徳島鉄道風景(新)

昔の徳島の蒸機が尽きて関東中心にしてましたが
戻って来たんで、これからは徳島起点でやってきます。

最近読んだ文庫本

2012-07-29 21:22:20 | 本と雑誌

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この前、関鉄常総線へ元キハ30を撮りに行ってきました。

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無人化・ワンマン化ですっかりリフォームされてしまうJR駅より私鉄ローカル駅に昔ながらのペンキで描いた看板や行灯式のものが残っていたりします。

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こちらはウチの一人娘。近所の野良娘に「アンタ、ブサイクな尻尾やなぁ」とでも言ったのでしょうか、スゴイ目で睨まれています。けんかしたら間違いなく負けますね。

例年8月15日が近づくと書店の文庫売り場にも戦記物コーナーが設けられますが、小生は通年帰りの電車内で戦記物を読んでいます(寝てる時間の方が長いですが)

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先々月に読んだ本です。日中戦争がずっと続いていて太平洋では別の戦争が始まった、小生はそんな印象を持っています。

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この話には泣けました。「輜重輸卒が兵隊ならば蝶々蜻蛉も鳥のうち」と旧日本軍は輸送・兵站を軽視したそうですが、実際に担当された方々は実に責任感が強く、結局遠く離れた机上で練られた作戦に振り回される訳です。

第一章は担当することになった馬が盲目だったと。重い荷を背負い戦場の細い仮設橋で盲目の独余は足を踏み外し川に転落しますが、彼の声を頼りに懸命に岸まで泳ぎ着く場面は感動です。

本当におもしろかったのがこっちです。

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この本は、ほとんど寝ないで毎日乗ってから降りるまでずっとこれを読んでいました。

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カバー裏に書かれているように、主要な作戦とか戦闘艦・戦闘機の話ではなく地味に毎日続けられる輸送や掃海・哨戒と言った戦記が好きです。

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「船団護衛から夜間雷撃へ」は当初、商船改造空母で船団護衛の対潜哨戒を九七艦攻でやっていた九三一空が末期の沖縄戦に天山で雷撃部隊(特攻ではない)として参加する話です。この話は最新刊「空の少年兵」最後の雷撃隊、にも出ています。改造空母を旧海軍は開戦当初は航空機輸送艦として、半ば以降米潜による輸送船の被害が激増すると旧式機を載せて対潜哨戒に使用しますがほとんど効果なく逆に空母が米潜の攻撃目標になってしまいました。今まで改造空母での戦記はほとんど目にしたことが無く、海鷹飛行甲板での対潜用一式25番二号爆弾一型を付けた九七艦攻の写真共々貴重です。H6型電探を装備した九七艦攻は垂直尾翼に斜め赤帯が付く、というのも初めて知りました。こういうのを知るとプラモ作りたくなるんですが、買ってから数年手つかずのS2FやJu88、それにNもさっぱりだし・・・

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この水爆も知名度の低い機体です。随分前に「さぁぷらす戦史図書館」というサイトに奄美大島の古仁屋を秘密中継基地として沖縄に向かう特攻機のためにレーダーピケット艦狩りを行ったという話が紹介されていましたが内容はほぼ同じです。上記サイトの「司書の戦史レポート」のページには他にも小生好みの地味な戦史が満載です。

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最後は零戦です。終戦間際、五二型甲以降様々な改良・変更型が出ますが、空輸した機体のステンシルに六三型丙と書いてあったのを見たという話です。五二丙型は結構あったそうですが、六三型は「爆戦仕様で胴体下は250㎏爆弾で増槽は150㍑の統一型を両翼下に付けるはずだった」とあります。輸送された機体には対B29用である三号爆弾用射爆照準器を備え、後部風防内のジャイロにより降下角を自動算入されると取扱説明書に書かれてあった、とあります。同書では「胴体下の装備が250㎏爆弾と300㍑増槽と互換可能なタイプではないか」としています。ネットで検索しても諸説あるようですが、実際に見たという方(複数)の証言は強いです。まあ、当時は混乱の極みで「予定されていた」が実際は違っていた、なんてことも随分あったようですから真相は分かりませんね。

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古い雑誌の写真

2012-03-25 21:40:37 | 本と雑誌

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裁判所の桜です。一昨年の3月19日16:36撮影。今年はどうなん?切られるような話がありましたが。

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こちらは今日撮った埼玉の桜。蕾は膨らんではいますが、まだまだです。

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さすがに梅はこれくらいになりました。北西の風が冷たかったです。

今でも雑誌(主に鉄道系)は特集が良かったら買っています。昔は内容に関係無く毎月購入なんて時期もありましたが、最近はネットから得る情報の方が多くてほとんど買わなくなりましたね。

それでも確実に増えていってるので少し実家に送ろうと箱詰めしています。その時眼に付いた物を少々紹介します。いや要はネタ切れで・・・

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「世界の艦船」1979(昭和54)年10月号の裏表紙です。会社は何度も変わって訳が分からなくなっていますがこの船は最初期の一船だと思います。

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この会社も今は無いですね。世界の艦船は命日が近い亡父が購読していて一部を貰ってきました。これは1981(昭和56)年9月号です。

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こちらは同じ年の5月号です。この頃はフェリーになっていますが船体色や少々肥えてはいますがその体型にかつての女王の面影があります。

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以前、四国連絡比較記事を載せた元ネタです。中学の頃、徳島港に共正と共同運行していた深日航路のフェリーを良く見に行ってました。

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本とは関係ありませんが整理中に出て来た暗室用電球。福岡に転勤して初めて風呂付きアパートに住んだんですが窓を覆って暗室にしていました。伸ばし機はラッキーの70Mでした。

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「とれいん」の増刊です。この出版社は↓

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この出版社の経歴はよく知りませんが松本謙一氏や平井憲太郎氏の蒸機の写真には感動しました。

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いわゆる「SLブーム」に従来の趣味誌以外の色んな出版社から写真集が出ましたが、お二人の作品は異次元というか別格でしたね。

型式写真風あるいは風景写真風ではない「こんな撮り方もあるんじゃ~」と何度も見ていました。モノクロ鉄道写真の頂点を極めていると思っています。

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結局この写真集は買わなかったんですが後悔しています。同じ頃、四国の出身だというのでN村Y信氏の写真集「日本のキシャ、ドラフトの響きを追って」というのを買いましたがガッカリでした。

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写真集は買いませんでしたがRJ誌が特集してくれたり広告を載せていたのを何度も眺めていました。

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↑この出版社の本では

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裏表紙の広告にこの写真が載っている雑誌を持っています。現役の大御所、最近は息子さんも活躍されているようです。

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一目で廣田氏の写真とわかりますよね。「鉄道写真に新境地を開いた」功績は偉大です。今ではこういう作風も珍しくはありませんが当時は画期的でした。

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この本は創刊3号まで買いました。

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上質な写真、が多かったと思います。

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その廣田氏の昔の作品が出て来ました。

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ヨンサントオの年の新年号です。客車関係の記事が多かったのでボロボロですが持っていました。

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確か同じ記事の’63年5月号はかの宇田賢吉氏「糸崎の夜」のはずです。

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同じ号に出ている新車紹介。今、岳鉄で注目されている機関車です。

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同じく客車関連記事。子供の頃、この記事を読んでいつかは模型で白帯編成を揃えたいと思っていました。

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スイロネフ38は現在休止中の瀬戸1号が完成したら(んん何年かかるか)作ろうとGMのスハ32キットを用意してるんですが・・・8800は最後の輸入蒸機の一つで外見はC51のモデルになったんじゃないかと小生は思っています。

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この号には徳島関連のニュースも出ています。大相撲巡業列車を牽くC58は番号が読みづらいですが124号機でしょうか。集煙装置が無いことよりD51辺りから流用したんじゃないかと思われるバカデカいデフが変です。今は閉鎖されてしまいましたがシフレ高木様の所で見た23号機も同じようなデカイのを付けていたように思います。

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四国の鉄道で珍しい本かこれです。自分で買った本ではなく会社の先輩から貰いました。表紙の場所は32号線から俯瞰した第一吉野川鉄橋ですね。この写真が記憶にあって一度行きましたが現在は高いフェンスがあって同じ角度で撮るのは無理そうです。

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DF50全盛期。小生は撮ったことがありません。ディーゼル機だとこの型式、電機だとEF80がどうも好きになれません。それぞれパイオニアとしての功績はあるんでしょうが何か鈍重そうでね。

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この本は廃刊になったと思いますが出版社の方はどうでしょうか。

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見開きページを飾るのは大坂峠を行く45+25ですね。ロクナナで撮影されています。

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大坂峠はこっちの本にも載っていました。

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高校の頃読みふけっていました。

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最後は本と関係無いですが、ひょっこり出て来た箱です。一昨年だったと思いますが、帰省したときに土産に買ったものです。毎年春には出てるのか?

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しょうがないから本の話でも

2011-03-06 22:35:21 | 本と雑誌

昨日は月初なんで出勤したんですが、先月末からのネット情報でC61が大宮に出てないかなと期待していたら何とほんとに居ました。
高崎線の電車の中からチラッと見えただけですが、やっぱり蒸気を上げている姿は良いですね。てっぱくの横には撮り鉄が大勢いましたがどこから情報仕入れるのか不思議です。
GW中に復活に先駆けて車両展示、と報道されていたので普通に撮れるようになるのはそれ以降になるということで、春から撮れると思っていただけに少々がっかり。
それはさておき
このところ小生にしては継続しているNでの瀬戸編成作製ですが、先週にはスハネ16の6両量産に取りかかり最初の車体塗装が終わって今週は細部の手直しをする予定だったんですが結局今日は手つかずでした。
今月末辺りにはそろそろ撮り鉄も再開したいし、そのためにはダイヤを作ったり下準備もしたい、となると面倒なN作製はまた疎遠になりそうで・・・
そういうわけでネタが無いので本の話です。
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先週買った週刊東洋経済3月5日号です。この雑誌は毎年この時期に鉄道特集を組みます。

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去年と一昨年の特集号。一昨年は夏でしたが春にはこれが出ていました↓

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経済誌だけあって去年・今年と各社の営業係数が出ています。国鉄時代に廃線の目安にされた営業係数(百円稼ぐのにいくら費用が掛かるか)はJRになってから発表されてないので鉄道ジャーナリストの梅原淳氏が独自に試算されたものです。
もちろん真っ先に見るのは毎年四国の各線。四国はどこも赤字(係数が百以上)なんですが、全国的にみれば「それほどでもない」というところでしょうか。
もっとも今年号でも元資料は2008年のものなので例の高速道路の影響は未だ出ていない頃なので最近はもっと悪くなっていると思いますが。
四国で一番悪いのは予土線で百九十弱、一番良い瀬戸大橋線で百二十弱でずば抜けて悪い線は「この当時」にはありません。
全国的にみるとワースト20には三島会社の線は意外にもひとつも入って無くて東海がトップの名松線を始め6線、ほかは全部東日本です。
もっとも東日本はベスト20(もちろんどこも係数は八十以下)も15線と独占してますが。
その名松線は係数五百以上、ワースト20位の八戸線でも三百超なので四国各線はまだ状態が良い方だと言えそうです(この当時はですが)。
徳島県では一番悪い鳴門線(四国でワースト2)と牟岐線(同3位)が百四十台、徳島線が百三十超、高徳線でようやく百三十を切ります。
首都圏で同クラスは両毛線・水戸線・八高線・鶴見線、関西圏では赤穂線・桜井線・播但線・和歌山線あたりとになります。
小生としては徳島線はもうちょっと良いのかなと思っていましたが、やはり各停主体の運用では更に効率化を進めてコストダウンするしか無さそうです。四国ではワンマン運転は一両に限定としているようですがどういう理由なのか気になります。
今年は三セクを含む全私鉄の係数も試算されているのが特徴です。
ちょうど同じ頃に鉄道ファンの600号記念号を買ってみると阿佐鉄の妙案募集広告がカラー見開きで出ているのに驚きマシタ。そういえばこれも応募するつもりなんでそろそろまとめないと・・・今月の鉄道趣味各誌には全部出てるんでしょうか?鉄だけが対象なのかなぁ。
気になる阿佐鉄の係数ですが全私鉄の中でも群を抜いて悪い七百五十弱、二位は芝山鉄道の三百超、以下は廃止の話が出ている秋田内陸縦貫や由利高原でも二百台なので異常な感じがします。文中でも「極端に悪い」という表現を使っていますが、同時に指数であって額の大小ではないとも注記されています。確か阿佐鉄の赤字額は数千万円だったと思いますが係数が百ちょっとの所でも数億の赤字という会社も存在するようですから。
更にこの営業係数は線毎の区分なので鳴門線なら池谷-鳴門間のみで計られます。池谷以南は高徳線の取り分になるんで損してます。国鉄時代に小松島線がこうして廃止されました。もともと先に出来たのは小松島線の小松島-徳島で牟岐線は途中の中田から分岐する区分でしたが途中で牟岐線に乗っ取られた格好です。
それでも国鉄時代はワースト1常連の深名線を始め二千以上の線がゴロゴロしていたのを思うと当時よりは随分合理化も進んだんあだなぁと感心します。一般の会社でも人件費等の固定費を如何に下げるかと言うことに苦心しますが容易では無いですよね。固定費が下げられない以上収入を上げるしかありません。阿佐鉄に良い案が集まって収支が改善されれば良いんですが。
JR四国が四万十町に出来る海洋堂の展示施設にタイアップして「海洋堂ホビートレイン」を走らせると発表していますし、鳴門線向けには「鳴ちゅるうどん食べ歩きっぷ」を発売なんてのも出ています。なんでもやってみることでしょうか。途中で放置してる四国の鉄道に対する私案も早いとこ記事にしないとです。





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本が溜まってしまった

2010-06-27 00:31:39 | 本と雑誌

久々に本の話を。

ここ最近、本(というか雑誌)を買いすぎて読むのが追いつきません。

ついこの前「週刊東洋経済」4月3日号「鉄道 新世紀」を読み終えたばかり。

週刊東洋経済は年に一回くらい鉄道の特集があります。昨年同時期は「鉄道 進化論」でした。

今号の中で注目は梅原猛氏による私鉄を含めた全線の収支実態。’07年の営業係数でJR四国の最高は本四備讃線(児島以南)の116.4。最悪は予土線の189.9、続くは鳴門線の146.3と牟岐線の142.5。徳島県内最高は高徳線の127.9でした。

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その後に買ったのがこれ↑。ごっさん様の情報により購入、値段も手頃でした。内容はそこそこでしたが今夏帰省時には鳴門線を撮る、という思いが増しました。

先月文庫本を探しに寄った本屋で眼にして衝動買いしたのが↓

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鉄道×地図の本はたくさん出てて迷いますが、これは地図の専門社が出した本で引きつけられました。暇があるときに眺めています。

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今読んでるのがこれです↑。読むと言っても晩飯の時、新聞の後にチョコッと読むだけなんであまり進みません。しかしこのノストレは我々の世代には読ませる本です。

いつも覗いている「客車倶楽部」様の掲示板に常連さんが”鉄道ジャーナル最新号に糸崎駅の記事が出ている”と紹介されていました。もちろん早速購入。

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RJ誌購入するのは数年ぶりです。ずっとタイトルに出ている特集だけで判断して購入しませんでした。今号も件の掲示板で見なかったらこんな後ろの方のシリーズ物の記事には気が付かなかったでしょう。

変わり果てたものの一部には「糸崎な夜」と撮った当時の面影があります。またまた今夏帰省時に寄り道したくなり目下検討中です。

トドメがこれ↓

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上のRJ誌買いに行った時、奇しくもノストレ「山陽路」特集を発見。今読んでる東海道特集号の次号予告で買おうと決めていましたが発売日失念していました。

幸運に感謝しつつ、ゆっくり読んでいきます。

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常磐線、特殊列車1202レの牽引機について

2009-11-15 21:12:03 | 本と雑誌

埼玉北部も紅葉が盛りを迎えつつあります。

桜はほぼ終わり、銀杏が真っ黄色、県の木・欅もそろそろです。

さて、仰々しいタイトルですが、

個人的な疑問が一昨日少し解決したので報告です。

その疑問とは

愛読している鉄ピク・アーカイブスセレクションの内

#5「国鉄ダイヤ改正1950」に載っているタイトルの列車の写真です。

1953(昭和28)年6月17日、綾瀬-北千住間で

荒川鉄橋に向かう同列車を後ろから撮ったもので(いわゆるケツ打ち)

先頭の牽引機は今しも鉄橋にかかろうとしています。

解説ではC6239(平)+C5777(尾)となっています。

普通に考えると本務機がC57、前補機がC62という関係になり

なんでC62の方が補機なんだろうとは思ったものの

白帯・青帯の連なる客車に眼を奪われ

運用の都合なんだろうと思っていました。

その後、

同じく鉄ピク2008年11月号「一等寝台車」特集のグラビアに

再び同列車の写真が載っていました。

撮影者も撮影年月日・撮影場所も先の写真とは全く異なっていますが

牽引機はやはり前・C6248(平)、次位C5728(尾)となっています。

こちらは1954(昭和29)年5月5日、藤代-取手間での撮影。

当時、C57が常磐線の主力機であったとは思いますが

既にC62が平に配属されているのに同線最優等列車に何故C57の方が

本務機なのか。

ひょっとして平より先は未だC62が入線出来ず平以南で補機に就いているのか、

等と想像していました。

そもそもこの1201~1202レは

前身がヤンキーリミテッドという名の駐留軍専用列車で

1952(昭和27)年の講和条約締結後、限定的に日本人も乗車可能となったそうで

後に急行「十和田」となりました。

運転区間は東京-青森ですが、洞爺丸事件が発生するまでは

マイネフ38と荷物車1両は航送されて札幌まで直通していたそうです。

最近になってバックナンバーで鉄ピク・スハ43系特集2冊を入手しました。

そのうちのⅠの方(2002年6月号)に

「車掌と共に-急行1201レ特殊列車-」という

1954年3月号の再掲記事が載っていました。

筆者は東大法学部学生・小泉豊氏で現在の消息をご存じの方は

編集部までご一報下さいというコメントが付いています。

記事の方は

客車の所属、東シナから同列車に乗り込み青森まで同乗するものです。

東京駅をEF56の牽引で上野に向かい上野で問題のC62+C57に交替。

続く解説で冒頭の疑問が解けました。

「・・・C57は暖房関係を主とし、絶えず6㎏/平方㎝内外の蒸気を送ることになる。この列車の暖房パイプは以前から9㎏/平方㎝内外の圧力に耐える特殊なものが使用されている。車内には前記の列車検査員が主として暖房調整を行い万全を期するわけである。」

小生はこの記事から、本務機はあくまでC62で

次位のC57は客車への暖房蒸気供給用(つまり自走式暖房車)なのだと考えています。

この頃の列車暖房は総て蒸気で電気機関車も旅客用は蒸気発生装置(SG)を積んでいました。

蒸気の場合、先頭の機関車から編成をひき通した蒸気管で蒸気を送るため

編成後部では蒸気圧が低下し充分に暖まらないことがあるそうです。

北海道の極寒地では冬期平坦区間でも後部に暖房蒸気供給のために補機を付け

編成の前後から供給して暖房を強化した、という話も何かの本で読んだことがあります。

また、蒸機は運転用の蒸気の一部を暖房用に回すため

勾配区間など運転用蒸気が必要な際は暖房用を絞るので

車掌から苦情が来るという機関士さんの思い出話もあった記憶があります。

同乗取材は「1月初旬のある土曜日」となっているので

C57を暖房用に付けるのもわかりますが

先の写真は5月と6月、普通に考えるともう暖房は必要なさそうに思えます。

これについては

東北地方はこの季節でもまだ肌寒く米軍はTシャツ一枚で過ごすのを好む、

あるいは米軍は車内で大量にお湯を使うため洗面用水を蒸気で過熱した、

のではないか、と少し疑問が残ってしましました。

何はともあれ

この1201・1202レは上下とも東京駅において約30分で

同じく特殊列車1001・1002レ(後の急行「西海」、前身は確かデキシーリミテッド)に

接続し、北海道に航送されたマイネフ38とマニMB(軍マニ、運用番号は米専51)は

1201・1202レ「洞爺」に継送。

占領軍でなければできない壮大かつ贅沢な運用です。

11両の内にイネ2両、ロネ3両(1両は仙台回転)、特ロ1両、そしてシが1両。

う~む、Nで編成してみたいですね。とはいえ

瀬戸さえまだ始めたばかりで全然進んでいませんが・・・

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