徳島鉄道風景(新)

昔の徳島の蒸機が尽きて関東中心にしてましたが
戻って来たんで、これからは徳島起点でやってきます。

夏休み前の駆け込み乗り鉄その2

2009-07-26 23:00:22 | 乗り鉄と帰省の道中

直前に掲載した記事は写真が多すぎたのか

継続できなったので「その2」で続けます。

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前回、最後で海芝浦に向かった電車が戻ってきました。

「複線電化」の営業路線で一番草むした線だと思います。

やっと2時間経って扇町へ向かいます。

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↑タンク車の聖地「安善」。

JP-8はジェット燃料で横田基地に運ぶ専用車。

昔は海の方にもう一駅、「浜安善」まで電車が運行されいたようです。

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扇町駅に到着。

安善までは横浜市鶴見区でしたがここは川崎市。

浜川崎との間に一駅だけ中間駅として「昭和」があります。

その名の通り昭和石油・昭和電工の工場の中を通っています。

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行き止まりの扇町駅のホーム裏には先に伸びる貨物線があります。

昔の地図では国鉄発電所や三井埠頭があります。

奥に見えるホキは秩父鉄道経由で太平洋セメントに輸入炭を運ぶ貨車です。

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↑こちらが鶴見線「浜川崎」と道一つ隔てた南武支線「浜川崎」

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こちらは2両で、ワンマンです。

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発車を待つ脇を東海道に出て行くEF66が通過します。

尻手で乗り換えた南武線はずっと寝てて

立川から青梅線で拝島へ、ついに五日市線にたどり着きました。

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終点、五日市は奥多摩や中央線八王子の先の方のような風景。

秋川渓谷を控えているのでハイカーで賑わっていました。

当日この時点までカロリーメイト一箱だけだったので

ここで食事するつもりでしたが駅前には飲食店なし。

結局コンビニのおにぎりだけとなりました。

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ホリデー快速で東京まで戻りました。

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夕方、東京では二重の虹が見えました。

2部作の完。

次は徳島ネタで行きたいですね。

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夏休み前の駆け込み乗り鉄

2009-07-26 21:43:22 | 乗り鉄と帰省の道中

もう先週のことですが

20日から18切符が解禁になるので

その前に関東未乗区間の駆け込み乗り鉄に行ってきました。

南東風の関東未乗区間(JR)は

今回行った鶴見線・南武線支線・五日市線の他に

日光線があります。

少し遠いところでは越後線・弥彦線、飯山線、米坂線。

出来れば今年中に片付けたいものです。

で、今回は鶴見線鶴見駅からスタート。

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元が私鉄だからでしょうか、屋根が国鉄ばなれしています。

205系から改造された3両編成。

海芝浦に直通する電車を選んで乗り鉄開始。

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昔、ちょっとだけ乗った鶴見線は使い古された101系でしたが、この205系は

ご覧のように良く整備されています。

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鶴見を出て二つ目の弁天橋で地元の方が降りてしまうと

車内には一目で乗り鉄とわかる数人しか残っていません。

駅名標に「浜」とあるように全線が横浜市内駅です。

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ホームから 海が見える駅、と紹介されることの多い、終点「海芝浦」です。

が、正確には海につながった運河。

真っ正面にはこれが見えます↓

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夜、適当な電車があるなら缶ビール持って来たみたいです。

案外、隠れた夜景スポットではないでしょうか。

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忘れてならないのは

この駅が東芝専用駅であること。

前身は東芝の引き込み線だったからですが

国鉄が営業していたのも不思議です。

改札出るといきなり東芝の工場ですから。

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そのせいか、途中数カ所、工場内への分岐線がありました。

’82年の地図を持っていますが

ここら辺は東芝電気、東芝タービン、そして同じグループの

石川島播磨重工(当時)の工場があります。

扇町に戻って接続の扇町行きに乗車、

扇町支線の終点、扇町を目指します。

と、いう予定だったのですが

他の方につられて浜川崎で降りてしまいました・・・

予定では扇町往復後、浜川崎で南武支線に乗り替え

南武線、立川経由五日市まで往復して

再び戻って夕方にしかない大川支線に乗る予定でしたが

この時点で大川支線は諦めました。

次の扇町行きは2時間後です。

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↑浜川崎駅、先の跨線橋の左手

首都高羽田線の下に南武支線の浜川崎駅があります。

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入れ換えのDE10が顔を見せました。

この先には塩浜操、川崎貨物ターミナルがあります。

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浜川崎駅出口に続く跨線橋。

右に行けば「JFE専用出口」

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その先には↑こんな表示が。

今はJFEですが元は日本鋼管の製鉄所。

2時間暇なので浅野に戻ってきました。

浅野の駅名は浅野財閥に由来するそうです。

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やって来た電車から若者集団が下車。

女性が多いですが皆さんそれなりのカメラを持っており

どっかの写真専門学校か写真部の方々でしょうか。

時間がいっぱいあるので付近を彷徨きます。

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「臨港バス」、この辺にぴったりなバス会社です。

先の線路は海芝浦に向かう線です。

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その踏切の先にはこんな看板↑

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こちらは踏切手前の駐車場らしい用地ですが

よく見るとレールが残っています。

昔は運河沿いに留置線があったようです。

運河の向こう側は古い地図では東京ガスになっていて

安善駅からの引き込み線もあったようです。

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「ご安全に」の標語がすばらしい通用門。

ユニバーサル造船になっていますが元の鋼管鶴見。

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↑浅野駅から鶴見方を望んだところ。

左に分岐していくのが海芝浦に向かう線です。

左手奥の草むした引き込み線は

日本鋼管製鉄所に続いていたようです。

平面での複線分岐、手前のクロスは

9°30′クロスとかいうやつではないかと思います。

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その平面クロスを渡って海芝浦行きの電車がやって来ました。

この駅は池谷によく似ていて

海芝浦支線のホームは左手に独立してあります。

池谷と違って複線の分岐駅なので

二つのホームは手前の線路を構内踏切で渡って行き来します。

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「糸崎な夜」1971年8月、その6

2009-07-20 12:51:24 | 県外(糸崎、布原 ほか)

関東は梅雨明け、三連休で夏休みも始まりました。
身内のブログによると、徳島では阿波踊りのイラストポスターが盗まれ
ネットで高額取引されているとの徳新記事が。
そのモデルになっているアニメは全く知りませんが、阿波踊りまでもう一ヶ月を切りました。
徳島に帰省してスカッと夏らしい写真を撮りたい・・・

で、

もうすぐ終われそうな、38年前の夏、山陽本線「糸崎な夜」です。

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ブルトレの通過、バックサインが読めません。前回の「つくし」の続きのネガなので1レ「さくら」(東京→長崎・佐世保)3:32ではないかと思います。
小生の20系初乗はこの数年後ですが、乗り心地の良い車両でした。10系寝台はガタピシという感じでしたが(特に連結部は高速ではドッシャン・ガッシャンと踊っていました)20系は静かで柔らかいフワフワしたような感じでした。それと、
写真のように下りの場合ナハネフ20や22が最後尾になりますが、車掌室は半室(写真で右側)で、左側には通路にあるような折り畳み椅子一席と灰皿まで付いていて展望室になっていました。ここから流れ去るレールや駅を眺めるのは最高でした。

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↑301レ「音戸1号」(新大阪→下関、呉線廻り)定刻3:48。時計は3:55頃なので少し遅れていたんでしょうか。
この列車、座席車はグリーン車すら1両も組まない完全な寝台列車でした。
呉を通るせいか制服姿の海上自衛官?が見えます。

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同列車の発車だと思います。時計は4時を過ぎていますが、所定なら3:51頃通過する3レ「みずほ」が遅れていたのではないでしょうか。

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↑9303M「音戸52号」(大阪→下関、本線経由)4:10。4番線(下り本線)が続きます。
当夜、「音戸」は定期2本の他に下りでは51・52・53号の3本が運転され、このうち52・53号は電車。中でも写真の52号だけは呉線を廻らず本線経由です。そのせいか、あるいは運転時間帯のせいか乗車率良さそうです。
カレチ氏が3人集まっていますが皆さん蝶タイ。駅助役さんもそうだったので当時の制服なのでしょうか。
手前の車両は半室ビュフェです(たぶんサハシ165)

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↑5レ「はやぶさ」(東京→西鹿児島・長崎)定刻4:52。時計は5時を過ぎており、やはり遅れがあるようです。
昨日18時丁度に東京を出て既に11時間、8月14日の朝になっていますが西鹿児島までは後まだ10時間36分もあります。
「はやぶさ」は上下とも唯一糸崎停車のブルトレです。他の列車は前後の三原か尾道に停車です。
地元の人らしい当日の旅客らしい人が増えてきました。

今回ずっと4番線の写真ばかりですが、この時間帯になると動くのがしんどくなってベンチに座ったまま望遠で撮っていたんだろうと思います。

次回でこのシリーズは終わりに出来そうです。

 

 

 

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徳島のロータリーのこと

2009-07-12 23:32:34 | 蒸機を撮んりょった頃に徳島でな

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いきなりタイトルとは関係のない写真ですが

先週、久留里線のキハ30国鉄色復活記念臨時列車には仕事で行けず

学校が夏休みになる前なら今週しかないかなと思っていましたが

結局今週も仕事に出ました。

業績不振で困っているんですが管理部門は関係なしか。

でも久留里線の復活色キハ30の運用がわかりません。

久留里線は2両単位の運用が原則で土休ダイヤもあり

まして非冷房の同車が蒸し暑いこの時期定期運用に入るかな、と考えてしまいます。

やはりイベント時の臨時運用かなと思います。

残りの2両も近々塗り替えられるそうで当面は情報集めてからですね。

さて、ここからが「徳島のロータリー」について

先日、リンク先に「市役所前のワシントン椰子は両国や元町のロータリーから移植したのではないか」とコメントしたんですが

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よく考えてみるとだいぶ時期がずれているようで

この説は取り消します。

ここでまた国土地理院の「国土変遷アーカイブス空中写真」をご覧下さい。

http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MSI611&courseno=C13&photono=7

1961(昭和36)年5月6日、高度1800mからの撮影。200dpiで見て下さい。

地元の方なら一目で位置関係はわかると思いますが

今とはだいぶ違うのでまたしても下手なトレース図を

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今回は結局色鉛筆で着色。

この写真のすごいところは立体交差が未だ工事中なんです。

完成は’61年9月だそうですから後数ヶ月という時期です。

従って今は立体交差の両側にある跨線橋も未だなくで踏切のようです。

工事中は北側の公園になっているところに掘った土が積み上げてあって

どろんこになって遊んで家で怒られた記憶があります。

懐かしついでに

城東高校北側には市民プール、

城山東側には松茂の旧海軍格納庫を移設したという

カマボコ型の市民会館(その後、市民体育館)が見えます。

プロレス、サーカス、歌謡ショウと催し物は専らここでした。

ちょっと全体をみると

田宮の辺りは水田地帯、そして今のR192が目立ちます。今はどうか知りませんが当時は「国体道路」と呼ばれていました。

この他にも当時から計画的に道路が整備され始めていたのがよく判ります。

かちどき橋から北上するR11が助任川の所でプッツリ途切れています。

南東風が徳島にいた時はこのままの状態でした。

当時のR11は助任橋からお濠沿いを南下、教育会館前から

城東高校横をクランク状に抜けて徳島本町交差点に至っていました。

それにしても

助任川・田宮川・福島川それに埋立前の寺島川におびただしい材木が貯木されています。

当時の徳島がタンスや仏壇など木工品の産地であったことの証です。

で、ロータリーですが略図で茶色に塗ったのがそれです。

当時それらの交差点には信号機がなく(そもそも徳島に交通信号機が設置されたのはいつだったのか)ロータリーを廻って右折していました。

ここにワシントン椰子が植わっていたような気がしたんですが、写真を見るとなさそうですね。

写真では建物の影が北東方向に見えるので午後の早い時間ではないかと思います。

当時、市役所南側にあった東消防署の火の見櫓の影が見えるので、

高い椰子の木があれば影が見えるはずですがなさそうです。

検索してみると昭和28年の国体の時に県庁にあったものを駅前に移植したそうです。

そもそも私が写真を撮り始めた頃は市役所前にワシントン椰子はありませんでしたが、そのずっと前にロータリーは無くなっていましたから。

いったい市役所前のワシントン椰子はいつからあそこにあるのか・・・

次回は写真を整理して懲りずに「糸崎な夜」その6に進みたいと思います。

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「糸崎な夜」1971年8月、その5

2009-07-05 23:51:37 | 県外(糸崎、布原 ほか)

昨日は久留里線で国鉄色に復元されたキハ30の運転初日だったそうです。月初の土曜はだいたい出勤なので行けませんでしたが、ネット上には早速写真が出てますね。
前照灯がブタ鼻だ、下回りが灰色だと難点はあるもの全体的に良い感じです。残る2両もそのうち復元塗装されるそうですが、運用を確認して混雑しそうな夏休み前に行ってみたいと考えています。そのかわり、
「客車倶楽部」さんで紹介されていた「ノスタルジックトレイン№2 昭和45年・夏」(芸文社)を買ってきました。関西の昭和30~40年代の写真、しばし読みふけってしまいました。「俺には彼女おれへん」・・・文章も共感できます。

さて、
糸崎駅での山陽本線夜行列車も「その5」。1971年8月14日の午前2時を過ぎたところから開始です。

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↑左は13M「月光2号」(新大阪→博多)2:18、右は1214レ「阿蘇」(熊本→名古屋)2:22と思ったんですが、よく見ると右の機関車は前照灯2灯に見えます。とするとEF65、ということはブルトレか?。月光型とブルトレの離合の組み合わせは3時間前の23:20頃に6009M「月光1号」と6レ「はやぶさ」があります。案外こちらかもしれません。

次は当夜の急行列車では一番の豪華列車。

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↑211レ「雲仙3号」(京都→長崎)2:42。オロネ10・オロ11にオシ17そしてスハネ16×4を含む13両編成。宇田さんの著書ではこういう列車を「フルセット」と紹介されていました。撮影時間中にオシ17連結列車は他にも「桜島・高千穂」がありましたが、4号車で隣がスハネなので雲仙3号と特定出来ます。

当時山陽線急行で最豪華列車は、当夜撮影時間外でしたが37・38レ「安芸」だと思います。両端はオハネフ12、オシ17にオロネ10はなんと2両、中間のハネ5両の他に糸崎回転のハネ3両を含む13両編成。荷物・郵便車はおろかロザすら持たない完全寝台列車。全車両、裾が絞られた広幅車体の軽量客車で統一された美しい編成。
これに対抗出来るのは区間外ですが35・36レ「瀬戸1・2号」くらいでしょうか?食堂車(オシ16は自慢できる)、スロ54、オロネ10、スハネ16はなんと8両、殿はオハネフ12で座席はスロ54のみ、そしてこれ以外はオユを含め10系。そういえばNで編成作成計画が手つかずのままです・・・

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ナハ10が3両続いて後部にスハフ42が2両、最後部のスハフ42は博多回転車です。それにしても乗車率良いです、立ち客が見えるようです。

 

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↑待避中の6214レ「雲仙1号・西海52号」(長崎・佐世保→新大阪)2:57と、通過中の26レ「あかつき1号」(西鹿児島→新大阪)2:47。パターン・ダイヤなので上りは毎時47分頃にブルトレや月光型が通過します。

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上りの臨急は一人で最新型車両のボックス席を独占出来る程よい状態。所属はもちろん大ミハです。

 

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どうもこの時間帯は列車が特定できなくて・・・現代のデジカメなら撮影日時データが記録されますから簡単に割り出せます。ホントに便利だと思います。

 

1971(昭和46)年8月14日午前3時を過ぎました。

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↑215レ「つくし3号」(大阪→博多)3:22です。登場間もないパレット荷物車スニ40やオユ10も繋いでいるので荷物列車かと思っていましたが、マニ2両にスニ40そしてオユ10という編成順序は「つくし3号」と一致します。3号とはいえ1号と2号は昼間の電車急行で運転区間が同じなので統合されたようですが、元は確か「玄海」だったと思います。14両編成ですが、うち4両は荷物・郵便車で座席車はスハ44・スハフ43の3両のみ、ロネはマロネ41、残りはオハネ12とスハネ16という寝台列車です。

 

 

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広角で撮った写真なので上記2枚とは離れた所にありましたが、「大荷36」という運用で検索してみると「つくし3号」とわかりました。インターネットは便利ですねぇ。広窓からしてオハニ61から再改造されたマニ60だと思います。

遅くなったので以下次号。

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