徳島鉄道風景(新)

昔の徳島の蒸機が尽きて関東中心にしてましたが
戻って来たんで、これからは徳島起点でやってきます。

5月から7月に掛けて撮った写真

2020-05-31 21:25:09 | 蒸機時代の徳島で撮ったん


これは富士のコンデジ用充電池。上手く撮れなかったんですが、少し膨らんでるのがわかるでしょうか?


コンデジは元々電池が小さく、AFやズームを多用すると直ぐ切れてしまうんで、いわゆるサードパーティの予備を二個用意してます。そのうちの一個をカメラに装填したらカメラは全く反応せず、空かと思って充電すると数時間経っても完了しないんで、見てみると膨らんで少し発熱。コライカンわ、と直ぐに充電中止。調べてみると「完全に放電してしまうと致命的な損傷」を受けるそうで、暫く使ってなかったんで、そうなったのかもしれません。ただ、満充電での保存も良くないそうですが・・・
時々買い替えなあかんそうです。

また昔の写真。スキャンした時の整理が悪く、1967(昭和42)年か43年か、5~6月か6~7月とメモされた写真が混在してますが、まあ要は昔の写真じゃとご笑覧を。

最初はプラモです。ハセガワの七十二分の一シリーズ、手前は零戦、向こうは九六戦です。ハーフトラックは米軍のヤツでスケールが揃ってるかどうか怪しい。荷台に載せてるのは四十八分の一(あるいは五十分の1)の疾風の落下落下増槽だったと思います。零戦にいわゆるスポット迷彩を施してますが、当時写真でそう見えただけで、今考えると塗装の剥離を見間違えたんだろと思います。この頃は「丸」に載ってる公式写真みたいなヤツしか無かったんですが、近年NF文庫なんかで個人が撮られた貴重な写真を見ると、こういう迷彩は無かった様です。
そう言えば、ハセガワの七十二分の一では双発機が3種、もう十年以上押し入れの肥やしになっています。あれもどないぞせなあかんなぁ。


これは二軒屋駅に進入する池田からの426レ回送だと思います。


なんで後追いから?この場所で普通に撮るとこうなります。上の写真のメモは「1967年5月か6月」でこっちは「1968年11月」です。この写真の前後でスキャンされてるのが勝瑞-池ノ谷間ばっかりなんでひょっとすると・・・と思いましたが、どう見ても天候の様子が違いすぎですね。


これもほぼ同じ場所ですね。徳島に向かうハチロク牽引列車が二軒屋を出たところです。ハチロクが正向なんで池田行き423レの回送だと思います。この続きの接近側写真は何度も使てるんで割愛。


徳島駅の方へ移動。この写真も何遍も使こてますが・・・53年前の写真になりますが、阿波銀本店建物やNTTの鉄塔は未だ健在。ただ、鉄塔の上や眉山山頂右側にあるマイクロウェーブ?のアンテナはもう無いハズです。


続いて出来島に。徳島を発車したC58牽引列車。遠くに南海ビル、踏切脇は徳バスの車庫です。


列車は高松行き326レだと思います。243号機は松山でお召し牽引したことがあるそうなんで、その名残が随所にありました。


少し佐古寄りに移動して今度は穴吹行き425レ。先の326レの12分後と程よい間隔です。


この写真も何回も載せてます。徳島-佐古間は複線の様でも単線並列で、先の326レが左側だったのにこの425レは右側の線を走行してるのにお気づきでしょうか。


別の日ですね。新町川の鉄橋を渡る池田行き423レの出区回送です。機関車背後は県庁の旧庁舎です。


前に付いてるハチロクは徳島駅の入換担当の交代機かなぁ。C58に代わってからも時々重連がみられました。機関車次位の客車がまだオハ60なんで1967年だと思います。
丁度干潮の様で、左岸の泥に捨てられたみたいなボートは水上警察のヤツだったと思います。


護岸整備が終わって、バラックが並んでいた一帯が殺風景なカンジです。池添蒲鉾だけは今でも健在ですね。機関車の向こうにクレーンが二基写ってます。あの辺りに阿波国共同汽船や共正海運の船着き場があったんですが、この頃未だあったかなぁ。1969(昭和44)年の時刻表では「休航中」で、既に小松島航路に移っていた様です。


再び出来島です。向こうの踏切の上に今は跨線橋があります。城山中腹に見えるのは貯水場で、踏切脇にはまだ刑務所があった頃です。


何ちゅうタイミングでシャッター切っとんなと自分に突っ込みたい・・・列車は高松行き326レ、12号機は小松島に来たC58最古参の一機だったと思います。
こうして見ると集煙装置が浮き上がって見えます。それでもC57よりははるかに良い。多度津工式や鷹取工式が似合うのはC58とD51ですね。C58の場合は無いと逆に物足りなく感じます。


今度は小松島です。423レ担当のハチロクが出区しようとしてますが、この日はC11が前に付いてます。この当時C11運用ではっきりしてるのは、鳴門線貨物一往復、牟岐線桑野貨物一往復、穴吹までの客車一往復、小松島線貨物一往復(たぶん不定期)、ほかに徳島本線426レの回送。少し前の記事に書きましたが、426レ自体は見た事がないんでハチロクやC58の運用だったかもしれません。


で、この423レ前位で回送されるC11の運用は不明のままです。ひょっとすると、小松島線貨物ウヤの時は次運用に備えこうして回送されたのかも。これは給炭台から出て客車留置線にスイッチバックしてるところかな。


ここで426レの回送が到着、この日は320号機です。石炭満載ですね。


機回しされた320号機が機関区の方に戻って来ます。本駅ホームにはC11+ハチロクの423レ回送が発車待ち。


この頃、小松島のC11は他に31・66・137が居たと思いますが、320号機だけは戦時型で角形ドームやプレート車輪と言った特徴が残ってました。
後ろのバスは左が徳バス、右は小松島市営ですね。


いよいよ423レ回送の発車。本駅駅舎の大きな屋根が右端に写ってますが、その奥にうっすら写ってるのは元の関西汽船(いや、共同汽船か?)の建物かもしれません。


連続写真を全部載せて枚数を稼いでます。


線路の右手はズッと国鉄官舎が続いていたと思います。機関区との境は曖昧で我々もズカズカと構内に出入りしてました。古き良き時代、と言うヤツですよ。


普通ならまず載せないような写真も今回は特別公開・・・


煙の匂いがしてきそうなカンジ。


この眺めが好きで何度か同じ構図で撮ってます。小松島の機関庫は模型に手頃な大きさでしたね。機関庫と給炭台の間を抜けた先に転車台がありました。給炭台ではさっき戻って来た320号機がたぶん給水中。給水塔の手前を右にカーブしてくのが一万トン岸壁の方に向かう貨物線です。


どうも天気の様子がだいぶ違うんで別の日かもしれませんが(いや、それ以上に翌年の可能性もありますが)客留で煙を上げてるのは牟岐行き521レの回送です。


この列車はハチロクが逆行で徳島に持って行き、機回しして牟岐にむかいます。


最後は再びC11320。給水が終わって客留に向かうところです。穴吹行き425レの担当で、地蔵橋でさっき出て行った521レの営業列車と交換します。
この写真を撮った当時は知りませんでしたが、C11の最後のグループはサイドの水タンク容量増大のため下方に拡大されてるそうです。それ以前のヤツはタンク下辺とキャブがほぼ一直線に揃ってるそうです。この記事の前の方で出てる31号機は確かにそうなってますよ。
と言う所でおしまいです。次回は最近の写真載せたいわぁ。

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牟岐線ダイヤ新旧比較を

2020-05-24 21:15:00 | ダイヤと車両


my garden。ちゃんと季節は巡って来ますよ。


こっちは去年の5月18日に鷲栗で撮ったやつ。ウチの近所はそろそろ田圃に水を入れようかという段階。来週月曜には緊急事態の解除が期待でそうな状況になってきましたが、間に合うかいな。埼玉だけでも解除されたら近場への撮り鉄が出来るんとちゃうか、と密かに考えてます。



撮り鉄・乗り鉄の自粛継続中につき、小話を少々。




牟岐線の自作ダイヤです。黒のスジは2020年3月改正のヤツで、薄紫のスジが1967(昭和42)年10月改正です。黄緑は42・3の小松島線、橙は2020・3の40・47運用(たぶん)、赤は47・3の客車列車です。


その42・10改正時刻はこの時刻表で見ました。小生が持ってる大判時刻表で一番古いのがこれです。ヨンサントウの前年、表紙は当時月光型と言われた581です。寝台として利用したのは金星の一回だけですが、座席としては山陽特急や東北特急で何度も乗りました。寝台としては幅もたっぷりでしたが、座席はいわゆるボックス席で、ゆったり配置とは言え見知らぬ人と長時間向かい合ってるのは苦痛でした。寝台前提なんで窓側の肘掛けは壁を窪ませて代用、窓は複層ガラスの間にブラインドを装備した特殊なタイプ。昼間だと反射や内側の汚れで見通しが悪く好きになれませんでした。更に、窓框がないのでモノを置く場所がなくボックス席では手に持ってるしかない状態でした。

本題から外れてしまいました・・・
比較ダイヤで目に付くところ。先ずは、昔の一番列車は朝が早かったこと。昔の下り一番531Dは徳島発5:02、これに対し今の4523Dは5:43発です。ちなみに末尾3から始まってますが、521Dは牟岐発海部行きに存在します。上りの場合、昔は522レが牟岐発5:07で、今は牟岐発の場合鳴門行き524Dの5:50発です。
昔の531Dは牟岐に7時前に着くんです。そういう需要があったのか、はたまた今でも車輌の回送はひょっとしておこなわれてるのか?今の4523Dは牟岐着が8時チョイ前。これでも通勤通学列車としては十分だと思います。
しかも、この4523Dは日和佐で20分以上交換待ちしています。日和佐-牟岐間に交換可能駅が無いと言うこともありますが、これはやはり牟岐にそう早く着ける需要が無いんだと取れます。

上りの注目列車はやはりハチロクが牽いていた522レですね。何と言ってもやはりのろい!スジの傾きを見ればおわかりかと思います。この列車は桑野で前夜切り離した客車の増結をするんで10分近く停まりますが、それ以外の福井・阿南そして羽ノ浦のがわからん。接続するバスでもあったんでしょうか。

他に目に付くのは阿南以南での速度差ですね。特に日和佐-牟岐間で昔のダイヤでは随分スジが寝てます。例えば、昔の536Dと今の530Dは由岐到着時刻が同じですが、牟岐発時刻は12分今の方が遅い。これはやはり車輌性能の差でしょうね。実際の運用とは違うかもしれませんが、キハ20と1500系のトン当たり出力を比較すると5.6対12.8で圧倒的に1500系が強力。阿南以北の平坦区間ではほとんど差がないんで、電車みたいに加減速性能の差が時間に反映しづらいみたいです。
一方、頑張ってるなと思ったのが昔の急行。阿南以南のスジを見れば、今の各停とほぼ並行です。当時の急行は二両編成でも未だ2エンジンの55や58は入ってなくて28×2か28+26の1エンジン車だったと思います。駅を通過するだけでこんなに速くなるんかと感心します。

ダイヤ構成では何と言っても今のダイヤでの日中パターンダイヤ化ですね。ただね、下りでは羽ノ浦で約7分、上りは二軒屋で約4分の交換停車があります。
下りが徳島を毎時00分と30分発に統一、阿南で約10分で折り返すパターンですが、西原に交換設備があれば上下とも交換停車をなくせると思うんですが・・・実際、西原と地蔵橋の交換設備を復活させようという計画はあるようですが。昔は小松島線の列車もあったので地蔵橋の交換設備は頻繁に使われていました。




所要時間比較表も作ってみました。
始発から14時くらいまでの列車だけですが、平均所要時間は阿南以南で昔は下りが72分、上りが78分。これに対し今は下りで63分、上り56分と圧倒的に速いです。下りが63分と上りより長いのは4523Dの日和佐22分停車が足をひっぱてると思います。
昔の上りが一番時間掛かってますが、やはり車輌性能の差で、急行が辛うじて一時間を切ってますが各停では長時間停車の各停では一時間半、すんなり来ても75分位。それに対して今は長時間停車が無ければ一時間以内で済んでます。
昔は今よりこの区間は本数が多いようですが、その分交換回数も増え、やはり日和佐-牟岐間が一閉塞と言うのはだだでさえ遅いのに無駄な停車時間発生させて居たようです。
今度帰省出来たら買おうと思ってるんですが、阿南以南で「汽車」の時刻表にバスも併記したのが出てる様です。大変素晴らしい事です。経営の苦しい事業者がほぼ同じ区間で少ない乗客を奪い合うなんて言う愚は避けないとね。土讃線の池田-大歩危辺りも真似して欲しいです。

阿南以北を見ると、ほぼ同じですが下りは今の方が5分長い。これはやはりパターンダイヤで、全列車が羽ノ浦で5~6分交換停車してるのが原因です。先に述べたように西原が交換可能になれば昔と同じになると思います。
まあ、今は昔に比べて二駅増えて(昔は西原をほとんどの列車が通過していたんで実質三駅増)昔と同じですから、やはり車輌性能向上が時間短縮を実現したんでしょうね。

やっぱり文字ばっかりのは書いててもツマランです。次回は写真にしたいわ。

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5月に撮った写真を再掲

2020-05-17 21:25:37 | 蒸機時代の徳島で撮ったん


ついさっき、大河ドラマを観てたら徳島で地震があったとニュース速報が流れました。こっちは今日また夏日になりました。


暑くても健康維持のための外出は続けていますよ。これで明日は10度も気温が下がると言うしなあ。暑かったんで埼玉銘菓ガリガリ君食べました。去年は冷夏で過剰生産分が会社の社員食堂で出たんですが、今年の夏は暑いのか?


ガリガリ君に因んで赤城山。左側に雪を被った谷川岳(たぶん)が見えたんですが、やっぱり写らん。群馬は解除されてるんで倉賀野行きたいですが、埼玉から行くのはやはり気が引けます。21日の発表に期待します。

今回も前回に引き続き、時間稼ぎに51年前の5月です。

眉山を背景に佐古駅を出て徳島に向かう穴吹発424レから。当時、佐古駅の東側には田宮川に繋がった貯木池がありました。今は地図で見ると公園や病院になってる一帯です。
一両目の客車はオハフ61、二両目は洗面所の小窓を除いても12個も窓が並ぶオハ61です。片側12ボックス×4人掛け×2列=96人。オハ35やスハ43が窓11で88人でしたから、大勢座れるのと引き替えに窓側に座ろうもんなら身動き出来ん状態だった思います。
ただ、見えづらいですが車端では窓に背を向けて座ってるように見えます。ウィキによれば、通勤対応で車端部をロングシート化した1500番台があったそうですが、当時は全然知りませんでした。


上の写真の続きで、C11は田宮川を渡る鉄橋に差し掛かっています。機関車の向こうにうっすら見える当時の電電公社の鉄塔は今も健在です。
C11に客車5両は丁度良いカンジです。7両牽いてる写真もありますが、機関車が小さいのに(全長13m弱)不釣り合いでした。


ほぼ同じ場所でC58の牽く徳島方面行き列車です。光線状態から朝です。当時、朝のC58牽引で徳島方面行きは高松発321レと池田発422レがありました。先の424レがこの当時徳島着8:05、321レが8:12着なんでこっちだろうと思います。ちなみに422レは7:26着ですから、たぶん321レだと想像します。
客車の手前に空コキが留置してあるのが分かるでしょうか?あの辺でよく貨物の解結作業を撮っていました。
一両目の客車がオハフじゃなくてオハらしいのが気になります。高松に戻る324レは後部にマニ60が付いていた思うんで、下りはこれで良かったのかもしれません。
321レだとすると、この数年前までは板野から鍛冶屋原始発のC12牽引列車を後部にくっつけていたんですが、既に気動車化され更に鍛冶屋原線はこの数年後に廃止されました。


デフに穴が開いてるので351号機と特定出来ます。小松島のC58では最後まで稼働していた一機だったと思います。


いきなり場面が変わって牟岐線の犬山踏切から地蔵橋方を見たところです。
お気づきでしょうか、5月初旬の写真ですが未だ田植えはされてません。今とは大違いです。
この写真でも「蠅叩き」が途中で切断されて集合ケーブルの支柱に転用されていますね。


上の写真の続きで、踏切を過ぎてちょっと切り通し風になった所に向かう所です。ここを抜ければ直ぐに園瀬川鉄橋です。


踏切から、その切り通し風になった所を見たところです。C58が小松島に向かってるので池田発の422レだと思います。回送じゃなくて客扱いして港駅まで入ります。
351号機なんで、先の佐古の写真も422レかとも思ったんですが、佐古で撮ってから犬山への移動は時間的に無理(422レは当時徳島二分停車で発車)なんで、佐古で撮ったのは321レ、この写真は別の日の422レと判断しました。


後追い。先の522レの写真とは線路反対側です。機関車の直ぐ先に法花の踏切があり、写真右側が市バスの終点でバスの回転場がありました。この辺は最近帰省しても行くことがないんで地図を見ても分からんカンジです。


直ぐ近くの園瀬川鉄橋を行く小松島行き回送列車。
当時、徳島本線には池田9:40発・徳島着12:12の428レと言うのがありました。客車列車は当時既に通勤通学用が多かったんですが、こんな時間帯で残って居たのはこの列車だけでした。小松島港発4:22の池田行き421レと言うのがあって、その折返し運用だと思います。
4:22発と言うと、当時でもムチャクチャ早朝でしたが、これは小松島港で阪神からの夜行便に接続していて、接続相手は大阪港発22:10,小松島港4:10着の関西汽船でした。421レは池田着7:41で池田の通学列車でもあったと思いますが、池田発8:08の急行あしずり2号に接続して高知着9:46、窪川は11:19着で所要時間は長いものの日中を有効に使える良いルートだったと思います。
さて、この写真の列車はその428レの徳島着後の回送だと思いますが、そうするとC11が池田から牽いて来たんかいなと言う疑問が沸きます。写真のC11は前照灯の形状より31号機と特定出来ます。炭庫をみると山盛りなんで、徳島で給炭したか、あるいは徳島まではC58で回送だけ担当してるかもしれません。今度、機会があれば徳島の御大に聞いてみます。


上の写真から少し地蔵橋寄り、園瀬川の鉄橋を渡り終えた辺りで、直ぐ先が犬山の踏切です。列車は夕方の牟岐行き521レ。二軒屋17:28発ですが、5月の徳島の日の入りは18:45前後なんで余裕の明るさですね。
背後がこんもりした木立で、地図で見ると神社があるようですが、当時は全然知りませんでした。


また園瀬川鉄橋。地蔵橋で上の521レと交換してきた穴吹行き425レです。C11はさっきの回送と同じ31号機です。小松島でよく撮っていたんで、回送を牽いて本駅前の客車留置線に客車を置くと機回しして、機関区の方で少なくとも給水だけはしていたと思います。
小松島-徳島間は回送扱いだった時期もありましたね。


上の写真の続き。鉄橋を渡り終えて二軒屋に向かうところです。地図でみると、今はちょうど文化の森駅が在る場所だと思います。当時はまさかここに駅が出来るとは思ってもいませんでしたよ。

さあ、次回はどないしょうか・・・









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黄金週間に撮った写真でも

2020-05-10 21:25:36 | 蒸機時代の徳島で撮ったん


さすがに撮り鉄は「不要不急」だろうと自粛して、「健康維持のための外出」枠を使って主に土手を歩いてます。中央にうっすらと見えるのは赤城の山です。


この日は未だ雪を被った富士山も見えたんですが、写真には写らんなぁ。

ネタ切れで時間稼ぎです。

今年の黄金週間は自粛中で撮り鉄無し!載せるのは今から51年前の丁度今頃撮ったヤツです。ええ、もう何度も掲載してる写真の使い回しですが。
地元の鉄なら一目で分かる高徳線吉野川鉄橋付近。下り貨物列車が吉野川鉄橋を渡り終え、鮎喰川との間にある小さい川の鉄橋に差し掛かっている所です。


上の写真の続き。鮎喰川と吉野川の間にあるこの川は、地図で見ると飯尾川となっていますが、当時は知りませんでした。
牛が居ます。今はさすがに居ないと思いますが、当時は吉野川の土手一帯で放し飼いにされてました。気をつけないと所々に糞があるんです。
しかし、このくらいの角度から見るC58は実に格好いいなと思います。惜しむらくは重油併燃装置がついてないことですね。この時期、予讃・土讃の無煙化で小松島に転入してきた機が増えて16機(小生独自の調べ、小松島で廃車扱いになった機でこの時期稼働していたと思われる台数)で、この内7機(12,104、295,332,339,344,367)が併燃装置付きですから、上の写真はそれ以外の8機のうち何れかとなります。351はデフにバイパス弁点検用と言われる四角い穴が開いてたし、333は大型の250W前照灯装備だったんで、残りの88、110,121,155,243、256のどれかでしょう。
機関車に続く有蓋車3両の内、一番左はワム23000を二段リンク化したワム90000だと思います。機関車次位の二両ですが、さてワム60000か70000か。検索すると両者の違いは60000が扉の幅が広く屋根が丸形だそうです。残念ながらピン甘で拡大しても判別出来ませんでした。
鉄橋の脇に華奢な木造の橋。通称「かっぱ橋」で、いわゆる潜水橋です。四万十川のは沈下橋と呼ぶようですが、徳島は潜水橋やけんな、一緒にせんといてなぁ。

当時のカッパ橋は、柵は無いし踏むと板が抜けそうなカンジで怖かったんですが、2008年に行って見たら随分立派に改修されてました。これなら自転車でも安心して渡れますね。


同じ日と思われる上り貨物が吉野川鉄橋を渡り始めています。やっぱり牛が居ます。
当時、徳島でコンテナ扱いは佐古駅だけだったんでコキ2両は佐古で増結されたんですが、機関車寄りのワム二両はどっからか?たぶんコキと前のワム2両は航送されて本州に渡る車輌だと思います。
右端のワフは黄色帯を巻いています。たぶん一段リンクのままで四国に閉じ込められた車輌でしょう。
右から三両目の有蓋車は他のより長いのでワム80000ではないかと思います。


別の日の下り貨物。場所は鮎喰川鉄橋の北詰だと思います。カーブで阿讃山脈が背景に入るんで地元では有名な撮影場所だったと思います。
ここも後年訪れてはみましたが、草ボーボーで撮れなかった思い出があります。


上の写真の続き。88号機は松山からこの前年の配置記録は多度津、この翌年3月に小松島で廃車の記録があります。この年の夏には徳島にもDE10が運用されはじめ、9月頃からはC58の運用を置き換えましたが、88号機は結構遅くまで稼働していた方でした。


手前に草が入り込んで目障りですが、当時はこういうレンジファインダー機で撮ってました。望遠はズレが大きくなりこういう事が時々ありました。もっとも、一眼レフを使う今でも起きるんで、要はもっとしっかりファインダーで確認せなアカンと言うことです・・・最近は視力の低下もあってひどくなってきましたよ。


順番がバラバラで前後関係が分かりません。鮎喰川鉄橋を渡る上り貨物です。何としてでも眉山を背景に入れたいと言う思いで通信ケーブルが邪魔でも敢えてこっち側から撮った記憶があります。
中学で撮り始めた頃は、いわゆる「蠅叩き」が現役でしたが、この頃はどこも集合ケーブルに置換されてました。蠅叩き用の木製電柱を途中で切ってそのまま再利用するのが多かったですね。そのせいで丁度邪魔になる高さになったんです。


反対側から撮ればケーブルは邪魔にならん、のですが逆光なんです。参考に載せたモノクロ写真はC1131が牽く鳴門線貨物列車です。この頃は昼間に往復してましたが、間もなく夜の運用に変わり撮れなくなりました。撮った回数は少ないんですが、いつも冷蔵車が繋がってました。
逆光でボンヤリですが、眉山の形も反対側の方が良いですね。


少し上の眉山背景写真の続きだと思います。飯尾川を渡ってるところですね。上の写真の隅に母校が写っていて、授業中でも汽笛は聞こえるので蒸機の通過時間はダイヤが無くても分かっていました。有名写真家の三好和義さんがその母校出身の少し後輩にあたると言う事をつい最近知って驚きました。立木さんだけでなかったんじゃ。

さて、来月になれば緊急事態が解けることを願い「新しい生活様式」に慣れるように努めましょう。

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高崎線の希硝酸と液化アンモニアコンテナのこと

2020-05-03 21:14:59 | JRの高崎・上信越、宇都宮方面


今回は今から51年前の黄金週間に中洲の市場脇で撮ったものです。機関車の向こうは県庁の旧庁舎、鉄橋脇に停められてるのは大川バスの高徳特急バス、そして三河家洋館。この中で昔のままなんは洋館と鉄橋でしょうね。ハチロク牽引だった423レも土讃・予讃の無煙化で追い出されてきたC58に替わっていました。小松島の転車台はC58には短いので、逆行で回送して徳島で転向していたそうです。写真の様に時々出区回送機が付いて逆行重連になってました。


大方の予想通り、緊急事態は延長決定。伸びは鈍化してる?のが救いか。


こら、今年は篠野洲は諦めんとアカンなあ・・・田植えは来年もあります、今年は辛抱せななぁ。去年、鷲栗で会った地元の方が、田植えは人手が集まる連休中に気温に関係無くまとめてやってしまうと言ってました。いっぺん帰省して色々準備したいんですけどね。

撮り鉄の新規ネタが遂に枯渇。なんで、小話をひとつ。

事の起こりは以前の記事に少し書きましたが、倉賀野で4074レを撮った写真を見ていた時のこと。


4074レと言えば色鮮やかなメタノールのコンテナが載ってることと、返空とは言えタキとコンテナが併結されている事で有名ですが、機関車次位には日産化学の希硝酸と液化アンモニアのコンテナも繋がっています。


撮った時には気付かなかったんですが、同じ日に撮った2071レの写真を見てみると同じ様なコンテナが繋がってる。


この時は倉賀野で撮った4074レで番号が確認出来なかったので、並びが似とうけんひょっとしたら熊タか新座で折り返して来たんとちゃうか?と思っていました。倉賀野では通過列車に対する解結はせず、下り向きの始発列車も無いんで下り方に発送するにはどっかでスイッチバックさせるしか無いのが分かっていたんで。


ちょっとハナシが逸れますが、2071レには同じく日産化学の濃硝酸も繋がってました。表記されてる運用区間は速星-川崎貨物と富山貨物-盛岡貨物の二区間。2071レに載ってるのは前者に相当すると思いますが、富山-盛岡の継送はどういう経路か興味が沸きます。小生の様なジジイには日産化学と言うと、須賀線のEB10が牽く列車に繋がってる写真で見た米軍機のマークみたいな社標で社名を覚えました。


2071レからもう一枚。静脈輸送用のW18Fの車標は「ポリ塩化ビフェニール類(廃棄物)」。2071レは隅田川発金沢タ行きですが、どこまで行くのかちょっと気になります。


さて、本題に戻って疑問を確認するため以前に撮った写真を確認。これは改正前ですが、倉賀野発車前の4074レでコキ200-152にUT14Cの8025と8030が載っています。


続くコキ106-197にはUT10Cの10・8・4が載っています。


こちらは同じ日の約4時間後に撮った2071レ。


機関車次位にコキ106-197とコキ200-152が繋がっていて、コキ200後位にはUT14C-8025が載ってるが読み取れます。


この日も濃硝酸あり。前回と同じく8007番でした。それはさておき、これで4074レで倉賀野を発った希硝酸と液化アンモニアはその日の2071レで折り返して来て金沢方向に向かうと言うのが確認出来たんです。


まあそれならハナシはここでお終いですが、浜川崎で撮った4074レでも見た事ある、


と思って確認すると、付いてました。


別の日も。


倉賀野から上って来たコンテナがどこかで2071レに付け替えられたとすると、浜川崎で繋がってるのはおかしい。


こちらは熊行で撮った2071レ。熊タ手前では繋がって無いと言うことは、2071レには熊タで増結されてるのは間違いない様です。
こうして熊タ前後で確認作業を敢行・・・


先ずは籠原通過中の4074レで倉賀野発車状態のままのハズ。コキ200-114にUT14C-8021と他一基。続く液化アンモニア三基はコキ106-360に載ってるのが確認出来ました。


直ぐの上り電車で熊谷へ移動する車内から熊タ入換中の様子。見づらいですが、留置されたコキ200-6と続くコキにはUT10C-16が読み取れます。


まさに入換中のコキ。UT10C-13ですね。


液化アンモニアが載ってるのはコキ106-360でした。


もう一基の液化アンモニアはUT10C-6、コキ200の高崎方はUT14C-8009。


コキ200は114番だと判明。


さて今度は熊谷で熊タ入換後の4074レの確認です。機関車次位はコキ200-6。


コキ200に載ってるのはUT14C-8010ともう一基は8020?、後ろのコキにはUT10C-16。


この写真ではコキ106の車番がイマイチ読めない、




一連の写真でコキ106にはUT10C-16・17・18の連番が載ってるのが分かりました。


更にもう一両、コキ104-1957にUT10C-5・7ともう一基載ってます。明らかに籠原で撮ったユニットとは熊タで差し替えられて、コキ104が追加されているのが判明。


再び籠原に戻る途中で熊タを見れば、コキ200-114にUT14C-8009と8021,コキ106-360にUT10C-13・12・6が載ってます。そう、今朝籠原で見た4074レに繋がっていたコンビです。


最後は熊タ-籠原間で2071レを確認します。


コキ106-360にUT10C-13・12・6、


コキ200-114にUT14C-8009と8021。さっき熊タに留置してあった、つまり4071レで倉賀野から運ばれて来たヤツです。


時系列に並べるとこんなカンジですが見えませんね・・・
今回の調べで、倉賀野から4074レで来た組は熊タで外されて2071レで下って行く。熊タでは入れ替わりに前から置いてあった組とコキ104に載った液化アンモニアを4074レに付けて川崎貨物に向かう、と言う事が判明。
4074レ→2071レの動きは松井田の信越化学から日産化学への返空だと思うんです。倉賀野は下り列車に増結しようとすると上り本線を跨いでの入換が必要ですし、入換作業は集約させた方が合理的ですから。
残りは熊タに置いてあって、4074レが川崎に運んで行ったコキ三両がどこからどこへ運用されてるのかと言う事です。例えば
4074レは川崎行きですが、北陸から上って来る2070レは隅田川行きですから速星あるいは富山貨物からの積車を熊タで切り離して4074レに継送させる、と言うのが考えられます。じゃあ、川崎から熊タへはどやって来たんか・・・更にコキ104のことも分かりません。一日だけでは分からない事も多いし、2070レを見るなら日の出が早いこれからの一ヶ月くらいが良いんで、解禁次第でまた観察したいと思います。






 

 

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