いきなりタイトルとは関係のない写真ですが
先週、久留里線のキハ30国鉄色復活記念臨時列車には仕事で行けず
学校が夏休みになる前なら今週しかないかなと思っていましたが
結局今週も仕事に出ました。
業績不振で困っているんですが管理部門は関係なしか。
でも久留里線の復活色キハ30の運用がわかりません。
久留里線は2両単位の運用が原則で土休ダイヤもあり
まして非冷房の同車が蒸し暑いこの時期定期運用に入るかな、と考えてしまいます。
やはりイベント時の臨時運用かなと思います。
残りの2両も近々塗り替えられるそうで当面は情報集めてからですね。
さて、ここからが「徳島のロータリー」について
先日、リンク先に「市役所前のワシントン椰子は両国や元町のロータリーから移植したのではないか」とコメントしたんですが
よく考えてみるとだいぶ時期がずれているようで
この説は取り消します。
ここでまた国土地理院の「国土変遷アーカイブス空中写真」をご覧下さい。
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MSI611&courseno=C13&photono=7
1961(昭和36)年5月6日、高度1800mからの撮影。200dpiで見て下さい。
地元の方なら一目で位置関係はわかると思いますが
今とはだいぶ違うのでまたしても下手なトレース図を
今回は結局色鉛筆で着色。
この写真のすごいところは立体交差が未だ工事中なんです。
完成は’61年9月だそうですから後数ヶ月という時期です。
従って今は立体交差の両側にある跨線橋も未だなくで踏切のようです。
工事中は北側の公園になっているところに掘った土が積み上げてあって
どろんこになって遊んで家で怒られた記憶があります。
懐かしついでに
城東高校北側には市民プール、
城山東側には松茂の旧海軍格納庫を移設したという
カマボコ型の市民会館(その後、市民体育館)が見えます。
プロレス、サーカス、歌謡ショウと催し物は専らここでした。
ちょっと全体をみると
田宮の辺りは水田地帯、そして今のR192が目立ちます。今はどうか知りませんが当時は「国体道路」と呼ばれていました。
この他にも当時から計画的に道路が整備され始めていたのがよく判ります。
かちどき橋から北上するR11が助任川の所でプッツリ途切れています。
南東風が徳島にいた時はこのままの状態でした。
当時のR11は助任橋からお濠沿いを南下、教育会館前から
城東高校横をクランク状に抜けて徳島本町交差点に至っていました。
それにしても
助任川・田宮川・福島川それに埋立前の寺島川におびただしい材木が貯木されています。
当時の徳島がタンスや仏壇など木工品の産地であったことの証です。
で、ロータリーですが略図で茶色に塗ったのがそれです。
当時それらの交差点には信号機がなく(そもそも徳島に交通信号機が設置されたのはいつだったのか)ロータリーを廻って右折していました。
ここにワシントン椰子が植わっていたような気がしたんですが、写真を見るとなさそうですね。
写真では建物の影が北東方向に見えるので午後の早い時間ではないかと思います。
当時、市役所南側にあった東消防署の火の見櫓の影が見えるので、
高い椰子の木があれば影が見えるはずですがなさそうです。
検索してみると昭和28年の国体の時に県庁にあったものを駅前に移植したそうです。
そもそも私が写真を撮り始めた頃は市役所前にワシントン椰子はありませんでしたが、そのずっと前にロータリーは無くなっていましたから。
いったい市役所前のワシントン椰子はいつからあそこにあるのか・・・
次回は写真を整理して懲りずに「糸崎な夜」その6に進みたいと思います。