長いタイトルですが最近調べたことをちょっと報告。
写真は3枚とも徳島のキハユニ15デス。2枚目と3枚目の写真は既に紹介済みですが。
この記事の起こりは、この前買った鉄ピク・アーカイブス№13「国鉄の気動車」にある「新鋭ディーゼル動車の運転開始について」という1953年11月の記事の中で1953(昭和28)年度の新製車形式別両数という表に「徳島本線」の文字を見つけたからデス。
1953年といえば’57年の称号改正前なので未だ4万台の番号が付いていますが、表には184両のキハ45000(後のキハ17)や15両のキハ46000(キハ18)に続き14両のキハユニ48000と7両のキユニ48100が発注予定になっています。
問題はキハユニ48000の内2両が徳島本線用となっていることです(他は越後・真岡・水戸・奈良・桜井の各線)。解説によるとこのキハユニ48000は片運・非貫通となっていたので、ひょっとしてキハユニ15とはこの新製配置された車両が称号改正を受けたのでは???と思ったのです。
それまではキハユニ15については湘南顔と呼ばれている正面形状より初期の電気式ディーゼル車を改造したものだろう、と思っていたのですが「新形式新製即配置」の栄誉?かもしれないと考え調べてみました。
結果はキハユニ48000とキユニ48100は計画だけで終わったようだという事が分かりました。キユニ48100なんて両運・貫通、つまりキハ11をそのままキユニにしたような感じでしょうか?後に四国は改造車天国と呼ばれましたがさすがにこのタイプはいなかったのでは。
たぶんキハ45000とキハ46000は予定通り発注されたのだろうと思います。ところがキハユニとキユニについては、’56年にはキハユニ44100(後のキハユニ16)が電気式のキハ44100から改造されているので同時期(’52年)製造されたキハ44000も合造車に改造してしまう案が既に出来上がっていたのではないのでしょうか?
そのとき新製された車両でしょうか、同誌巻末の配置表をみると1955年3月には45000×17両、46000×1両が徳島にあります。この時四国は未だ後のキハ05や07が主流で高松でさえ45000は3両だけ。徳島が四国では最大で最新型の気動車配置区でした。
更に別のアーカイブスの配置表をみるとキハユニ15(5と12)が配置されるより前、’57年11月の表にキハユニ16が2両徳島に居ます。前述のようにキハユニ16は元は電気式のキハ44100。44100と同じ年に生まれた同じ電気式のキハ44000はキハユニ15になりました。同じ湘南顔の電気式なのになぜ別形式になったのでしょうか?後述しますが、キハユニ15には液体式からの改造車も含んでいるのにキハユニ16だけ別形式になったのが分かりません。私の分かった両者の違いは15は種車が3扉、16は2扉だったということ位デス。
キハユニ15の種車は2形式3タイプで
①電気式キハ44000(後のキハ09)の1次車5両、オハ61の様な窓 ②キハ44000の2次車10両、いわゆるバス窓に変更 ③試作液体式のキハ44500(後のキハ15)、’53年製なのでバス窓
何れも’57年にキハユニ15に改造されています(竣工は称号改正後)。徳島にいた№5と12は上記②のグループからの改造車ということになります。ところで今回の調べ物で「キハユニ資料室」様ほかのHPを見るとキハユニ15の内5両が後に貫通式に再改造されたことが出ていました。これまた新発見、どんな顔だったんでしょうか?
私が撮っていた頃、キハユニ15は徳島線と牟岐線に運用されていたようで高徳線には高松のキユニ15やキユニ17が入って来ていました。鳴門線は不明ですが鍛冶屋原線はキハ30が特に間仕切りもせず少しの荷物を乗客と一緒に載せていました。この当時、徳島で10台気動車は他にキハ11が7両のみになっていましたが、キハユニ15はキハ11無き後も郵便荷物合造車ゆえか長生きしたようです。おしまい。
2009年5月18日追記
鉄ピク・アーカイブセレクション10「国鉄客車開発記」の中
「鉄道郵便車の運用はどのように」(1957年6・7月号)の最後の方で
「一時出ると言われたキハユニの図面も見て下さい.」として
簡単な二面図が掲載されています。
外観はキハ17(WCがないから16か)の前半分をユニにしたもの。
恐らくこれが幻のキハユニ48000だったのでしょう。
結局は文中にあるように改造で間に合わされてキハユニ15・16が誕生、かな。
これまた文中にありますが、
全室・半室の新製はあったものの「ハユニ」はこの記事の後も
ついに新製されることなく改造車だけで終わってしまいました。
キハユニ25とキハユニ26が新製されています。
お詫びして訂正致します。。。
2009年5月24日訂正