行したときのヤツで、家内はウナギが嫌いなんで幕の内にしたんだろうと思います。
これは大宮なんですが、聞いたこともない。そもそもいつ買ったのか全く記憶に無い。
名前だけ見たら九州か四国の様に感じますが、なぜか東海道本線草津駅。
東北で「軒」が付く弁当屋さんと言えばこちら。
同じ伯養軒でもこちらは青森支店。食材は秋田名物やないんか?いい日旅立ちの頃では駅弁も五百円以上が普通になってますね。先日、NHK(たぶん)の番組で「いい日旅立ち」はスポンサーの日旅と日立に配慮したからと聞き感心しました。
大阪のこちらも忘れたらアカン。
小生は福岡で4年暮らしたことがありますが、あそこ「かしわ」がホンマに美味しい。駅ビルの中にあるような店でもなんか美味しいのです。
こちらも現役みたいです。鎌倉にでも行ったときかなぁ。
幕の内が五百円と言うと今のコンビニ弁当と同じくらい。当時の駅弁が割高だったんか、今のコンビニ弁当が安いんか?
軒の付く店のが無くなったんで番外編。徳島駅のヤツです。今は徳島駅では絶滅したんか?
そろそろシーズン突入。もちろん小生がこんなハイレベルなとこ行ける訳ではなく、高校時代の友人K井君の受験に付き添っただけです。
もひとつ、京都の喫茶店。今はどうかしりませんが、この叡電出町柳と言う場所が格好ええんです。市電があった頃の「出町柳電停前」と言う様な表示の仕方もエエですね。
また新幹線車内のハンバーグ弁当、今回は日本食堂版。
東京駅の日本食堂の、それも幕の内と言う普通の普通みたいな弁当。東京駅の日食さんの弁当と言えば、真っ先に「チキン弁当」が思い浮かびます。散々食べたのに記録は全く残ってません。日本食堂は国鉄分社化と同時に各JR系列に分かれたようで、今でも受け継がれてどこかで売られてるみたいです。
ダラダラと書いて来ましたが、さて解除されるかんか・・・次回はどないしょう?
引き籠もっての断捨離成果から一枚。小生が初めて新幹線車内で買った弁当(たぶん)。当時は新幹線や乗るもんでない、と思ってたんで、専ら鷲羽+銀河を使ってたんですが、この時初めて夜行鷲羽+新幹線を使った様な気がします。あの頃鷲羽は夜行でも季節臨を入れ2往復ありました。
2014年2月12日の赤羽駅。夜中に小生以外にも撮り鉄が居ます。
待っとったんはこれ。翌月の改正で定期運用終了でした。
もう一息、と言うところまでは来てるようですが、ここで気ぃ抜いたらアカンので自粛続行中。
これはお気に入りの一枚。1968(昭和43)年2月、市役所前で撮ったヤツです。過去に何度も掲載してますがね。線路際に雪が残ってて、寒いようで煙がイイ感じに流れてます。右後ろは文化センター、左端にはハエ叩きも現役でした。
ここからは1970(昭和45)年2月の写真になります。もう翌月の改正で徳島の蒸機も全廃になると言う時期の小松島。
機関庫の中のピットに入って撮ってます。この頃稼働してるのはハチロクとC11が各1両で、庫の中は完全に火を落とした休車や廃車待ちの置き場になっていました。
区名札も入ってません。記録を見ると、書類上はこの年の1月で廃車になってるようです。
この日煙を上げていたのはこの機だけ。タムロンの望遠レンズを使い始めてますが、距離計連動式の欠点を理解しておらず、ギリギリに構図して下が切れてます。
変わった化粧煙突の先に火の粉止めを載せた機関車で、長野から来たヤツです。
ネガの日付は同じなんですが明らかに調子が違うんで別の日かもしれません。休車札が入ってるしメインロッドは外されてます。
この階調はまたコピー用フィルムだと思います。
煙のカンジでスローシャッターの様ですからASA32(たぶん?)のコピー用でしょうね。
この機は早くから保存の話が出ていてキレイに化粧されていました。
こちらは庫外。この機は現在も城山麓で保存中のはず。見えにくいですが、製造が「日船」(=日立造船)となってるところに古さを感じます。
こちらも日車一号機として保存されてるはず。多度津が検修したハチロクは区名札の下に載せ替えたボイラー摘出機の番号を貼ってあるんですが、この写真では読めませんね。
ここは機関庫の裏、転車台の先です。58623とC58-295が置かれています。どちらも書類上は廃車済みで、保存予定のため留置してるところです。
順番がもうめちゃくちゃですみません。中田を出た521レの回送が勝浦川鉄橋を渡ろうとしてるところ。この頃の55号線は津田から論田を通っていたんで、こっちは裏道みたいなカンジでした。
なんか毎回同じ構図の写真載せてますが、地蔵橋を出た521レが勝浦川鉄橋に向けて築堤を駆け上がって来るところです。
ここは徳島では割とよく使われる場所で、鉄道ファン誌に御大が撮ったデーテン牽引列車の写真が載ったのを見たことあります。
ハチロクはこうしてみるとやはり旅客機ですねぇ、客車牽引が似合います。
汽車ぽっぽと言うカンジです。土手の道路は未だ未舗装だったと思います。
今度は犬山。またコピー用フィルムで、C11は31号機か66号機のいずれかの様です。
直ぐ先が園瀬川鉄橋。桑野発の貨物だと思いますが、なかなかの貨物量です。
別の日ですね、珍しく縦位置で撮ってます。
また小松島。後ろには既にデーテンが居ます。
上の写真で左に居るハチロクに上って撮ってます。
更に庫の中でもテンダ越しに撮影。許可を貰ってる訳では無く、黙認されていたと言う状態です。エエ時代でしたわ。
1号と14号は石炭の種類でしょうか?かの宇野賢吉様の本では三池炭が最高だったとありました。
昔は結構本数多かった。
この日の521レ担当機。78680はシールドビームやなかったんや、と再認識。
やはり望遠で下が切れてますね。
一眼レフを手に入れるのは半年後くらいだったと思います。
回送の発車準備完了。本屋寄りのデーテン牽引は、池田行き423レの回送だと思います。
これで2月の写真は全部載せたんで次回はどないしょうか・・・
この春の初菜の花。まだ史上最速と言われた春一番の吹く前でしたが、敏感に春を感じ取っているようです。いやぁこう言うの見るとうれしくなります。もうちょっと辛抱じゃぁ。
ハナシは変わりますが、関東では電線に↑こういうのが付いてるのを時々見かけます。最初は黒いのが疑似鳥で、鳥除けなんやろなぁと思っていました。
が、よく見ると樹脂製と思われる黒いモノの上に細い線が張られているんです。通信用あるいは制御用の線を添付しとんかな?などと考えていましたが、これらが付いた電柱付近に大量の鳥の糞があるのに気づき、やはり鳥除けやなと。
検索すると、この細い線で鳥が止まれなくしてる様です。
小鳥、と言えば可愛く感じますが鳩や椋鳥クラスではエライ迷惑。ウチも昔、ベランダに鳩除けネット張ったことがありました。共存するんは難しいですね。
案の定、延長されまして何の補償も無いまま自粛も延長です。
丁度一年前の今日は浜川崎に行ってました。その頃既に新型感染症は話題になってましたが、流感と同程度くらいと言う認識しかありませんでした。
宇タ発の海コン列車、今も走ってるハズですが全然見てない。
この頃の注目は、翌月の改正で無くなるとことが発表されていた石炭列車。ここから撮れるかいなと残土列車で試してみたんですわ。
この日は昭和駅横でデーテン牽引を先ず撮ります。
石炭列車は改正前の早い時期に運転されなくなった様で、この時撮っておいて正解でした。
浜川崎からの65牽引は渡田踏切で。浜川崎は一日中楽しめる良い場所です、また行きたいわぁ。
本題の昔の写真は今回1969(昭和44)年2月に撮ったもんです。
犬山の切り通しを抜けて園瀬川鉄橋への築堤を駆け上がって行くところです。
前照灯の形状から31号機と特定出来ます。
後追いして、園瀬川鉄橋南端に差し掛かってます。
背景は眉山の裏側。後ろから2両目の客車は例のオハ41-455か356~358の様です。車内照明が蛍光灯で明るいので分かります。
写真の順番が逆ですが、こちらは牟岐行き521レ。地蔵橋で先の425レ回送と交換していました。
地図で見ると、今はこの辺でごっつい道路を越えてる様です。たまに帰省しても長いことこっちの方には行とらんなぁ。
まったく順不同。これは前回と同じく文化センター裏で521レです。2月の写真は少ないんでピンボケだろが何だろが全部載せます。
今度は小松島です。西日を浴びるC11の137号機。徳島蒸機の最後まで活躍してました。
ネガの記録では2月2日になってました。検索するとやはり日曜日でした。
そして小生が撮った徳島の蒸機の中で一番格好いいと思ってるC58の295号機です。
高松と高知にDF50が揃ったのが1955年、295号機は四国の振り出しが高松で松山への異動時期は不明ですが、1964年には松山に居る記録がありますから、やはり土讃線無煙化で松山へ、そして松山へのデーテン配置で小松島に来たんだろうと思います。
この頃は車体上部に厚く積もった煤やシンダが凄みと言うか強者と言うカンジを引き立てています。
C11が貨物を牽いて発車するところ。右手、踏切待ちしてるバスの向こうに小松島駅(本駅)駅舎があり、左手先に小松島港駅がありました。
31号機が牽いてますから、先の園瀬川の写真とは別の日ですね。
前回も書きましたが、この小松島線貨物は不定期だっと思います。既に小松島では貨物の取扱はほとんどトラックに移行していたハズで、繋いでる貨車は客貨車支区で検修された出場車だろうと思います。
最後尾のワフ。四国島内限定の黄帯(いや、白帯だったかも)を巻いています。と言うことは、一段リンク装備車で、小さく「ロ」の表記があります。
295号機が逆行で牽いて行くのは池田行き423レの回送。テンダの端に掛けられた暖房用ホースが冬場の証し。
今度は勝浦川鉄橋の地蔵橋方です。
黒く潰れてナンバーが読めませんが、炭庫の形状から66号機か31号機のいずれかでしょう。
C58の逆行重連が牽く池田行き423レの回送。丁度機関車が勝浦川鉄橋を渡り終えたところです。
小松島の転車台は小さくてC58は乗れず、徳島-小松島間のC58は上下とも小松島方を向いていました。この423レ担当機も徳島の転車台で方転します。
西日を浴びながら地蔵橋へ土手を下って行きます。この回送には出区するC58がたまに付いて重連になりました。この前年まで423レはハチロクだったんで、逆行C58+正向ハチロクの顔を突き合わせた重連が見られました。
もう暫く我慢して自粛続行、次回もこんなカンジで行くことになりそうです。