1968年の夏休み、新見・糸崎・呉を一泊二日で友人と遠征してきました。新見は当時、北の奥中山と並ぶ三重連を撮るために、糸崎は小学生の時初めて読んだ鉄道ファン誌に載っていた「糸崎の夜」に魅せられて、呉は日本でここだけに3両残っていたC59を撮ろうという欲張りなプランでした。
徳島を5時前に出る高徳線始発で出発、宇高連絡船から宇野を9時過ぎに出る急行「しんじ」で新見に向かいました。この「しんじ」は米子廻りの小郡行きという逆U字型に走る長距離DC急行でした。写真は宇野で先発する新大阪行「鷲羽」153系です。
新見は伯備・芸備・姫新の各線が集まる要衝、D51とC58の配置された新見機関区がありました。ただお目当ての三重連は情報誌の無い当時、新見に行けば何とかなるだろうと行ってみたものの撮影名所は一つ先の布原という信号場でかつ午前中であるとのことがわかり、機関区の撮影だけにしました。(三重連は翌夏再遠征で撮りました)
それでもD51も撮るのは初めて。大型の転車台やそれを取り囲むラウンドハウスにぎっしりの機関車は小松島しか知らぬ我々には圧巻でした。
※2016/10/13追記、後の記事でも書いてますが写真はたぶん651号機。水戸時代に密閉キャブに改造された変形機で、しかも下山事件の当該機だそうです(鉄道ホビダス「消えて車両写真館」に出ていました)
その後、夕方の芸備線経由で糸崎に移動です。
電照式時計の文字盤を写すのは難しいです。昔は覆い焼で何とか出してましたね。
側面の形態からEF60ですね。当時の貨物主力機。
糸崎は三原と尾道の間にある駅ですが岡山と広島の中間にあり昔から機関区があってこの当時でも急行は三駅連続停車していました。15~6両対応のホーム、急行が着く度につゆの入ったヤカンを下げて売り歩く天麩羅そばが名物でした。
初めての夜間撮影、ネオパンSSSを1600まで増感してみましたがやはりプロのようにはいきません。三枚目の写真は時間からすると短命に終わった宮崎行203レ「夕月」と思われます。
その後3時過ぎの「阿蘇」で広島に移動、呉線上り始発で呉に向かいました。
ちょうどお盆の帰省ラッシュ(田舎育ちには帰省ラッシュの実体がわかっていませんでした)、「阿蘇」も通路から洗面所やデッキまで超満員。名古屋発熊本行きなので尾張一宮周辺から九州に帰省する繊維関係の女工さんが多く無理に割り込んだデッキのお姉さんも名古屋から立ちっぱなしだとのことでした。
呉線もC62やC59で人気の線でしたが小屋浦付近が撮影名所でしたが(後でわかったことですが)帰りの急行への乗車を考慮し呉にしました。写真は下り「ななうら」、広島への到着時間を調整するため「音戸」と共に呉線経由です。
23号機はその後平にからの異動、「ゆうづる」を牽いている写真をよく趣味誌で見かけました。←2010年9月26日訂正、1963年に常磐線平電化完成時に異動してきたようです。ちなみに山陽線広島電化は’62年6月。
本来C62牽引ですがD51が代走、ついにC59は撮れませんでした
二駅先の広始発の広島行通勤列車が「ななうら」の後、約一時間で5本やってきます。40番台は軽軸重型。小樽築港(機関区略号は札タコだそうです)に異動して「ていね」なんかを牽いたのでしょうか←2010/09/26訂正、糸崎から小樽築港に異動した機はありません。’70年頃全機糸崎で廃車になったようです。
写真の17号機は日本の蒸機速度記録保持車。上の15号機もそうですがテールランプが埋込式になっているのは広工式というそうです。通勤列車牽引とはいえC62はやはりデカくて圧倒されました。どの機もヘッドマークステーが付いています。
この後、急行で岡山経由徳島に帰ったはずですが爆睡してたせいか何も覚えていません。しかしこの時の経験を活かし翌夏にほぼ同じコースを再挑戦しました。
最後の二枚、このブログを作成中に気が付いたのですが右奥にDD11が写っています。全国で8両の内3両が呉にいました(後は新鶴見・福岡・早岐)蒸機にばかり目を奪われていましたがC59並の希少価値、惜しいことをしました。