台風一過の晴天を期待したのに雲多し。でもまあ、徳島を通過したわりには雨戸も閉めずに凌げましから良かった。
ネタ不足で食べ物のハナシも載せます。
徳島で有名な系統の蕎麦屋。いつも行ってる新町橋袂と、この前初めて行った西新町以外にも富田町にあるのを偶然発見、先日散髪の帰りに予定していたはなや食堂がコロナで臨時休業だったんで、足を延ばして寄ってみました。
格子戸と観音竹や棕櫚竹は蕎麦屋の必須アイテム。
ここはセットもあって、今回は親子丼と温い蕎麦のセットにしてみました。蕎麦はやはりこちらの系統で美味しいし、親子丼も丁寧な造りで久々に良い店に出会った気がしました。今度は愚妻も連れて来ましょう。
もともと夏らしい晴れが無いまま9月に入り、今度は迷走してきた台風が来て二週間撮り鉄してません。なんで最近続けてる昔のネガからのスキャンで非鉄のヤツを少々。
最初は小松島。1967(昭和42)年の夏、当時新型だったくも級護衛艦が小松島に来たと言うので行ってきたときのモノです。確か同型二隻で来て、乗船は出来んかったと思います。対潜重視の艦で、自衛艦で初めてアスロックを積んだクラスです。上の写真は自衛艦じゃなくて材木運んできた貨物船ですよ。
これはその時撮った巡視船。あさちどりで検索しましたが該当無し。300トン前後のタイプに当てはまりそうですが、巡視船は時々名前変えるんで分かりませんね。
巡視船は後檣が高くて昔の巡洋艦みたいで格好いいです。左の倉庫の裏手に小松島機関区からの貨物線が来ていたハズ。なんで撮っとかんかったか悔やまれます。
阿摂航路の客船。外見はまさに関西汽船らしいスタイル。ピントが甘いんで船尾の名前が読めません。1967年10月号の時刻表では、小松島-阪神航路は阿波国共同汽船との運航で太平丸とあかつき丸と言う千トン級の船が就航してる様です。これも検索するとあかね丸がよく似てる気がします。
これは南海汽船の鳴門丸でしょう。当初南海丸と言い、海難事故で沈んだ船を引き上げて改名しています。真冬の時化の夜に三角波にやられて大勢の犠牲者が出ました。
この船は五百トン弱で、関西汽船の半分で揺れるんですが和歌山は大阪に比べて海上の時間が短いと言う理由で、子供の頃に何度か大阪の親戚に行ったときにはいつも南海汽船でした。二等船室は桟敷席で丸窓は海面に近くて波が目の前なんは怖かったです。それでも、生まれて初めて乗った「電車」は南海電車、初めて乗ったエスカレーターは難波高島屋等、楽しい思い出の方が多いです。
船が続きます。ここは新町川河口で深日からのフェリーが発着する岸壁です。遠方右手は津田の海岸で、この頃既に海水浴場としてはダメになっていたと思います。中央は浚渫船で、その右手の小船に注目。
今だとこんなカンジ。二年前くらいに撮った写真で、現在は橋が完成してますね。末広に在ったフェリーの岸壁は沖洲川の向こうに移転しました。
今は元フェリー岸壁はファーストフードの店舗になってますね。
さっきの船が真横に来ました。阿波国共同汽船のあき丸、あきは安芸ではなく阿波と紀伊の頭文字をとってると思います。4百トン弱の客貨船ですが、ちゃんと一等船室もありました。小松島航路の船は純粋な客船でしたが、こっちは貨客船です。
当時の時刻表を見ると、大阪-徳島の一等は660円。大阪を12時に出て17時半に徳島に着く便があるんで、たぶんそれだと思います。
今はこの辺だと思うんですが、背景の山並みも特徴がなくて特定出来ません。
新町川を遡上してかちどき橋袂にあった岸壁に向かいます。当時はこの辺でも材木の筏が見えます。
上の写真で眉山の手前に石油タンクが写ってますが、今でも錆びた状態で残ってるこれだろうと思います。
これは少し前に万代埠頭の先の方に進んで見たときに撮ったヤツ。直ぐ先は結婚式場になってます。
この頃、向こう岸の中央付近は水産埠頭で漁船が多く泊まってました。今なら遠洋漁船は大概あき丸より大きいですが、当時は39トン型でマリアナ近海まで行ってたそうです。
眉山のカンジから今ならこの辺かなと思います。この辺も川の両岸ともマンションが増えて来ました。
次は寺島川。今回のスキャンで楽しみにしていたのがここと、小松島駅の奥。小松島駅の奥で撮った記憶のあるキニ04は出て来ませんでした。
さて、まだ水があった頃の寺島川。立体交差は既に完成してるんで、お城のお濠とは寸断されています。杭がたくさん打ってありますが、以前は材木が筏で運ばれて貯木されてました。向こう側の建物は左から順に、自治会館・市役所旧庁舎・徳新本社、跨線橋を挟んで文化センター・旧東警察署です。
今だとだいたいこの辺かと思います。寺島川は主に新町川を浚渫した土で埋め立てられ公園や東署(これも中央署に移転して現在解体中)が建ちました。木立の向こうは左端が千秋閣(旧・自治会館)とその隣が市役所です。
市役所前の旧徳島橋の所にある跨線橋から駅方向を見たところ。右端の文化センター自転車置き場からよく撮りました。
現在。夾竹桃は昔から在ったようですが、ワシントン椰子は無かったんですよ。文化センター跡地も新施設建設の準備が始まった様です。
写真が少ないので追加。寺島川沿い通りから東に抜ける通りで、右手は今東消防署がある辺りだと思います。左端のブルーバードが出ようとしてる通りが現在の11号線。あの頃は板塀で囲まれた家が多かったです。
市役所前を通過した521レが新町川の鉄橋に向かっています。線路の向こう側が寺島川。この左後ろの池添蒲鉾店を含め、この辺はあんまり変わってないと思います。昔はこの線路沿いに魚が干してあって蠅が多いところでした。
上の写真の場所から富田橋の方を見たところ。富田橋の向こうで建設会館のネオンが目立ってます。
列車が写った写真はまた別にまとめます。
徳島に帰省しております。やっぱり今年は日本中寒い。
帰省の道中と徳島での撮り鉄は次回以降に。
前回の続きです。
有名な「ちっか」売りのおばちゃん達。昔々の乳母車をカスタマイズしたような専用ワゴンです。フェリー化される前は奥のガラス戸の先にある岸壁に着いて居ました。
奥でちっかを見ている男性は小生の父だと思います。
50系が入線して客待ち中です。左手の道路と直ぐ先で交差して左に曲がった所に小松島駅(本駅)のホームがあります。
高校時代、小松島へは月4回は行っていたんですがこの辺は「そのうち撮りゃええわ」と高をくくって撮らずじまいでした。
※実は帰省前に記事を下書きし、徳島からケータイでアップするつもりだったんですが、初めてやってみるとここで切れていました。で、以下は再作成。トホホですぅ・・・
17時丁度発の列車(たぶん423レだと思います)が既に入線中。
手元にこの年の時刻表がなく直近で有るのが’75年3月(新幹線博多開業の時)。10年前じゃ参考にならんか。ところで今回この時刻表を見ると、小松島線は既に単独の枠を与えられず高松-海部間で中田と南小松島の間に挿入されています。なんと夕方に小松島発の客レが3本あります。423レは小松島16:52の池田行き、425レが17:23発穴吹行き、でその後427レとして小松島港18:20発の池田行きがあります。
ところが、折角の小松島港発にも拘わらず船の方は南海が17:30着、共同汽船にいたっては15:30着しかありません(共同汽船は連絡運輸になっていません)。ただ、この427レは通勤列車かと思いますが、池田で30分まてば高知行き土佐6号にちゃんと接続するのが国鉄の凄いところです。
小松島港駅ホーム端の踏切から本駅方向を見たところ。カーブする線路の左にあるのが小松島(本駅)の臨港線ホーム。本駅ホームは左奥で臨港線から直接入線することは出来ません。
上と同じ場所から反対側、小松島港駅を望んだところ。列車に出発合図を出すためでしょうか、本駅から助役さんがやってきました。
ほぼ同じアングルですが、どっちが先に撮ったかは不明。左手のビルは合同庁舎。全体的に緑っぽくなる色調はアグファの特徴、と言う勝手な先入観を持っています。
ここからの下の写真は小生が撮ったものではありません。プリントされた写真だけが残っています。たぶん、同じ日に父が撮ったものだと思うんですが・・・
小松島港駅を出て徳島に向かって踏切通過中です。ドアが開いたままですが、50系って自動扉だったはずなんですが。直ぐ近くなんで開けたまま走ってるのか、はたまたこの少年が勝手に操作したんか。小学校高学年~中学生くらいのこの子も今じゃ40過ぎのおっさんですね。
上の写真と順序が逆かもしれません。一人だけ乗客が居て煙草を吸っているようです。背後の巡視船はくわのか、そうだとすると就役間もない頃となります。
踏切を通り切ろうとしています。交通量の多い踏切ですが列車本数が少ないせいか遮断棒はありません。なんで、右端では既に車が渡り始めています。
完全に順番が逆ですね。
助役さんが列車を見送っています。さっき小松島港駅まで歩いていた方だとすると、ここまで列車に乗ってきたんでしょう。だとすると、この区間は車掌が乗務しない構内運転扱いかもしれません。
これはたぶん発車後に撮ったんだろうと思います。小生がここらで撮っていた頃は、写真左手のホームの直ぐ横に船が着いていましたが、この頃は神田瀬川河口の方に変わっていました。
「1日で・・・」とありますが、実質3時間で全部が廻れるという何とも横着者向けの企画に愚妻が参加して来ました。天候不順、日曜の朝一番の組ということで空いていたか、前売りは簡単に取れました。
あっけなく結願してますが・・・ムチャクチャ混んどった、そうです。
同じ建物の中で売っていたそうです。米粉に和三盆使用であっさりして美味しかったです。ただ、蓋を止めてる要冷シールが剥がれなくて、薄い紙で指を切りそうになりました。
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本題は30年近く前の4月に撮った小松島の写真です。今年のこの日は帰省していてたぶん撮り鉄する予定です。例年、連休だとそろそろ半袖かなぁという頃ですが、今年は今日の天気見てるととんでもないという気がしますが一週間先はどうなってるでしょうか。
帰省した時に小松島線が無くなると言うんで子供を連れて行って来ました。当時はすっかり鉄道から離れて写真は子供撮影用のオートフォーカスコンパクトカメラです(確かペンタックスかキャノンだった)。
「こまっしま」、一見無人駅のようですが駅員さんが居ました。スレート葺きのようですが、昔からこうやったんかいな?。
本駅は一面一線。10両くらい停められそうな長さがあります。
上の写真から反対方向を見たところ。旅客ホームの海寄りがそのまま元・貨物ホームになっています。だいぶボロボロになった貨物上屋が残っています。その右側は神田瀬川の河口です。
元々貨物扱い用の線路が敷かれていたと思われるところに照明灯の柱が建ち、もう随分前からここでの貨物扱いは行われていないのでしょう。
貨物上屋を過ぎ、ホームの端まで来た所。左側は客貨車区、総ての建物が木造です。留置されている客車は既に休車で、この頃客車は50系化されていました。
更に海側に進んだ所。留置編成の端の車両はオハユニ61を救援車にしたオエ61ですね。直ぐ隣に神田瀬川河口に停泊する船が写っています。昔々は阿摂航路の客船もこの右奥に入り本駅で船車連絡が行われていたようです。中二の撮り鉄を始めた頃は駅の広場を挟んだ反対側に船会社の建物が未だありました。
その頃といえば、上の客車が留置されてる所にはキハ04(当時はガソリンカーと呼んでいました)が休車で置かれていたのを今でも憶えています。撮ったはずなんですがネガ紛失。
写真の順番が前後してるかもしれません。撮り鉄していた頃、徳島の客車は61系ばかりでしたが50系化前にはだいぶ上等な客車が来ていたようですね。オエ61の隣の客車は窓が11個で台車の形状もTR47の様なので43系ではないかと思います。
オエ61です。徳島駅のターンテーブルの所に長く留置されていたのと同じ車両でしょうか。
この写真では既に貨車は全然写っていません。小松島線の貨物扱い廃止と同時に貨車の検修機能も無くなったようです。
小生が撮っていた頃には貨車の検修も盛んに行われたいたようで、この付近にも貨車が一杯居ました。ところで、上の写真で左の有蓋車は額縁と呼ばれる側面構造のワム60000初期型のようです。
この写真を探していた時、並びにオエ61が写っていました。やはり15年近く前から小松島常駐だったようです。
長いホームの貨物扱い部分。ホーム側の線路は照明灯の柱で途切れ、既に朽ちかけています。右の50系は今夜の徳島線列車に使われる編成だと思います。
客留線の最奥付近。クレーンは貨車検収用だと思います。人の姿はありません。撮り鉄していた頃は活気があって、とてもこんな所まで入って来れませんでした。
既に紹介済みの写真です。物置に利用されているキハニ(ガソニ?)の車体で、ファンには有名なものだそうです(「思いでの小松島線」というサイトを参考にさせて頂きました)。
続きますよ。
徳島は大雨だとニュースで言ってました、と始めようと思ったんですが
関東でも地震がありました。
だいたいこの夏関東は8月も半ばになろうかというのに
スカッと晴れた日がほとんどありません。
それでも今週は旧盆、電車が空いて通勤が楽になります。
徳島では阿波踊りに向けて盛り上げっているのが
リンク先の身内のブログから伝わってきます。
で、南東風はちょっと前の阿波踊りの写真を。
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一連の写真は1971(昭和46)年8月14日(もしくは15日)撮影。
この年の夏、鍜治屋原線→「糸崎な夜」→阿波踊りと連続撮影です。
「糸崎な夜」でネオパンSSSが余ったのか、糸崎と同じ1600増感です。
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↑両国の演舞場だと思います。
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↑三和銀行の建物が見えるので
新町橋の北詰から駅方向を望んでいると思います。
今なら中央右手にそごうが写るはずですが
当時は真っ暗です。
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↑こちらは同じく新町橋の南詰めから眉山方向を望んだところ。
両側のアーケード街も元気だった頃です。
ワシントン椰子は地下駐車場工事で一時避難でしょうか。
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↑2枚とも場所不明です。 阿波踊りの夜は街全体が沸騰しているような雰囲気に包まれるのが良いですね。 ・ ↑これも場所不明。最初は「えべっさん」の前かと思ったんですが 向こうの通りの様子からちょっと違う気がします。 ペットボトルも自販機も無かった当時、 大きな氷を入れてどぶ漬けにして冷やした瓶ジュースが懐かしいです。 ・ ↑鳴り物の方でしょうか、かき氷で一服。 こちらも場所は不明ですが 水道局の隣の店かなと思っています。 ・ ↑これは通町でしょう。右の建物は郵便局。 丁度写真を撮っている場所に 昔、粉屋さんがありました。 ・ ↑徳島本町の歩道橋から望んだ城東高グラウンド。 臨時駐車場になっていますが、 当時から観光バスがずいぶん来ていたのがわかります。 ・ ↑埋立の終わった元・寺島川も臨時駐車場に。 向こうは市役所前の桟敷。 市役所旧庁舎とともに東消防署の火の見櫓も見えます。 撮っている場所はちょうど現在の東消防署の辺りです。 ・
↑前回の記事にも登場した市役所前の跨線橋から。
正面の掲示板は今でもあるそうです。
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あと3日、台風も過ぎて天気も良いのでは。
いきなりタイトルとは関係のない写真ですが
先週、久留里線のキハ30国鉄色復活記念臨時列車には仕事で行けず
学校が夏休みになる前なら今週しかないかなと思っていましたが
結局今週も仕事に出ました。
業績不振で困っているんですが管理部門は関係なしか。
でも久留里線の復活色キハ30の運用がわかりません。
久留里線は2両単位の運用が原則で土休ダイヤもあり
まして非冷房の同車が蒸し暑いこの時期定期運用に入るかな、と考えてしまいます。
やはりイベント時の臨時運用かなと思います。
残りの2両も近々塗り替えられるそうで当面は情報集めてからですね。
さて、ここからが「徳島のロータリー」について
先日、リンク先に「市役所前のワシントン椰子は両国や元町のロータリーから移植したのではないか」とコメントしたんですが
よく考えてみるとだいぶ時期がずれているようで この説は取り消します。 ここでまた国土地理院の「国土変遷アーカイブス空中写真」をご覧下さい。 http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MSI611&courseno=C13&photono=7 1961(昭和36)年5月6日、高度1800mからの撮影。200dpiで見て下さい。 地元の方なら一目で位置関係はわかると思いますが 今とはだいぶ違うのでまたしても下手なトレース図を
今回は結局色鉛筆で着色。
この写真のすごいところは立体交差が未だ工事中なんです。
完成は’61年9月だそうですから後数ヶ月という時期です。
従って今は立体交差の両側にある跨線橋も未だなくで踏切のようです。
工事中は北側の公園になっているところに掘った土が積み上げてあって
どろんこになって遊んで家で怒られた記憶があります。
懐かしついでに
城東高校北側には市民プール、
城山東側には松茂の旧海軍格納庫を移設したという
カマボコ型の市民会館(その後、市民体育館)が見えます。
プロレス、サーカス、歌謡ショウと催し物は専らここでした。
ちょっと全体をみると
田宮の辺りは水田地帯、そして今のR192が目立ちます。今はどうか知りませんが当時は「国体道路」と呼ばれていました。
この他にも当時から計画的に道路が整備され始めていたのがよく判ります。
かちどき橋から北上するR11が助任川の所でプッツリ途切れています。
南東風が徳島にいた時はこのままの状態でした。
当時のR11は助任橋からお濠沿いを南下、教育会館前から
城東高校横をクランク状に抜けて徳島本町交差点に至っていました。
それにしても
助任川・田宮川・福島川それに埋立前の寺島川におびただしい材木が貯木されています。
当時の徳島がタンスや仏壇など木工品の産地であったことの証です。
で、ロータリーですが略図で茶色に塗ったのがそれです。
当時それらの交差点には信号機がなく(そもそも徳島に交通信号機が設置されたのはいつだったのか)ロータリーを廻って右折していました。
ここにワシントン椰子が植わっていたような気がしたんですが、写真を見るとなさそうですね。
写真では建物の影が北東方向に見えるので午後の早い時間ではないかと思います。
当時、市役所南側にあった東消防署の火の見櫓の影が見えるので、
高い椰子の木があれば影が見えるはずですがなさそうです。
検索してみると昭和28年の国体の時に県庁にあったものを駅前に移植したそうです。
そもそも私が写真を撮り始めた頃は市役所前にワシントン椰子はありませんでしたが、そのずっと前にロータリーは無くなっていましたから。
いったい市役所前のワシントン椰子はいつからあそこにあるのか・・・
次回は写真を整理して懲りずに「糸崎な夜」その6に進みたいと思います。