徳島鉄道風景(新)

昔の徳島の蒸機が尽きて関東中心にしてましたが
戻って来たんで、これからは徳島起点でやってきます。

宇高連絡船の思い出

2009-02-28 22:56:51 | その他

昨夜チャットモンチーをまだ2度目ですがテレビで見ました(結局録画能わず)。橋本さんの衣装がどんどん変になっていくような気がするんですが若い人たちにはあれで良いんでしょうね?(下書き状態で一週間放置していたので以下は少しずれてイマス)

連休だったので本来ならN瀬戸編成製作に着手する予定で準備していたのですが、最近不調だったパソコンのテレビ視聴ソフトが全く起動しなくなりました。削除・再インストールを数回試行シマシタがなぜか肝心のソフトだけインストールされません、丁度2年間何事もなく使ってきたのに・・・我が家は録画をこれに頼っていたので何か対策を立てねばなりません。

さて、蒸機最終月まであと二週間。今回は宇高連絡船のことを少し。きっかけは時々おじゃましているごっさん様のこちらの記事デス

http://gossan.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-848a.html

私が利用していたときは緑色でしたが、この当時はJR四国色というのかキハ47のような配色だったのですね。宇高航路時代は4隻の同型船が四国の旧国名を付け各県を象徴する色に塗り分けられていました。ちなみに阿波丸の赤は阿波踊りの情熱・・・だったと思います。

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写真が無いので記念切符で代用します。この当時の讃岐丸は先代の船です。阿波・伊予・土佐の3隻は「伊予丸型」という同型船ですが讃岐丸だけ一世代前の船で残っていて、これが当たるとなんかがっかりしたものです。真ん中の貨車渡船「第3宇高丸」は讃岐丸が伊予丸型に置き換えられて航送能力がアップすると姿を消しました。その結果、一番新しい讃岐丸(1974年、内海造船瀬戸田工場製)が航路廃止後も残ったのだと思います。宇高航路引退後、納涼船みたいな運行をしているのを時刻表で見て帰省の際に乗りにいってみたいなぁと思ってはいましたがそれっきりになってしまいました。

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連絡船の楽しみは100円で乗れる(当初)グリーン船室で駅弁を食べながら備讃瀬戸の風景を眺める事でした。普通船室後部のデッキで連絡船うどんを食べるのが醍醐味という人も多かったようですがグリーン船室利用にはもう一つ利点があります。特に下りの混雑時、高徳線には指定席が無く、かつ高松から乗車の人が先に席をかなり占めているので連絡船からの乗り継ぎ乗車はダッシュしないと席にありつけませんがグリーン船室は船客が少ないためスタートで優位に立てます。タラップは一カ所で船内案内所を挟んで左右に別れます。接岸前に殆どの人が席を立って列を作りますがグリーンなら最後部でも普通船室の三分の一位に匹敵シマス。左側の券は船内発行のものです。

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上りは接続列車の指定さえ取れれば特にグリーンでなくてもいいんですが。写真は徳島駅で取った指定です(「うずしお」は昔々新大阪-宇野間の特急でした)。既に初代マルスが導入されていましたが徳島駅でブロックしていた分があったのでしょうか、写真のような券も使われていました。「うずしお3号」は元「ゆうなぎ」だったと思います。この列車の船内案内所発行券を取ってあったと思っていましたが見つかりませんでした。

S05

今回は切符ばかりです。上は「船急行券」デス。「とびうお号」、キャッチフレーズは「海の新幹線」だったと思います。改札を一旦出て岸壁に向かいスカートをまたぐ長いタラップを渡った記憶があります。通常1時間掛かる航路を約20分で走破シマスが、接続列車も1時間毎の設定なのでひとつ前の列車に乗れる訳ではなく余裕をもって席の確保が出来る、というくらいだったと思います。2回使っているようですが確か空いていたと思います。

S06

残っている最新の船グ券です。2枚あるので女房も一緒だったようです。この後一回だけ連絡船を使いましたが子供が小さかったこともあって殆どこちらになりました↓

S01

以上、今回は自前写真ゼロでお送りしました。

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徳島市内の古い店

2009-02-16 00:08:25 | 徳島で

やっと関東内陸の地にも春一番が吹きました。また寒さが戻るそうですがやはり春が近づいた感じでうれしいです。

昨日ブログのデザインを変えました。光回線への変更に当たってNTTから工事日について電話があるというので9時には起きてどこにも行かず待っていました。が、なかなか掛かってこないので暇つぶしにいじっていました。最初にサイドバー付に変えてみると写真が小さくなって再変更。モノクロ写真には合わないデザインですがもうすぐ始めて一年になるのでたまには変化もいいかなと思っています。

さて今回も来月までのつなぎにまた非鉄ネタです。帰省の時に撮った市内の写真を。

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最初の写真は新町橋北詰にある八百秀の入った古いビルです。私が幼稚園の時くらいからあったと思います。確か昔は映画館も入っていたように記憶してるんですが。昨夏帰省した時、建て替えてホテルなんかも入った高層ビルにする計画があると聞きました。で、慌てて撮ったのが上の写真です。午後なので逆光ですが。その計画は高層ビルが眉山の眺望を遮るとのことで反対もあるとのことです。経年と利用状況からこのままで良いとは思いませんがやはり駅前から眉山が見えなくなるのは勘弁してもらいたいデス。

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次は市役所横の「えびすけん」です。今は自販機コーナーみたいになっていますが昔は菓子屋さんで「メロンサンド」「バナナサンド」というコッペパンに切れ目を入れて鮮やかな色の付いたメロンとバナナの味がするクリームを挟んだパンが名物で時々買ってもらったものです。もう随分前から写真のような状態ですが屋号が残っているので懐かしさを覚えます。

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パンと言えば、昔徳島で一番おいしいパン屋は両国橋南詰銀座入り口にある「京華苑」だったと思っています。上の写真も随分補正していますが看板が小さいので苦労しました。カステラと書いてありますが覚えているのはミミまで柔らかい食パンとあんぱんをはじめとする菓子パンです。ケーキなんかんの洋菓子も扱っていたように思います。数年前まで左隣の果物屋さんも残っていたんですが変わっていました。しかし今の東新町・銀座の状況の中で続いていることはすごいです。

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続かなかったのが「橋本」。昔から我が家は新町橋のほうの橋本ばっかりだったので実はこの店には入ったことがありません。どちらも「生そば」メインの店ですが別系統だそうです。こちらの橋本はあちこちに店があるようで立て看板に富田町店で営業を続ける旨が書いてあります。

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食べ物が続きますが、コーヒーがおいしい通町の「イカリヤ」。郵便局があるので一定の利用があるのでしょうか、ここもよく続いています。昔、市内の喫茶店といえば新町橋北詰の「さくらま」と両国橋北詰の「ふじ」(だったかな?)を覚えていますが20年以上前に無くなりました。

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いかりやのある通町は結構昔の店が残っているようです。写真手前は両国本町デス。きれいに整備されたのに駐車場が増えていくのが寂しい。

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食べ物最後は瀧のやきもち。寺町の「せと久」デス。今、やきもちはスグ近くの別の店(和田の屋だったか?)が駅構内でも売っていますが我が家はせと久でした。最近は買ったことがなく写真を撮ったときも営業しているのか不明。

食べ物店以外は次の機会に。文化センターも立て替えの計画があるそうで今度帰省したときにはもっと撮っておかないと蒸機の二の舞になりそうです。

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1967年の写真

2009-02-08 23:50:18 | 蒸機時代の徳島で撮ったん

うちの団地にも光回線が引かれたそうで早速乗り換えようかなと考えています。

さて、今回は1967(昭和42)年の写真を少々。何度も書いて来ましたが撮り始めた時はハーフサイズ(オリンパスペンD)でしたがこのネガは見つかりません。が、今回のスキャンの最中35㎜版のネガフォルダーに入ったものが一本だけ残っていました。それとプリントして残っていた写真を紹介シマス。

S1967half22

ネガの記録は1967年とだけ。でも見れば二軒屋駅を発車するC11牽引列車と分かります。ハーフサイズはカメラを普通に構えると縦位置になります。

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次は徳島駅で入れ換え中のハチロク。ワフに書かれた四鉄の表記が懐かしい書体デス。手前はワフ21000,奥は22000。

この入れ換え中の貨車の中に無火回送中のC58が入っています。

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重宝しているRM付録「蒸機機関車表」で調べるとC58143は「’64.4現在、高松」の後、(’68.10釧路→五稜郭、どこかで記録が混乱しているようだ)とあって最後は’69.6.17松山で廃車となっています。たぶん小松島に異動してきた時ではないかと思います。下の写真にもチラッと写っていますが

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当時はポイント扱所がありました。佐古方のは木造でしたがこちらは鉄筋(モルタルかな)。貨物の入れ替えは市役所前まで引き上げて突放を繰り返す方法です。「本線6番ッ、ロクバ~ン」と大音量で操車掛に進路を示す徳島弁まるだしの放送が終日響きわたっていました。

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こちらは気動車の入れ換え。手前はありふれたキハ11ですが後ろは高松所のキニ17。

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今度は紙焼きした写真をスキャンしたモノ。’68年8月の撮影です。徳島駅で発車を待つ何度か紹介しているアングルですがこの写真は牽引機が139号機。またまた「蒸機機関車表」によるとC11137~140は揃って広島から徳島に異動してきたようです。このうち137は徳島蒸機最終日にも稼働していて、私の撮ったC11の5割くらいは137号機ですが138~140は1~2枚しかありません。ハーフのネガがないなかこの一枚は私にとって貴重です。この139は翌’68年7.17付けで廃車となっています(小松島)。

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これも紙焼きからスキャンですが当ブログ初登場のC12デス。’67年8月に勝瑞駅北方で撮りました。これも私にとって大変な貴重な写真です。一見、C12牽引の旅客列車に見えますが実はこれは最後尾!と言っても補機ではありません。同年10月の改正までは夕方の高松行き列車の後部に鍛冶屋原線直通列車が機関車ごと板野まで併結されていました。気動車では支線直通列車の併結は当たり前ですが当時は蒸機でもこういうことが行われていたのです。先頭のC58まで写った編成全体の写真もあった記憶があるんですが残念です。鉄道ファン誌’67年10月号(№76)に「昭和42年10月ダイヤ改正の概要について」という記事があり、その中の「ローカル客車列車のDC置替(中略)土讃・高徳・鳴門・鍛冶屋原線DC化・・22両」という項目で「・・・高松-徳島、徳島-鳴門、板野-鍛冶屋原間各1往復をDC化するためDC22両を投入する」とあり、廃止直前の写真となりました。この改正で鳴門線・鍛冶屋原線は完全DC化され写真のC1282は宇和島へ、鳴門線旅客運用が無くなったC11も一両減の3両配置になりました。ちなみにこの改正で配置されたDCはキハ45が6両だと思います。

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こちらも紙焼きから。この写真だけは’68年4月デス。牟岐行521列車が新町川鉄橋に差し掛かったところ。足繁く通った場所でガードの向こうは魚の臭いが充満していました。写真左手には写っていませんが水上警察署がまだ現役だったと思います。

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おまけというわけではありませんが先の「’70年3月」の記事に載せられなかったので今回ついでに載せます。2葉とも’70年3月25日撮影。上の「3億円事件」に使われたような白バイ、右がホンダで左はカワサキでしょうか。場所は東署だろうと思います。

下は自衛隊のジープ。グリルの上に三菱のマークがありますが横にはウィリスと書いてありライセンス生産した車のようですがかなり傷んでいます。「中方」は中部方面部隊かな。

とりとめのない記事になりましたが今回はこれで終わりです。

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中洲・末広’70年夏その2

2009-02-01 23:19:53 | 蒸機を撮んりょった頃に徳島でな

今回も3月の徳島蒸機最終日の記事まで時間稼ぎに前回の続きを。Nの瀬戸編成は今日も全く手つかずでした。先ず中洲の写真

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写真の反対側は福島川だと思います。1970(昭和45)年8月の撮影。

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最初の写真のすぐ近く、中洲と末広を結ぶ橋(新福島橋?)のたもとです。ダンプの走る道はかちどき橋の北詰めに出ます。練炭や豆炭を扱う品川燃料があった辺りです。

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謎の写真デス。一連のネガの中にあったので中洲か末広だと思うのですが記憶がありません。銅像の後ろは学校の体育館でしょうか。

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末広に渡って直ぐの所。対岸は県庁の先、万代町・昭和町あたりでしょうか。少し先には漁船の着いている水産関係の岸壁もあり捨てられる雑魚を目当てにいつもトンビが飛んでいました。末広に通い始めた頃にはこの辺から淡路島の福良を結ぶ「福徳フェリー」も発着していました。

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対岸は津田になります。今はもうないと思いますが当時小さな造船所があり鋲打ちの音が響いていました。写真の左側が新町川と園瀬川の合流地点です。

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出航する徳島フェリーの連続写真です。

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運ばれてきた材木を筏に組んでいるところ。貯木は筏にして川に置いておくのが一番良いそうで助任川や田宮川は貯木場となっていました。沖の方に津田の松林が見えます。下の写真で中央に写っている白い船のタイプを古い人は「機帆船」と呼んでいたと思います。この頃もちろん帆走設備はありませんが木造の船は未だ現役でした。レーダーもない「海上トラック」が紀伊水道を行き来していました。

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船から川に降ろした材木を今度はクレーンでトラックに積み替えています。福島の辺りは製材所や仏壇・家具を作る工場が多く冬になると塗装を乾燥させるストーブから引火してよく火事があった記憶があります。クレーンといえばこんなのがいました↓

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ナンバープレートがないので据置クレーンとして使われていたようですがアームを収納するために運転台が半分しかありません。

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末広港の貨物船。300トンくらいでしょうか、このくらいの船を自家用船にして瀬戸内海をのんびり廻っていたいなあと当時から思っていました。

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こちらも末広港。小さい頃、徳島港といえば中洲のことでしたがこの頃は末広になっていました。ところが去年久しぶりに船で帰省してみると沖の洲(の更に先)にコンテナ岸壁が出来ていて驚いたものです。

次回はやはり「鉄」の話題にします

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