徳島鉄道風景(新)

昔の徳島の蒸機が尽きて関東中心にしてましたが
戻って来たんで、これからは徳島起点でやってきます。

小松島1970年3月

2008-12-28 22:56:40 | 蒸機時代の徳島で撮ったん

先ずは3月23日撮影の全景。

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C58や8620が何両か写っていて煙が立ちこめていると活気があるように見えますが火が入っているのは中央の58623だけデス。少し退くと

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入れ換えをしているのはDE10。以前はC11の担当でしたが穴吹行き425レがDE10になり鳴門線貨物が夜間運用となるとC11は日中に牟岐線貨物、夜は鳴門線と徳島に常駐するようになって小松島には殆ど帰らなくなりました。

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上の写真で左端に写っている68692。形態は徳島のハチロクで一番良かったと思います。既に主連棒もはずされていますが(2月1日付け廃車)徳島公園に保存されているはずです。後ろではDE10が臨港線の入れ換え中。

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同日唯一の稼働機58623。今日の牟岐線521レの牽引に備え出区準備中ですがナンバープレートが今に落ちそうで・・・でも同機は日車のハチロク初号機として豊川工場で保存されているそうです。左端、庫の中では最終列車の牽引機となった78647が化粧直しされています。

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「おかすな禁則、そだてよ安全」ターンテーブルの向こうには竜華からちょうど一年前に赴任してきた78670がリリーフの任を終え休車になっています。隣のC58-295号機は坂出で保存されているようですが78680は同年5月付けで廃車になっています。

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庫の中。上は23日、下は27日の撮影デス。下の写真で中央奥の78647のタイヤが最終運転用に白く化粧されているのがわかりますか。C11137もC11最終運用に就いた機でこの頃は66号機が運用されていました。

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27日の出区準備風景。一年前なら午後のこの時間はハチロクの他にC58・C11もこの給炭台の両側で準備していたので石炭も山盛りだったんですが今は一両、それもあと4日分デス。

S1970032303

給炭台と給水塔。こちらは23日の撮影。ハチロクが転向前です。

S1970032735

3月27日、給炭台を離れ客留線に向かう58623。この後同日の521レとなる回送を逆行で牽いて行きますが、上の写真が小松島で撮った煙の出ている蒸機としては最後の写真になりました。

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市役所前~冨田1970年3月

2008-12-21 23:22:44 | 蒸機時代の徳島で撮ったん

3月は徳島蒸機最終月だけあって写真が多いので場所別にまとめてみます。

S01

S06

まずは新町川鉄橋を行く7867078680。ハーフサイズのペンDで撮った写真でひょっとすると3月ではないかもしれませんがこの機の特徴であるキャブ下の直角カットがよく分かるので載せました。護岸工事は完成してますが魚屋は未だそのままでここだけ見ると終戦直後の様な感じデス。

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こちらは営業列車、牟岐行き521レ。鉄橋横にはいつも香川のバス(大川や琴参だったような)が駐車していましたがひょっとすると高徳特急バスだったのかもしれません。

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高徳・徳島両線は半年前にDE10になりましたが3月になってついに牟岐線貨物も練習運転が始まりました。DE10が入線出来なかった牟岐まで行く521~522レは最後まで8620だけの運転で改正後は気動車になりました。

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上は25日、下は26日に寺島川埋立地(現在、東署のある辺り)での撮影です。この列車は短いながら色んな貨車を繋いできて長物車や家畜車も頻度が高かったようです。どちらも上りは空車だったので羽ノ浦辺りに原木や飼育牛を運んできたのでしょう。

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新町川鉄橋に駆け上って行くところです。78647は最終列車牽引の整備のためか月末は殆ど58623の牽引でした。傾いたナンバープレートがよく分かります。

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新町川のアングルではこれが一番良いと思っています。現像時に付いた埃が残念な写真ですがこれ一枚しかないのでご容赦クダサイ。

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同じくこの時期になって撮り始めた場所に富田があります。新町川を渡って富田の立体交差を過ぎた、ちょうど今の阿波富田駅付近です。どうも私は新規開拓に無精で土壇場になってやっと変わった場所で撮るようになりました。

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新町川を渡り終えれば煙は出ないのではと思っていましたが未だ寒いせいか白煙は結構出ています。手前の廃車体、マツダ初の四輪乗用車R360だと思います。

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8620がこの方向に逆行運転するのは牟岐から上ってきた522レが蔵本まで行って折り返してきた426レの小松島への回送です。26日の撮影でこの頃になると春休みなのに苦手な早起きもしていたようです。やはりこの区間で朝日を浴びる列車を見るのは新鮮な感じがします。

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順番が逆になってしまいましたが、こちらが522レです。私としては上りの正向は希少価値があります。この列車が番号そのままで蔵本まで入っていました。

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28日の回521レです。次位のC11は137号だと思います。先に紹介した2枚のDE10の練習運転に付き合ってるのは66号ですがC11の最終運用は137号だったのでこの日から交代したのだろうと思います。

今回はここまで。そろそろ年賀状を作成しなければ・・・

コメント (2)
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キハユニ48000とキハユニ15の関係について

2008-12-01 00:19:18 | ダイヤと車両

長いタイトルですが最近調べたことをちょっと報告。

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写真は3枚とも徳島のキハユニ15デス。2枚目と3枚目の写真は既に紹介済みですが。

この記事の起こりは、この前買った鉄ピク・アーカイブス№13「国鉄の気動車」にある「新鋭ディーゼル動車の運転開始について」という1953年11月の記事の中で1953(昭和28)年度の新製車形式別両数という表に「徳島本線」の文字を見つけたからデス。

1953年といえば’57年の称号改正前なので未だ4万台の番号が付いていますが、表には184両のキハ45000(後のキハ17)や15両のキハ46000(キハ18)に続き14両のキハユニ48000と7両のキユニ48100が発注予定になっています。

問題はキハユニ48000の内2両が徳島本線用となっていることです(他は越後・真岡・水戸・奈良・桜井の各線)。解説によるとこのキハユニ48000は片運・非貫通となっていたので、ひょっとしてキハユニ15とはこの新製配置された車両が称号改正を受けたのでは???と思ったのです。

それまではキハユニ15については湘南顔と呼ばれている正面形状より初期の電気式ディーゼル車を改造したものだろう、と思っていたのですが「新形式新製即配置」の栄誉?かもしれないと考え調べてみました。

結果はキハユニ48000とキユニ48100は計画だけで終わったようだという事が分かりました。キユニ48100なんて両運・貫通、つまりキハ11をそのままキユニにしたような感じでしょうか?後に四国は改造車天国と呼ばれましたがさすがにこのタイプはいなかったのでは。

たぶんキハ45000とキハ46000は予定通り発注されたのだろうと思います。ところがキハユニとキユニについては、’56年にはキハユニ44100(後のキハユニ16)が電気式のキハ44100から改造されているので同時期(’52年)製造されたキハ44000も合造車に改造してしまう案が既に出来上がっていたのではないのでしょうか?

そのとき新製された車両でしょうか、同誌巻末の配置表をみると1955年3月には45000×17両、46000×1両が徳島にあります。この時四国は未だ後のキハ05や07が主流で高松でさえ45000は3両だけ。徳島が四国では最大で最新型の気動車配置区でした。

更に別のアーカイブスの配置表をみるとキハユニ15(5と12)が配置されるより前、’57年11月の表にキハユニ16が2両徳島に居ます。前述のようにキハユニ16は元は電気式のキハ44100。44100と同じ年に生まれた同じ電気式のキハ44000はキハユニ15になりました。同じ湘南顔の電気式なのになぜ別形式になったのでしょうか?後述しますが、キハユニ15には液体式からの改造車も含んでいるのにキハユニ16だけ別形式になったのが分かりません。私の分かった両者の違いは15は種車が3扉、16は2扉だったということ位デス。

キハユニ15の種車は2形式3タイプで

①電気式キハ44000(後のキハ09)の1次車5両、オハ61の様な窓 ②キハ44000の2次車10両、いわゆるバス窓に変更 ③試作液体式のキハ44500(後のキハ15)、’53年製なのでバス窓

何れも’57年にキハユニ15に改造されています(竣工は称号改正後)。徳島にいた№5と12は上記②のグループからの改造車ということになります。ところで今回の調べ物で「キハユニ資料室」様ほかのHPを見るとキハユニ15の内5両が後に貫通式に再改造されたことが出ていました。これまた新発見、どんな顔だったんでしょうか?

私が撮っていた頃、キハユニ15は徳島線と牟岐線に運用されていたようで高徳線には高松のキユニ15やキユニ17が入って来ていました。鳴門線は不明ですが鍛冶屋原線はキハ30が特に間仕切りもせず少しの荷物を乗客と一緒に載せていました。この当時、徳島で10台気動車は他にキハ11が7両のみになっていましたが、キハユニ15はキハ11無き後も郵便荷物合造車ゆえか長生きしたようです。おしまい。

2009年5月18日追記

鉄ピク・アーカイブセレクション10「国鉄客車開発記」の中

「鉄道郵便車の運用はどのように」(1957年6・7月号)の最後の方で

「一時出ると言われたキハユニの図面も見て下さい.」として

簡単な二面図が掲載されています。

外観はキハ17(WCがないから16か)の前半分をユニにしたもの。

恐らくこれが幻のキハユニ48000だったのでしょう。

結局は文中にあるように改造で間に合わされてキハユニ15・16が誕生、かな。

これまた文中にありますが、

全室・半室の新製はあったものの「ハユニ」はこの記事の後も

ついに新製されることなく改造車だけで終わってしまいました。

キハユニ25とキハユニ26が新製されています。

お詫びして訂正致します。。。

2009年5月24日訂正

コメント (2)
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