徳島鉄道風景(新)

昔の徳島の蒸機が尽きて関東中心にしてましたが
戻って来たんで、これからは徳島起点でやってきます。

旧型客車に乗ってきました

2009-06-28 23:31:35 | 乗り鉄と帰省の道中

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だいぶ前のことですが「ごっさん」様の写真が掲載されるというので覗いてみた

トレたびにたまたまこの列車の記事が出ていて

早速、鉄同僚2名に指定券確保を依頼したのですが両名とも取れず諦めていました。

ところが

直前になって取れたのです。

最後尾のスハフ42のそれも後ろから二つ目の区画だったので

調整用の席が解放されたのでしょうか。

オハ47が中心の7両編成ですが、南東風にはこのスハフ42が最高です。

というのは

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客車ファンにはお馴染み、鋳鋼製台車TR-47を履いているからです。

オハ47では車体は43系でも台車はTR-47をオハネ17に供出し

軽いTR-23を履いています。

この重いTR-47は乗り心地もさることながら

そのジョイントを刻む走行音がたまりません。

で、

楽しみにしていたんですが、ほとんどロングレールで

シャーッという連続音しか聞こえません。ちょっとガッカリでした。

それでも旧型客車ということで国鉄書体はふんだんです。

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こんなの撮るの私だけかと思ったら結構いて、オハニ36の「荷物」表記なんかは順番待ちしました。

そういえば、駅到着前になるとケータイを車端のスピーカーにかざして録音している方も何人かいました。鉄道趣味は奥が深い。

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車端のスピーカーと扇風機。この扇風機、自宅にも欲しい。

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急行使用向けに近代化改装されていますが、その後、窓下の小テーブルと灰皿が撤去されています。

数十年ぶりに乗ってみると「こんな狭かったんかいな」というのが第一印象。最近の211・231系のボックス席の方が広く感じますがシートピッチは同じくらいのはずなので約20センチ広いという車体幅のせいでしょうか。

少し遅れて発車しました。最後尾の車掌室近くなので無線交信が聞こえます。

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最近は客車にも無線アンテナが付いていること初めて知りました↓

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EF64 1001は茶色なのでそれほどでもないんですが

特急色に旧型客車は南東風世代には違和感があります。やっぱりEF58だなぁ。

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旧型客車の別の魅力は窓が開くこと。最近は下降式窓ばかりで座ったまま顔に風が当たるのは高崎沿線に越して非冷房の115系に乗っていたとき以来です。それももう20年くらい前には冷房化されたのでほんとに久しぶりです。

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箱乗りはいけません。我がPowerShotの旋回式モニターが威力を発揮しています。

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↑横浜発車時も盛大な見送りを受けましたが

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途中駅でもその数は衰えず機材もケータイからVTRまで様々です。老若男女を問わないところが良いですねえ。

こういう列車は乗る列車ではなくて撮る列車なんでしょうか。車内は案外懐古で乗ってる向きが多いようです。

駅撮りといえばこの駅員さん、写真撮りまくっていました↓

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大船から先も駅撮りの人はいますが

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鎌倉付近は背景が良いせいか踏切で撮っている人が増えてきました。(もっとも大船までは踏切がありませんが)

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鎌倉散策中の人も手を振ってくれます。こういうのも良いですねえ、警備にかり出された保線の方もご苦労様です。

最近は撮り終えた後、通過する列車に手を挙げて「ありがとう~」と叫ぶのがマナーというか流行のようで何度も目にしました。

実は横須賀線は逗子から先が未乗区間でした。横須賀も京急で横須賀中央まで来たことはありましたが(なんと会葬でした)JRは初めて。

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列車はここが終点なので駅を出て昼食にしました。

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駅前にいたペルリ提督(たぶん)

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改札出ていきなり軍港が見えるというのはさすが横須賀。

中央の2隻はアーレイバーク級かな。

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昼食後は当然完乗を目指し久里浜まで行きます。終端部分が単線だとは知りませんでした。

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旧型客車にはしゃいだ一日でした。

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小松島、新港岸壁臨港線のこと

2009-06-21 23:00:10 | 徳島で

予定では「糸崎な夜、その5」のつもりでしたが

夏の帰省予定を立てていると写真の整理が追いつかず、差し替えしました。

まだ2ヶ月も先のことですが東京-大阪一万円以下の便はどんどん無くなっていて

少々焦っています。

あの線は今回乗ってみたい、そこまで行けばついでにこっちの線も・・・

雨とはいえ一日これで潰してしまいました。

タイトルの新港岸壁への臨港線、一度も撮らなかったことについては

何度もお伝えしていますが全く悔しい限りです。

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ずいぶん前に掲載したことのある写真ですが

画面一番右、給水塔の手前を分岐していくのが臨港線です。

(左端、列車が走っているのが中田に向かう本線)

今までこの先は大きく弧を描いて新港岸壁に至るものと思っていました。

終端の倉庫街で貨車が数両止まっているのは何度か見た記憶がありますが

途中の経路を辿ったことはありませんでした。

ところが先日、国土地理院のHPで古い空中写真を見ていると

そうではないことが判明しました。

先ずはその写真をご覧下さい↓

http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MSI611&courseno=C18A&photono=6

’61年6月1日、高度1,800メートルからの撮影とあります。

新港の一万トン岸壁には同型船が3隻接岸していますが自衛艦のようです。

画像解像度を200dpiにしないと判りにくいと思いますが、トレースして略図を作ってみました。

Skomatushima

これでも結構時間がかかったんですが最後は手抜きになってしまいました。

赤線が臨港線です。

この写真によると臨港線は機関庫脇から一旦日赤病院(当時)の方に進み

スイッチバックして新港岸壁に進んでいることがわかります。

どう見ても弧を描いてそのまま岸壁に向かうのは無理です。

そういえば昔、徳島からバスで小松島港に行くと

日赤病院前のバス停を過ぎてしばらくすると列車なんか来そうもない踏切で一旦停車して、車掌さんが下車して安全確認をしていましたが、それが臨港線でした。

C11やその後はDE10が推進で貨車を日赤病院の方に押し込んでいたので

岸壁へは先頭に立って引っ張って行ったのでしょう。

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↑私よりずっと出来が良いので借用させていただきます。

Compiled by 「金長狸」様(ありがとうゴザイマス)

この写真の当時は阿摂航路が阪神-徳島・高知の最短ルート(空路を除く)

として栄えていてた時期で小松島港駅も大活躍していたはずです。

下の方、小松島駅本屋の前は神田瀬川河口の旧港で

昔々は客船もこちらに接岸して本屋で船車連絡が行われていたのではないでしょうか。

私が写真を撮り始めた’67年には本屋向かいに船会社の建物(待合室か)が残っていました。

本屋の先は貨物ホームでしたがすでにここでの荷扱いはありませんでした。

それ以前は盛んに貨車と船の間で荷物がやり取りされていたと思います。

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↑神田瀬川添いの線路の先端近くから小松島駅の方を望んでいます。

左側が神田瀬川、遠景中央は貨物上屋で

右側は客貨車支区の貨車検修所です。

’67年6月か7月の撮影。

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↑ずっと後、既に50系に替わった時代の写真です。

駅本屋の方から貨物ホームを望んでいます。上のモノクロ写真とは反対側からの撮影。

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↑奥に進んで貨車検修所の前から神田瀬川の方を見たところ。

舳先にクレーンを載せた貨物船が接岸中です。

そういえば日赤病院も今は元・機関庫の近くに移転しているようですが

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昔は給炭台の遠景に赤十字マークも鮮やかな建物が見えていました。

「糸崎な夜、その5」は写真を整理して近々掲載します。

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糸崎な夜1971年8月、その4

2009-06-14 23:29:50 | 県外(糸崎、布原 ほか)

本題に入る前に徳島ネタ。

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きのうは特別な日だったので女房が買ってきてくれました。

残念ながら以前紹介した神谷町のコンビニではなく

有楽町の「村から町から館」です。

どちらも川島町の「おいし工房」製です。

「マヨ」とありますが、どっちかというとドレッシングです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タイトルに戻ります。
糸崎駅での山陽本線夜行列車、その4になります。
日付は変わって1971年8月14日も午前1時を過ぎました。

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午前1時を過ぎたばかりの糸崎駅下りホーム。
天麩羅そばだけでなく売店も終夜営業、それほど夜行列車がありました。ペットボトルはもちろん未だなくて缶飲料さえ珍しいこの頃、当夜我々はもっぱら洗面所で水道水を飲んでいました。

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上とほぼ同じ構図ですが台車やベンチに座っているのは郵便車乗務(または積み卸し)の郵政職員の方々。当時はれっきとした国家公務員の皆さんです。まもなく到着する急荷31レ 1:07(汐留→熊本)を待っているのだと思います。前にも書きましたが、この糸崎駅は岡鉄郵(岡山鉄道郵便局)と広鉄郵の乗務境界駅だそうで当夜も何度となくこういう光景を目にしました。

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その急荷31レ(たぶん)が到着。急行荷物列車とあって停車時分は3分位。郵袋の積み卸しが大急ぎで行われています。

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↑207レ「天草」(京都→熊本、筑豊線経由)1:28だと言うことにしました。205レ「日南1号」(大阪→宮崎)0:40では、とずいぶん悩みました。上の写真で手前のBネは便所の窓形状からオハネ12と特定出来ます。ところが、
下の写真で続くBネは、同じく便所窓形状からスハネ16の様です。
3番線なので下り待避線。
手持ちの編成表では43系座席車・オハネ12・スハネ16と続く列車はありません。オハネ12はスハネ16と共通運用だったのでしょうか。そう考えて「天草」としました。というのは、
「日南1号」(下り)は寝台列車で座席は2両のみ、編成表ではスハ44+スハフ43となっています。一方、「天草」はオハ46やナハ10をずらりと繋いでいます。よく見えませんが、座席は2両だけではなさそうです。

※2011年1月追補
いつも勉強させて貰っている「客車倶楽部」様の掲示板によれば、
オハネ12の便所窓は中途よりスハネ16状の横長タイプに改修されたとのこと。
と言うことは写真の2両ともオハネ12の可能性が出て来ました。オハネ12が入って無い日南1号の可能性は無くなり、逆に「つくし3号」の可能性が強くなりました。

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↑上の写真の列車が待避中に4番線を通過していくEF66牽引のコンテナ特急。貨物とはいえさすが特急、定期急行を待たせて通過していきます。
安っぽい三脚をいっぱいに伸ばして載せているのは私のペンタSP(タクマー105㎜付き)です。

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↑209レ「日南3号」(京都→都城)1:41に違いないと思います。
オロ11を使用する列車は撮影時間中に桜島・高千穂や雲仙3号もありましたが、2両連続して繋いでいるのはこの日南3号(上りは1号)だけでした。
写真左端に写っている鳥の巣箱のようなものは郵便ポストでここに投函すると郵便車内で仕訳された消印が押されます。


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↑通過中の14M「月光1号」(博多→新大阪)と待避中の302レ「音戸2号」(下関→新大阪)1:57だと思います。
ホームの関係から上り列車なのは間違いありません。月光型は撮影時間中に金星、月光1・2号、明星1・2号とありますが定期急行待避中に通過するのは14Mだけのようです。(明星は明け方近くにありますが)

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↑今回、列車特定で一番悩んだ写真です。
時計の針は23:10頃とも1:55頃とも見えます。ところで右端を通過する列車はどう見ても「日向」です。下りの「なは・日向」は日中走行なので上りだろうと思います。上り2D「なは・日向」(西鹿児島・宮崎→大阪)は所定19:17分頃の通過なので、最初は2時間くらい遅れて通過中で時計は23:10頃だと考えました。しかし、
向かいで通過待ちのスハネ16のサボは大阪あるいは新大阪のようです。大阪・新大阪に上る寝台で一番早いのは304レ「音戸1号」の0:50。結局、時計は1:55頃で停車中の列車は302レ「音戸2号」(下関→新大阪)1:57ということにしました。

ひとつ上の写真の続きと言うことになります。望遠と広角は別のネガフォルダーに入っているので順序は特定出来ませんが。この仮定通りなら「なは・日向」は7時間近い遅れで14M「月光1号」続行していたことになります。

ネットで調べてみると「客車倶楽部」様の過去ログの中に
’71年8月、土砂崩れによる山陽線不通で「なは・日向」が岡山から伯備線・芸備線を迂回運転して広島に抜けたことがあった」
旨の記述があったのでひょっとするとその影響が出ていたのでしょうか。

代替輸送機関の少ない当時は、今のように簡単に運休とはせず何がなんでも目的地まで届けるのが特急のサービス、という様な気がします。
既にこの時、鹿児島線は全線電化が完成していましたが、日豊線は宮崎まで電化が届いていなかったため未だ82系DCでした。「かもめ」も鳥栖から先が非電化だったので同様に82系で岡山-新大阪間でどちらも一二回利用したことがありますが、車体はかなり疲れていました。
広島-岡山間では電車特急に10分弱劣りますが良く走ったなぁと思います。

 

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↑特急2本の通過を待ち(仮定)数分遅れの午前2時丁度頃発車していく302レ「音戸2号」(下関→新大阪)。
ホームのベンチにはまた郵政職員の姿が見えます。このあと2:10に216レ「つくし3号」(オユ10連結)、続いて2:22に1214レ「阿蘇」(スユ43連結)がやって来るので何れかを待っているんだろうと思います。

1971年8月14日の午前2時になったところで次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「糸崎な夜」1971年8月、その3

2009-06-07 22:10:21 | 県外(糸崎、布原 ほか)

鉄ピク・アーカイブスセレクション14「国鉄の気動車1960」が見あたりません。かの尼損にもなかったのでアキバと神保町の書泉や丸善に行ってみましたが無い。久しぶりに本屋を廻ってみていろんな趣味誌が出ているのに改めてびっくりしました。

さて、山陽本線夜行列車です。
その3は1971年8月13日の23時を過ぎたあたりから開始。

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F58の乗務員交代。広島区から岡山区への引き継ぎでしょうか。次位の客車の妻窓から12系の臨急のようですが列車名特定出来ません。

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ーム端の詰め所(事務室というのか)。鉄電やテレスピーはもちろんですがヤカンと灰皿も欠かせません。

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9218レ「天草51号」23:10(熊本→新大阪)。1番線は上り待避線です。13日は下りがピークなので上りはガラガラ、ましてこの列車は新大阪着が4:38という時間設定の悪さもあるのかもしれません。

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6レ「はやぶさ」23:18(西鹿児島・長崎→東京)。下り5レは4:52ですがホームの位置関係から上りです。「はやぶさ」は上下とも東京発着のブルトレで唯一糸崎停車でした。

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4レ「みずほ」23:47(熊本→東京)。時間が遅いせいか「みずほ」「さくら」は三原も尾道も通過です。

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18M「金星」0:11(博多→名古屋)。寝台電車も登場から既に4年経っていましたが、当時はまだみんな「月光型」と呼んでいたと思います。
この「金星」は「みずほ」の30分後、「さくら」の20分前をずっと平行ダイヤで走って行きます。

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「月光型」は三つ目なので遠くからでも識別できます。上の写真は外側を通過しているので下り列車。前後の写真から6009M「月光1号」23:22(新大阪→博多)か、11M「明星1号」0:18(新大阪→熊本)ではないかと思います。

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こちらは前照灯が腰にあるのでEF66のようです。もちろん通過。

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EF58牽引の下り列車が到着。

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205レ「日南1号」0:40(大阪→宮崎)のようです。
「日南」のサボが見えます。下り3号も寝台+座席の編成ですが、所属が大ムコなので205レと特定出来ます(下り3号の客車は都城=鹿ヤコです)。

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205レは寝台列車で座席車は二両だけ。この座席車の後ろにはマロネ41を先頭にした大分回転の寝台車4両が繋がっていたはずです。

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ほぼ同じ時間に向かいのホーム2番線を通過する2レ「さくら」だと思います。

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304レ「音戸1号」0:50(広島→京都)でしょう。
呉線廻りのこの列車は、この2年前に来た時は当駅でC62からEF58に機関車交換が行われていました。

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座席主体の定期列車、しかも停車時分があるのでいっときホームが華やぎます。

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ホームの賑わいをよそに荷扱車掌さんが執務中です。停車時間が長いのはマニを3両も繋いでいるからでしょうか。

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一方こちらは2両しかない寝台車スハネ16。所属表記が「中ヒロ」のままです。「中」は中国支社ですが、この当時既に広島鉄道管理局に改編されているはずなので本来「広ヒロ」なんですが書き換えが間に合ってないようです。(四国では四国支社→四国総局)

まもなく1971年8月14日の午前1時になろうかというところで以下次号。

 

 

 

 

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