徳島鉄道風景(新)

昔の徳島の蒸機が尽きて関東中心にしてましたが
戻って来たんで、これからは徳島起点でやってきます。

池田駅の周りで

2021-09-26 21:50:21 | 土讃線


今日は彼岸の明け。お墓参りに行った日は空だけ見れば秋でした。暑さも今日で終わればいいんですが。


身内のお墓にお参りした帰り、時間があったので鮎喰川の所まで歩きました。先に見えるのが徳島線の鉄橋。来たこと無いんですが、なかなか良さそうなカンジで今度いっぺん来てみましょう。


ついでに徳大病院前で歩いて、この旅館を晴天で撮り直し。


法令の関係で宿泊施設としては営業してないそうです。


その後、バスを待ってると県立病院からドクターヘリが発進するところに遭遇。頼もしい。



毎週末の巡回先のひとつであるママ鉄よしの様ツイッタで、ご子息の子鉄さんの撮り鉄に付き合ったと言う場所が出ていて、良さそうに見えたんでストリートビューで検索して行ってみました。


線路沿いに鳥居があって、たぶん池田駅から歩ける範囲なんでここだと思います。踏切名は杉尾踏切。


池田方はこんなカンジ。


たぶんメインはこっちの佃方だと思います。


もちろん参拝。横に墓地があって、お彼岸なんで参拝者の車が絶えず。


立派な神社でした。やはり杉の古木を見ると厳かな気持ちになります。


吉野川の対岸に連なる山で目に付く白い建物。ポツンと一軒家って言う番組がありますが、徳島はよく出ますね。


その後、山側を通って駅の方に戻ります。神社の直ぐ手前まで引上線?が来ています。右の勾配がある線が本線。


なかなか趣深い所で、また寄ってみたい。


そのまま進んで駅構内が見渡せる所に出ます。ここは線路を潜る道があるところで、コンデジ時代にも来たことがあり、撮りにくい場所やと言うことは分かっとったんですが、ちょうど時間なんで黄色アンパンマン。


先頭付近がさっきの引上線終端付近。蒸機を気動車に代えるのを四国では「無煙化」と言ってましたが、これでも蒸機よりはマシになったと言うことです。


直ぐ後を追って450D。


こっちも負けてない。


更に山側を進んでホームの裏手付近。


結局これと言って撮影向きの場所は見つからないまま、駅高知方の踏切に来ました。停車中の1500は多分437Dで着いたヤツだと思います。この列車は途中の長時間停車のせいで、徳島-池田間に2時間22分を要します。


踏切から更に高知方に進んでカーブしながら道路を潜る所。下には逆に線路を潜る通路もある立体交差。


斜面を登っていくと駅構内が見渡せます。模型のレイアウトを見てるようなカンジです。


ここから見ると、池田の街は吉野川が削った河岸段丘にあるのが分かります。


ここも撮影にはイマイチでしたが38Dと


反対側で赤アンパンマンは撮りました。フェンスの中は駐車場の様で、入って撮りたいのをグッと我慢。


ストリートビューでこの辺を見るとフェンスにしがみついて撮ってる鉄が写ってました。


高知方が良くなかったんで、結局駅を一回りしたカンジで駅横の公園から35Dと40Dの交換。


南風は池田付近で上下が交差し、交換駅は大概池田で箸蔵や佃もあります。


昼食は駅前アーケードから横に入った通りにある


こちらで定食をと思っていたんですが定休日でした。


そば饅頭を買おうと思っていたこちらもお休み。ここは先日妄想トレインにも出てました。


で、入ったのはJR系宿泊施設に併設されたレストラン。


出来た時は土讃線も外人観光客が溢れていた頃。今はどこも閑散として大変そうです。


半田素麺のセットは美味しかったですが、ちょっと店内過剰装飾な気がします。


この店があるんは駅前アーケード「CRE」です。


CREとはCentral Road Ekimaeですよ。以前、このアーケードは撤去される様なウワサもあったんですが未だ存続していて感心します。


さて、食後は何処で撮ろうか迷ったあげく、また高知方の踏切へ来ました。斜面に柵が続いてる所がさっき駅の俯瞰をした所です。


この日は千年物語も運転されてました。女性客多し、これじゃジジイは乗りにくいなぁ。


ゆっくりと発車。


高知方の緑の車両は土讃線では迷彩塗装みたいで目立たん。


185も加速を始めると出ますね。


キロハを先頭に黄色アンパンマン。高知方は幌が付いて精悍な感じで好みです。


今春の改正で特急が減便されたんで、最近はこっち方面に来ると464Dで帰ることにしてます。池田発阿波海南行きの長距離列車。


ホームから、背後の山の中腹に見える大きな建物を望遠。なんかの公共施設か・・・


入れ違いに到着するトロッコを車内から撮っておしまいです。
さあ、そろそろ越境撮影できるかいな。









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スキャンした昔の写真

2021-09-19 22:22:10 | 蒸機を撮んりょった頃に徳島でな


台風一過の晴天を期待したのに雲多し。でもまあ、徳島を通過したわりには雨戸も閉めずに凌げましから良かった。


ネタ不足で食べ物のハナシも載せます。


徳島で有名な系統の蕎麦屋。いつも行ってる新町橋袂と、この前初めて行った西新町以外にも富田町にあるのを偶然発見、先日散髪の帰りに予定していたはなや食堂がコロナで臨時休業だったんで、足を延ばして寄ってみました。


格子戸と観音竹や棕櫚竹は蕎麦屋の必須アイテム。


ここはセットもあって、今回は親子丼と温い蕎麦のセットにしてみました。蕎麦はやはりこちらの系統で美味しいし、親子丼も丁寧な造りで久々に良い店に出会った気がしました。今度は愚妻も連れて来ましょう。


もともと夏らしい晴れが無いまま9月に入り、今度は迷走してきた台風が来て二週間撮り鉄してません。なんで最近続けてる昔のネガからのスキャンで非鉄のヤツを少々。


最初は小松島。1967(昭和42)年の夏、当時新型だったくも級護衛艦が小松島に来たと言うので行ってきたときのモノです。確か同型二隻で来て、乗船は出来んかったと思います。対潜重視の艦で、自衛艦で初めてアスロックを積んだクラスです。上の写真は自衛艦じゃなくて材木運んできた貨物船ですよ。


これはその時撮った巡視船。あさちどりで検索しましたが該当無し。300トン前後のタイプに当てはまりそうですが、巡視船は時々名前変えるんで分かりませんね。


巡視船は後檣が高くて昔の巡洋艦みたいで格好いいです。左の倉庫の裏手に小松島機関区からの貨物線が来ていたハズ。なんで撮っとかんかったか悔やまれます。


阿摂航路の客船。外見はまさに関西汽船らしいスタイル。ピントが甘いんで船尾の名前が読めません。1967年10月号の時刻表では、小松島-阪神航路は阿波国共同汽船との運航で太平丸とあかつき丸と言う千トン級の船が就航してる様です。これも検索するとあかね丸がよく似てる気がします。


これは南海汽船の鳴門丸でしょう。当初南海丸と言い、海難事故で沈んだ船を引き上げて改名しています。真冬の時化の夜に三角波にやられて大勢の犠牲者が出ました。
この船は五百トン弱で、関西汽船の半分で揺れるんですが和歌山は大阪に比べて海上の時間が短いと言う理由で、子供の頃に何度か大阪の親戚に行ったときにはいつも南海汽船でした。二等船室は桟敷席で丸窓は海面に近くて波が目の前なんは怖かったです。それでも、生まれて初めて乗った「電車」は南海電車、初めて乗ったエスカレーターは難波高島屋等、楽しい思い出の方が多いです。


船が続きます。ここは新町川河口で深日からのフェリーが発着する岸壁です。遠方右手は津田の海岸で、この頃既に海水浴場としてはダメになっていたと思います。中央は浚渫船で、その右手の小船に注目。


今だとこんなカンジ。二年前くらいに撮った写真で、現在は橋が完成してますね。末広に在ったフェリーの岸壁は沖洲川の向こうに移転しました。


今は元フェリー岸壁はファーストフードの店舗になってますね。


さっきの船が真横に来ました。阿波国共同汽船のあき丸、あきは安芸ではなく阿波と紀伊の頭文字をとってると思います。4百トン弱の客貨船ですが、ちゃんと一等船室もありました。小松島航路の船は純粋な客船でしたが、こっちは貨客船です。


当時の時刻表を見ると、大阪-徳島の一等は660円。大阪を12時に出て17時半に徳島に着く便があるんで、たぶんそれだと思います。


今はこの辺だと思うんですが、背景の山並みも特徴がなくて特定出来ません。


新町川を遡上してかちどき橋袂にあった岸壁に向かいます。当時はこの辺でも材木の筏が見えます。


上の写真で眉山の手前に石油タンクが写ってますが、今でも錆びた状態で残ってるこれだろうと思います。


これは少し前に万代埠頭の先の方に進んで見たときに撮ったヤツ。直ぐ先は結婚式場になってます。


この頃、向こう岸の中央付近は水産埠頭で漁船が多く泊まってました。今なら遠洋漁船は大概あき丸より大きいですが、当時は39トン型でマリアナ近海まで行ってたそうです。


眉山のカンジから今ならこの辺かなと思います。この辺も川の両岸ともマンションが増えて来ました。


次は寺島川。今回のスキャンで楽しみにしていたのがここと、小松島駅の奥。小松島駅の奥で撮った記憶のあるキニ04は出て来ませんでした。
さて、まだ水があった頃の寺島川。立体交差は既に完成してるんで、お城のお濠とは寸断されています。杭がたくさん打ってありますが、以前は材木が筏で運ばれて貯木されてました。向こう側の建物は左から順に、自治会館・市役所旧庁舎・徳新本社、跨線橋を挟んで文化センター・旧東警察署です。


今だとだいたいこの辺かと思います。寺島川は主に新町川を浚渫した土で埋め立てられ公園や東署(これも中央署に移転して現在解体中)が建ちました。木立の向こうは左端が千秋閣(旧・自治会館)とその隣が市役所です。


市役所前の旧徳島橋の所にある跨線橋から駅方向を見たところ。右端の文化センター自転車置き場からよく撮りました。


現在。夾竹桃は昔から在ったようですが、ワシントン椰子は無かったんですよ。文化センター跡地も新施設建設の準備が始まった様です。


写真が少ないので追加。寺島川沿い通りから東に抜ける通りで、右手は今東消防署がある辺りだと思います。左端のブルーバードが出ようとしてる通りが現在の11号線。あの頃は板塀で囲まれた家が多かったです。


市役所前を通過した521レが新町川の鉄橋に向かっています。線路の向こう側が寺島川。この左後ろの池添蒲鉾店を含め、この辺はあんまり変わってないと思います。昔はこの線路沿いに魚が干してあって蠅が多いところでした。


上の写真の場所から富田橋の方を見たところ。富田橋の向こうで建設会館のネオンが目立ってます。

列車が写った写真はまた別にまとめます。











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佃に行ってみた

2021-09-12 22:05:43 | 土讃線


蝉の声も聞かんようになりました。はっきりせん天気が続いて、このまま夏が終わるんか?電気代が埼玉時代の倍くらいになりました。夏前はそうでもなかったんで冷房使いすぎなんか・・・


類似品。どれも柑橘系の香辛料で、右端のは愚妻が築地本願寺の食堂で見て以来使ってるヤツ。


徳島では柑橘系は本場と言うことで似たようなのがありました。


どれも工夫してる様ですが、今の時期は生のスダチ掛けるんが一番ですね。




前に箸蔵へ行ったとき、佃もいっぺん寄ってみたいな思ったのを実行。奥が池田で、吉野川を挟んだ右手の山が箸蔵の辺り。


34Dを駅横の観音堂踏切から。今回も徳島線始発で来てたんで4220Dや剣山一号も撮れるんですが電池不調でダメでした。サードパーティの電池を入れてたんですが、一瞬点いて直ぐ消える。幸い予備で正規品を持ってきてたんで助かりました。まあ、正規品に比べると異様に安かったんで使い捨てみたいなもんか。


次の31D+2003Dは吉野川鉄橋手前で。この辺はまだコンデジ時代に来たことがあります。


長い編成なのに場所選びを失敗。


更に失敗が続きます。コロナ減便が再開されて、剣山も一往復減になってましたが、対象列車を間違えてのんびりしてたら踏切が鳴り出して焦りました。


この4号は運転中だったんです。順光なのにもったいない。


さて、この日の主眼は池田方に初めて進むことです。左側に線路が走ってます。


しばらく進むと構内が終わる辺りに踏切があり、36Dの時間になったんでここで撮ります。


夏でも元気いっぱい、ってカンジ。


暫くすると対岸を箸蔵に向かって上って行く列車がチラッと見えます。わかるかなぁ・・・


続いて徳島行き450D。ワンマンではありません。


徳島行きの列車はこの450Dの後は4006Dが間引きされてるんで13時過ぎの464Dまで4時間近く無いと言う悲惨な状況。


撮ったのは池田寄りの端にある吉本踏切。道路の向かいのお宅の立派な木は桜じゃないかと思うので、花の季節にまた来てみたい。


ここの駅方向は古枕木の柵や瓦屋根の家並みでイイ感じですが、遠方の高速道路高架がちょっと残念。


更に進んで勝手踏切で撮れそうな所あったので山側から33D。


ここは谷側に神社があって、参道になってるようで192号の下を潜る狭いトンネルも接続してました。


その先で土讃線と192号が場所を入れ換え。


その後は192号に上って駅の方に戻って来ました。192号には案内板があり、歩道から下に降りる立派な階段もあるんですが、降りた先が行き止まりでホームには入れません。昔は行けたのか、それとも元来非常用として作られた物なんか?


この階段途中からの構図がなかなかええんで、ここで撮ることにしました。これは池田方を見たところ。


目の前にホームがありますが行けず。


先ずは35D。これでもトリミングしてるんですが、小生のズームでは不足ですね。


約10分後に40D。


一線スルー駅なんで土讃線の通列車はすべて駅舎側を通ります。


その後15分くらいで千年物語が来るんで、192号を廻って朝の場所へ。


なんとか編成全部入れようとしたんですがイマイチ。


盛大にタイフォンを鳴らして通過。だれか手振ってたんかな。


20分後には黄色アンパンマンがもう岡山から戻って来ました。


この37Dは佃で42Dの通過待ち。これは開いてる観音堂踏切から。


出来れば反対側から待避中の37Dも入れたいところですが、信号機器が邪魔でアカンのですよ。


徳島に帰る464Dに備えて駅に戻り、駅舎脇から4229Dです。朝8時過ぎに坪尻へ行くとこの列車まで各停はありません。


列車番号からするとワンマン列車ですが、前回箸蔵で見たときと同じく女性車掌さんが乗務してました。ひょっとして車掌業務ではなく乗客案内係なんかとも思いましたが、ワンマン表示が出てないんで、やはり車掌さんなんでしょう。


この日はトロッコ運転日でした。なんか大勢の方に撮られたようで恥ずかしい。。。


指定席券さえ買えば乗れるせいか乗車率良さそう。この藍色はエエ色ですね、全面塗りのが出てくれんかなぁ。


二時間半掛けて帰着。徳島は西日が格別暑いんですわ。この色は夏に見るもんでないと思います。
さて、もう県内の撮り鉄は行きたいとこが無くなってきました。








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宇野からの帰りに高松で、1967年8月

2021-09-05 22:40:49 | 県外(糸崎、布原 ほか)


9月の写真はキハユニ15で行きます。この時期に撮った写真を現在スキャン中ですが、これはかなり前にスキャンしていて既に記事として掲載済み。キハユニ15は四国では徳島のみに配置で、5と12が居た様です。キハユニ15は他の写真で徳島本線で運用されていた様ですが、最近のスキャンでは1967年の写真では牟岐線・鍛冶屋原線の客車列車にはオハニ61が繋がれているのがあり(毎回ではない)、高徳本線ではマニ36や60が、更に気動車列車にはキユニ17や15が運用されていたようです。この写真では、後ろ三両は皆キハ20で座席を利用するならキハユニ15は避けるのべき。座席間隔は狭いし肘掛け無しでたしかビニール貼りのシート、台車は防振ゴムだけのDT19。今なら興味本位で乗ってみたくはありますが。


前からそうですが、徳島で暮らすようになって一層通販依存が高まりました。大変ありがたい仕組みなんですが、最近はちょっと横柄な気がしてます。確実に受け取れて、配送の方にも負担にならん様にと日時指定しとんのに先方の都合をいやらしい言い回しで押しつけられるのが時々あるんです。早く着けば良いと言うわけではないと思うんですよ。


次は食い物のハナシ。この入口見ただけでは何の店かわからんし、入ってみようと言う気にもならんでしょう。OPENと言う文字で商売しとんやなと言うのは分かります。ええ、市内にある喫茶店です。


店内はこんなカンジ。コロナの時代ですから真新しい空気清浄機が目を引く一方で、石油ストーブは真夏であることを忘れさせる存在です。特に聞きはしませんでしたが、下がってる衣類は売り物の様です。


外壁に絡まる蔦?が凄い。でも中から見るともっと凄いというか怖いカンジです。


ランチでご飯物はオムライスかカレー。事前にネットで調べて、マスター特製カレーにしようと決めていたんですが、今日は無いと言われ止むなくオムライス。下の写真はビートルズ、マスターの好みらしく店内に溢れてます。


ネットにあったとおり、鶏肉でなくてシーチキン使用。同じ物を頼んだ愚妻が「こんなに食べられない」と半分近くよこしたので午後は胸焼け状態が続きました。


今回は本文の写真が少ないんでもうひとつ。埼玉に居る間に載せようと思っていて忘れて居たヤツ。高崎線吹上駅の熊谷方にある踏切です。この溝の蓋が、


ご覧のように横軽アプト線のラックレールですね。こう言うのは八木原の駅前でもあって、もう一カ所どっかで見た記憶があるんですが思い出せません。


前回の宇野の写真とは違うフォルダーに入っていたネガですが、同じ日です。既に帰りの連絡船に乗り込んでいて、船内から撮った様です。元のパーラーカーで1967年10月の時刻表では「展」となっています。


「ゆうなぎ」になっています。前回「うずしお」として11:39に着いた編成が12:45発の新大阪行きとして折り返す様です。151なのか181に改造済みか不明ですが、最近読んだ鉄ピク№986(山陽本線特集)に1966年10月に広島駅で撮られた「しおかぜ」の写真が載っていて「151系から181系のへの改造が終盤を迎えつつある時期」と説明が付いていたんで、たぶん上の編成は181だろうと思います。


高松駅での写真。フォルダーのメモには第二南風とありましたから、連絡船は宇野発11:19の13便だった様です。特急「うずしお」からの接続を受けるんで、準急上がりの「土佐」や「うわじま」でなく正規の急行が待ち受け。土讃線ですからキハ58が続くのも凄いですが、何より3両目のキロが既に冷房設置済みです。「瀬戸」のスロやB寝台が非冷房だったのに比べ、やはり四国は気動車では先進地域だったんだと痛感します。


こっちは到着していたDF50の各停。


「第二せと」。南風もせとも絵入のヘッドマーク。本州の「瀬戸」は漢字表記で、四国はひらがなとして区別してますね。


「第二せと」と「第二南風」は5番線・6番線と同じホームの両側に停車。こうしてみると高松駅はホーム幅も広く大駅の貫禄があります。


徳島行きは昔から一番端っこ。26系主体の編成の様ですが、それでも特急に接続してるんで一番手前の車両はキロ25ですね。当時、二往復だけ一等車と二等指定席車の連結があったようです。キロハ25が繋がってるのはみたことあったんですが、今回のスキャンで全室一等の車両もあったんやと知りました。この頃は高松-徳島が急行で一時間半掛かっていた様です。


4番線に居たDF50が引き上げです。高松は行き止まりホームで、機回し出来る配線でも無いようでしたから編成後方に入替機関車が付いて先に客車だけ引き上げたんだろうと思います。


連絡船から航送車を出し入れするDD13。これも四国では高松だけの配置だったと思います。


オユ12とマニ36?オユの番号からすると宇野で撮ったのとは別の車両です。
高松で撮った写真はここまで。


少ないんでYS11の写真を追加。松茂の飛行場、かまぼこ形格納庫は海自第三航空群のもの。


まだ日本国内航空時代のものです。機首には真珠と書かれている様です。1967年10月の時刻表を見ると、大阪便は一日4便あったものの東京便は一本だけで、しかも高知便が途中立ち寄るものでした。


ちゃんと徳島空港と出てますね。当時は市内から自転車で撮りに行ってました。
そう言えば最近飛行機も乗ってないなぁ・・・と言うところでおしまいです。

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