徳島鉄道風景(新)

昔の徳島の蒸機が尽きて関東中心にしてましたが
戻って来たんで、これからは徳島起点でやってきます。

徳島で1967と1968の春

2024-03-03 22:11:04 | 蒸機時代の徳島で撮ったん


なんだか不順な天気が続いてますが、これも春らしい天気なんか?改正前に撮っておきたいのが二題あるんで今朝は早起きして出掛けようと思っていましたが、朝の気温が氷点下近い予報で腰が上がりませんでした。
今回は徳島で蒸機最後となった1970年3月、中洲で撮ったモンです。光線の具合から朝、牟岐発の522レだと思います。昔から早起きは凄く苦手でこんな朝早い列車は撮ってなかったんですが、もう終わりとなればやる気が出た様です。今出てるRJ誌には四国の蒸機最終は1969年とありましたが、正しくは1969年度末だと思います。
写真の牽引機は日車が造った蒸機の1号機、58623です。30日まではこの機が牽いてましたが、最終日は飾り付けをして78647になりました。手前の盛り土は寺島川が埋め立てられたもので、その後東署が移転して来ましたが今はまた更地になって駐車場です。機関車の下にある小さな鉄橋の所は、今は自転車と人だけが通れる通路となってます。ここらから文化センター跡地までを使って新しい市民センター造ると聞いていたんですが、新知事はここにJRの車両基地を移してはどうかと言い出してまた先送りになりそうです。

現在、新ダイヤ作成を最優先してるんで今回は昔の写真で済ませます。


1枚目は徳島公園から駅の線路越しに眉山を見ています。機関車の向こうのクレーンがあるところが当時の貨物側線で今はJR貨物の駐車場ビルが建ってます。左端の都電機商会が懐かしい。徳島でラジオの部品を買うとなるとクリッパーやコージヤよりここでした。「子供の科学」の付録で鉱石ラジオつくったり、「模型とラジオ」見て1石低周波トランジスタラジオを作ったことがありました。


上の写真よりちょっと西側、中央の車庫はたぶん今でも使ってるヤツだと思います。この前、不正で大騒ぎになったメーカーのオート三輪が停まってます。前面に大阪城が描かれたエンブレムが付いてましたね。


更に西に進んで給炭台付近。今は内町小学校の正門前辺りになります。手前の多度津工場配給車代用のワ12000(たぶん)の常備駅が「浜多度津」になっています。


この写真は前に一度載せたと思います。出来島の踏切で、左後方に法務局があるところです。眉山に桜が咲いてるようですから3月末かな。


これは場所が変わって二軒屋の先、冷田川の鉄橋ではないかと思います。ひょっとすると冷田川と二軒屋駅の間にある小さな川かもしれませんが・・・写真の列車は徳島方向に向かっており、C12は最後尾にくっ付いてます。徳島から鍛冶屋原行きの列車が夕方の高松行きにC12付きで併結されてましたが、その回送?


これまでの写真が1967年で、ここから1968年になります。ここは今回冒頭の写真とほぼ同じ場所です。冒頭の写真の二年前ですが既に寺島川は埋め立て済み。列車は徳島から池田行き423レとなる回送で、逆行のC58は小松島から出区してきた351号機。時たま、こうして423レの回送にくっ付いてました。


上の写真の後追い。ネガの傷がひどいです。後ろの建物は左から、今は千秋閣となった自治会館、東消防署、市役所旧庁舎、徳新本社。


別の日。フィルムの最終コマを無理矢理巻き上げて次のコマが右端に二重写しになってます。この日はC11が先頭に付いてます。通信線のはえ叩きが現役、路肩に停まってるクルマも懐かしい。


文化センターの自転車置き場から自治会館の方を撮ってます。良く撮りに来た場所で、似たような写真は何度も載せてますが、戦時型角形ドームのC11320の走行写真はほとんど撮ってない。市役所前の跨線橋が撤去されて1年以上になり、替わりの通路が出来ると聞いてましたが未だに気配無しです。


雪の日の写真。徳島でも3月に何度か積もったことがありました。自転車通学だったんで難儀しましたわ。写真はありませんが、C58(確か12号機・・・)がスノウプラウ付けてるのを見たことがあります。北国の標準装備みたいなヤツではなく、角度が浅くて幅も狭かった。ひょっとしたら土讃線時代に用意されたんかもしれません。


市役所前の跨線橋から駅方向を見ています。スキャンして気付いたんですが、入換中の気動車の先頭はキユ25です。徳島にも来てたんですね。当時はまだこの車両のことを知らなかっただろうな。


キニやキユニが普通列車に繋がって運用されてるのは撮ってましたが、全室郵便車で、しかも後は急行編成です。雪で運用が乱れ急遽高徳線を代走したのか?


これは徳島駅西側、右手が花畑踏切になります。左は刑務所の煉瓦塀、中央に木造の西部信号扱所、そしてその右側奥の校舎の様な大きな建物は日通です。




貨物ホームから牟岐線下り列車の発車を撮ってます。今ではこんなとこで撮るんは御法度ですが当時はおおらかで良かった。


転属して間もないせいか未だ集煙装置が付いてない110号。背後は駅東側の信号扱所で、小松島から回送を牽いてきたのか、あるいは入換の途中なのか不明。


このハチロクは構内入換担当機でしょう。背後の城山と木造詰所の間に背の高い木が並んでますが、今のメタセコイアの並木が当時からあったんか?


また雪の日、寺島川埋立地でハチロクが牽く上り列車です。天気が悪いので朝か夕方か分かりません。朝なら列車は牟岐からの522レ。夕方なら池田行き423レの回送ですね。当時は左側の道路が国道11号だったんで水銀灯が付いています。


これも何度か載せた写真だと思います。左側が市役所になりますが、当時は未だワシントン椰子は植わってません。煙の背後は文化センター、右端の建物は東署の一部。


最後は冷田川(たぶん)の鉄橋を行くC11320の牽く徳島方面行き貨物列車。最初の方のC12が写った写真の反対側辺り。当時この辺の貨物列車は小松島からのと桑野からのがありました。
ダラダラと書いてきましたが、このへんでオシマイです。





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1967・1968年の小松島と徳島刑務所横

2021-10-03 21:36:15 | 蒸機時代の徳島で撮ったん


10月、待ちに待った制限緩和!不安材料は色々あるようですが「注意して進め」くらいになったんかと思います。
今回スキャンしたネガは春と夏ばっかりなんで、10月分は以前から何回か載せたヤツの使い回しです。直ぐ右手に徳島公園のお堀端から駅の方に渡る跨線橋がある場所です。立体交差が出来るまではここに警手のいる踏切がありました。入換中の車両はキユニ15で、中間車から改造された特異な全面は四国独特です。高徳線には線内用にこの他キユニ17も撮ったことがあります。


冒頭に書いたように制限緩和と言うことで、県外に行ってきました。引越前は埼玉県内、引越後も徳島県内でずっと自粛していて、「県外」撮り鉄は去年の6月以来になります。パンタグラフが付いた車両を撮るんはホンマに久しぶり・・・


10月って言うと一昨年までは数年連続で北海道へ行ってました。この時期、5日間全道の特急も乗り放題と言う格安切符があって、今年も出てる様です。行きたいんけど、徳島から北海道は遠いわぁ。

長雨のさなかに始めたスキャンが完了したので少しずつ載せていきます。今回は枚数の関係で小松島と徳島の旧・刑務所横で撮ったヤツを。


最初は1967(昭和42)年春の小松島駅ホームから見た中田・徳島方。このホームは駅舎前にあって、別に臨港線の小さなホームが右の方にありました。画面を横切る踏切は、右手が港で左に行くと三条通・二条通と交差して神田瀬川に至ります。正面は機関庫、その奧左手には当時東洋紡の工場(今の日赤病院の所)があり、右奥には当時日赤病院が金長神社の脇にありました。


駅舎を過ぎて神田瀬川河口の旧港横に広がる側線です。左端に写ってるのが小松島駅貨物上屋。その向こうが駅舎になります。


上とは逆方向、貨物上屋手前から河口方を見たところです。右側が旧港で、トラックが船と荷役中です。C11が貨車を牽いて来ていますが、ここでの貨物扱いは当時既に終わっていて、牽いてる貨車は左手の客貨車支区での検修車両の入替だと思います。


139号機は形式入りナンバープレートです。記録では137・139・140が小松島に居たことがあるようですが、137は最後まで居たので随分撮ったものの他の二機はほとんど撮っていません。


春に撮った一連の写真の最後は機関区のヤツを。門デフの59号機も小生はほとんど撮ってないんですが、今回のスキャンで初めて確認できたのは隣の38622です。高校時代の記憶では68692・58623・58685の三機で、38622は初めて気付きました。


ここからは同年夏に撮った写真です。小松島港駅に停車中の阿佐+いしづちです。通常は2+2の4両だったんですが、夏なんで多分阿佐が一両増結されとんだろうと思います。


車体側面を見ればキハ26も二両混じってますね。左手が岸壁で、奧の踏切を通ってる人はバスやタクシー利用者でしょう。


港駅と反対の本駅方向を見たところ。キハ30系が停まってるのが本駅の臨港線ホーム。交差する通りを右に進むと、この記事冒頭の写真にある踏切の通りと交わります。


さて、謎の写真です。上で写っていたキハ30+35が阿佐・いしづちの編成に増結されているように見えます。港駅のホームは6両が限界のようで、先頭のキハ30はまったくホームに掛かっていません。なにより、なんぼ多客期でもロングシート車増結するんかなぁと思います。キハ20は結構急行に増結されてましたが・・・


機関庫手前で撮った阿佐・いしづちの発車。上の写真とは違う日のようで、この日は4両です。


後追い。いしづちを利用して和歌山航路から松山に向かう旅客はどれくらいいたんだろう。


ハチロクはこの当時でも50歳くらいですが、均整のとれた格好いい機関車でした。大きめのデフもよく似合ってます。


庫の奧のターンテーブルの所。さっき38622を初めて確認したんですが、今度は68631が写ってます。38622は他の場所でも何枚か写ってますが、68631は休車状態のこの写真だけです。何れも形式入りナンバーで、68631の方は68692と同じく花文字です。1965年には小松島にハチロクが5両在籍になってるんで、この二両と68692・58623・58685だろうと思います。


このターンテーブル奧は休車を置くところで、二両とも休車札が差してあるようです。1965年の小松島はハチロク5両にC58は9両。その二年前はハチロク・C58共に7両ずつ、更にその前1961年はハチロク8両でC58はゼロとなってます。高松や高知にDF50が本格的に配置されたのが1959年で、その両区や多度津からC58が小松島と松山に来てハチロクと入れ替わっていきました。


また駅奧の留置線で救援車オエ70です。戦災復旧車の再改造で、17m級。ピントが悪くて31番か51番か判別出来ませんが、ウィキによるとオエ70←スニ75←オハ70←オハ31またはオハニ30と辿れます。


かなり傷んだ状態で、翌年ここで撮った時にはオハユニ61改造のオエ61に替わっていました。


ここから1968年春の写真。320号機が牽く回送列車の発車。


角形ドームが残る戦時型で、たしか関東から来たハズ。夕方、小松島から客扱いする425レと言う穴吹行きがありましたが、編成後部を見ると臨港駅か客車留置線から出て来たカンジですから回送だと思います。


機関庫奧には38622が居ます。休車札は無く、キャブには焚き付け用と思われる古枕木が見えます。ひょっとして給湯ボイラー代用?


小松島の写真が少ないので徳島駅西方で撮ったヤツも載せときます。先ずは1967年春に出来島踏切で撮った急行。まだ二両ともキハ26ですね。警手の居る踏切でした。背後の松原機械工具店は今も同じ場所にあります。眉山で桜が満開のようです。


右手の煉瓦塀が刑務所で、現在は市立体育館があるところです。踏切の上には歩道橋が出来てますね。


同じ場所から駅方向を見たところで、右端は信号扱い所です。南海ビルや駅舎は変わりましたが、C58が発車してる両側のホームは跨線橋も含め今もほとんど変わってないと思います。


ハーフサイズなんで縦型の構図が多いんです。46号機も今回のスキャンで初めて撮っていたことに気づきました。


上の列車の後追いです。何度か記事に書いてますが、夕方高松に向かう列車の後部には板野から鍛冶屋原に向かう列車が機関車ごと付いてました。C12から客車4両が鍛冶屋原行きで、その先マニ36?から前が高松行きです。今回のスキャンで鍛冶屋原行きにはオハニ61が組み込まれていたことが分かりました。板野までの各駅では鍛冶屋原編成はホームに掛からないはずです。


こっちは1968年3月と月が判明しています。


’68年になると池田行きもC58の牽引になったんですが、さて3月で既に代わっていたか?


110号機は王子から来たんですが、転入当初は集煙装置が付いていませんでした。これで大坂峠のトンネルを抜けるのは大変だったでしょうね。
今回はここまで。








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やっぱり今週も昔の写真で

2021-03-14 21:53:36 | 蒸機時代の徳島で撮ったん


先日、所用があってシステム障害が評判の某メガバンク支店へ行ってきました。手続きの途中でふと見ると目に付いた伝票。愚妻が「もうすぐ宝くじの発表がある」と言っていたの思い出し、要るかもしれんと一枚貰って来たんですが・・・


ネットの鉄道ニュース見てたらスカ線の217系が廃車回送され始めたと出ていました。


後継となる235系の投入が始まってるんで当然なんでしょうが、小生はこの217系のデザインが気に入ってます。醤油瓶のデザインで有名な工業デザイナーの草分け、榮久庵憲司氏らのGKインダストリアルデザインの作だそうです。


一時は231・233の応援で湘南電車にも使われてました。


この近未来的先頭形状が格好いいと思うんですよ。同じシリーズの209系は房総に転用されてますが、217はいきなり廃車なんですかね?


今回はネガのメモで1970(昭和45)年3月23日となってる小松島の写真です。


この年の3月末が徳島の蒸気最終(正確には4月1日朝)でしたから、その一週間前と言うことになります。


給炭台と給水塔。最後まで蒸気で残ったのはハチロクが牽く牟岐線旅客一往復と、C11牽引の徳島から桑野と鳴門を一往復する貨物でした。


とっくに書類上は廃車になってる68692.背後ではデーテンが臨港線貨物の入換中。


今も徳島公園に保存されてます。


蔵の中の78647号。最終列車牽引のため化粧するとこだと思います。


同機のサンドドームにある日立の銘板。


同じく蔵の中にいたC11-137号機。この機も最終日まで稼働していました。


ひつこいですが68692。小生が撮ったハチロクでは唯一ナンバープレートが花文字でした。


こちらは当日の牟岐行き521レの担当機。


ナンバープレートが曲がったままなんが哀れ。隣には入換を終わったデーテンが戻って来てます。以前はC11が担当で、給炭台の右側に着いて補給していたんですが、デーテンは給炭・給水の要無し。


何度も書いてますが、同機は日車が初めて造った蒸気で今も同社に保存されてるハズです。


庫の中のピットに入ってローアングルで。当時は立入禁止が曖昧なんをエエことに好き勝手やってました。


給水・給炭が終わって間もなく出区。隣ではデーテンの足回り点検中。


こうやって煙がたなびいてると何台も稼働してるように見えますが、実際に火が入ってるのは58623だけ。


デーテンは423レか425レの担当だと思います。


庫の先、ターンテーブルの向こうの二両。78680は竜華から応援に来て既に用廃、C58は保存に備えて化粧済み。


ターンテーブルから給炭台を見たところ。


ここらは写真の順番がめちゃクチャです。


庫の中。ここまでズケズケ入ったのに我ながら呆れます。


同じ日かどうかわかりませんが、牟岐行き521レを富田のガードの先で撮ってます。


今は阿波富田駅がある辺りです。
さて、来週は撮り鉄に行けるかいなぁ・・・




                                                                       

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結局自粛も延長

2021-03-06 22:25:33 | 蒸機時代の徳島で撮ったん


月初の口絵は昔の写真にしてましたが、本文でちょうど昔の3月を載せてるんで最近のヤツから。当時は上東ライン初電で行くと撮れた列車です。今日は改正前最後の日曜日で185撮る方々で賑わったんでしょうね。


ほっちの方がエエだろなぁ、と延長されました。ここでやっとかんと五輪どころでのーなるわ。


去年の3月7日は熊行で撮り鉄してました。


地元で「健康を維持するための外出」ですよ。


外科病院裏で901号機が牽く4074レ(当時)です。


ダイヤ改正ですが、先日やっと時刻表の改正号を買ってきました。


貨物時刻表は改正当日から販売。貨物のデーデーが定期運用終了らしいです、もっぺん行きたかったなぁ。

一都三県の延長に合わせたわけではないんですが、撮り鉄も乗り鉄も出来てないんで今回も昔の写真でいきます。


最初は1969(昭和44)年3月30日の地蔵橋駅に到着した牟岐線下り521レから。


両端にY字ポイントがある一面二線の典型的なローカル駅。


程なくやってくる交換列車は穴吹行き425レの回送。


タブレット交換が終わり、ガチャンとシグナルが降りて521レの発車。


勝浦川鉄橋へ向かって加速。


ボケボケ写真ですが、枚数稼ぎに載せます。市役所前、左後ろの旧・徳新本社ビルは現在、間もなく解体されそうなカンジです。


市役所旧庁舎をバックに快走する68692号機。今も城山下の公園に保存されてます。


小生では珍しい縦撮り。右の建物は徳島駅西部の信号梃扱い所。


今は上に跨線橋が架かってるお花畑踏切、未舗装の道路右側は刑務所でした。高徳線上り貨物に繋がってる冷蔵車は鳴門線から継送されてきたヤツだと思います。


今度は佐古駅を出る高徳線下り貨物。今ならこんな撮り方は完全アウト。


あっ、順番的にはこっちが先やね。当時の佐古駅は分岐駅として旅客は二面三線(たぶん)で、貨物側線を越えるため堂々とした跨線橋がありました。


再び牟岐線。ここは二軒屋駅北側の踏切で、右端に停めてある自転車は小生とK野君のものです。


少し進んで園瀬川鉄橋。列車は午前中に池田から戻ってきた客車を小松島に回送してるところ。


これも回送列車。夕方の牟岐行き521レとなる編成が犬山の切り通しを抜け、園瀬川鉄橋に差し掛かるところです。


後追い。この辺の写真は31日のようです。


たまには気動車も。時間潰しで撮ったんだろと思います。キハ11でキハ20を挟んだ三両編成。


いったいどれぐらい待っとったんか・・・さっき回送で徳島へ行った編成が営業列車で折り返してきたヤツです。


何度も撮りに来た所ですが、南岸から下り列車撮ったんはこれぐらいかもしれません。


犬山踏切に向かって駆け下りていくところです。


この日最後は穴吹行き425レの回送。
ネガの記録を見ると3月30日から4月1日まで三日連続で撮ってます。たぶん春休みでブラブラしよったんでしょう。と言うことで、次回は4月1日の分になりそう。

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自粛モードは今回で終了?

2021-02-28 23:27:01 | 蒸機時代の徳島で撮ったん


一昨年の3月1日は一泊で姨捨から飯田線完乗、そして翌日は四日市に行ってました。


高崎で長野新幹線に乗換、この時が初乗でしたが以来乗ってません。


3月は改正前と言うことで撮り鉄が増える時期ですね。今年の場合は185でしょうが、貨物ではデーデーや66百番台に注目かいな?


この時は時間が合いませんでしたが、ここは貨物も通るらしいんで改めて行ってみたいとこです。

解除されそうですが油断は出来ませんねぇ。今日あたりの数字が底で、気を緩めると直ぐに増えそうです。気兼ねなく撮り鉄に行けるんはいつになるんやら・・・
いい加減昔の写真も飽きて来たんで今回で終わりたいと思います。


1969(昭和44)年3月30日(たぶん)、小松島を発車する521レの回送。例年なら桜も咲く頃ですが。寒そうで暖房用蒸気ホースが未だ付いてます。


こちらは池田行き423レの回送ですね。521レは徳島駅で単純に機回しして先頭に立って下って行きますが、C58は前に書いたとおり、小松島の転車台に乗らんので徳島駅で方転します。


四コマ表記の客車。2両目はスハ32の様です。手前のオハ61は外板ベコベコですが、スハ32はやはり造りが上等なんやなあと思います。


機関庫の横を通過。オハ61の床下を通して見えてる自転車は小生とK野君のものです。


形式写真的にC11の31号機。


順番はめちゃクチャですが、当日の機関庫全景。88号機に人が集って修理中?


こっちの写真では88号機が給炭台の横に居ます。ひょっとしたら別の日かも・・・

今回は訳あって時間がないんでここまで。
次回は昔の写真以外にしたいわ。

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