徳島鉄道風景(新)

昔の徳島の蒸機が尽きて関東中心にしてましたが
戻って来たんで、これからは徳島起点でやってきます。

1967・1968年の小松島と徳島刑務所横

2021-10-03 21:36:15 | 蒸機時代の徳島で撮ったん


10月、待ちに待った制限緩和!不安材料は色々あるようですが「注意して進め」くらいになったんかと思います。
今回スキャンしたネガは春と夏ばっかりなんで、10月分は以前から何回か載せたヤツの使い回しです。直ぐ右手に徳島公園のお堀端から駅の方に渡る跨線橋がある場所です。立体交差が出来るまではここに警手のいる踏切がありました。入換中の車両はキユニ15で、中間車から改造された特異な全面は四国独特です。高徳線には線内用にこの他キユニ17も撮ったことがあります。


冒頭に書いたように制限緩和と言うことで、県外に行ってきました。引越前は埼玉県内、引越後も徳島県内でずっと自粛していて、「県外」撮り鉄は去年の6月以来になります。パンタグラフが付いた車両を撮るんはホンマに久しぶり・・・


10月って言うと一昨年までは数年連続で北海道へ行ってました。この時期、5日間全道の特急も乗り放題と言う格安切符があって、今年も出てる様です。行きたいんけど、徳島から北海道は遠いわぁ。

長雨のさなかに始めたスキャンが完了したので少しずつ載せていきます。今回は枚数の関係で小松島と徳島の旧・刑務所横で撮ったヤツを。


最初は1967(昭和42)年春の小松島駅ホームから見た中田・徳島方。このホームは駅舎前にあって、別に臨港線の小さなホームが右の方にありました。画面を横切る踏切は、右手が港で左に行くと三条通・二条通と交差して神田瀬川に至ります。正面は機関庫、その奧左手には当時東洋紡の工場(今の日赤病院の所)があり、右奥には当時日赤病院が金長神社の脇にありました。


駅舎を過ぎて神田瀬川河口の旧港横に広がる側線です。左端に写ってるのが小松島駅貨物上屋。その向こうが駅舎になります。


上とは逆方向、貨物上屋手前から河口方を見たところです。右側が旧港で、トラックが船と荷役中です。C11が貨車を牽いて来ていますが、ここでの貨物扱いは当時既に終わっていて、牽いてる貨車は左手の客貨車支区での検修車両の入替だと思います。


139号機は形式入りナンバープレートです。記録では137・139・140が小松島に居たことがあるようですが、137は最後まで居たので随分撮ったものの他の二機はほとんど撮っていません。


春に撮った一連の写真の最後は機関区のヤツを。門デフの59号機も小生はほとんど撮ってないんですが、今回のスキャンで初めて確認できたのは隣の38622です。高校時代の記憶では68692・58623・58685の三機で、38622は初めて気付きました。


ここからは同年夏に撮った写真です。小松島港駅に停車中の阿佐+いしづちです。通常は2+2の4両だったんですが、夏なんで多分阿佐が一両増結されとんだろうと思います。


車体側面を見ればキハ26も二両混じってますね。左手が岸壁で、奧の踏切を通ってる人はバスやタクシー利用者でしょう。


港駅と反対の本駅方向を見たところ。キハ30系が停まってるのが本駅の臨港線ホーム。交差する通りを右に進むと、この記事冒頭の写真にある踏切の通りと交わります。


さて、謎の写真です。上で写っていたキハ30+35が阿佐・いしづちの編成に増結されているように見えます。港駅のホームは6両が限界のようで、先頭のキハ30はまったくホームに掛かっていません。なにより、なんぼ多客期でもロングシート車増結するんかなぁと思います。キハ20は結構急行に増結されてましたが・・・


機関庫手前で撮った阿佐・いしづちの発車。上の写真とは違う日のようで、この日は4両です。


後追い。いしづちを利用して和歌山航路から松山に向かう旅客はどれくらいいたんだろう。


ハチロクはこの当時でも50歳くらいですが、均整のとれた格好いい機関車でした。大きめのデフもよく似合ってます。


庫の奧のターンテーブルの所。さっき38622を初めて確認したんですが、今度は68631が写ってます。38622は他の場所でも何枚か写ってますが、68631は休車状態のこの写真だけです。何れも形式入りナンバーで、68631の方は68692と同じく花文字です。1965年には小松島にハチロクが5両在籍になってるんで、この二両と68692・58623・58685だろうと思います。


このターンテーブル奧は休車を置くところで、二両とも休車札が差してあるようです。1965年の小松島はハチロク5両にC58は9両。その二年前はハチロク・C58共に7両ずつ、更にその前1961年はハチロク8両でC58はゼロとなってます。高松や高知にDF50が本格的に配置されたのが1959年で、その両区や多度津からC58が小松島と松山に来てハチロクと入れ替わっていきました。


また駅奧の留置線で救援車オエ70です。戦災復旧車の再改造で、17m級。ピントが悪くて31番か51番か判別出来ませんが、ウィキによるとオエ70←スニ75←オハ70←オハ31またはオハニ30と辿れます。


かなり傷んだ状態で、翌年ここで撮った時にはオハユニ61改造のオエ61に替わっていました。


ここから1968年春の写真。320号機が牽く回送列車の発車。


角形ドームが残る戦時型で、たしか関東から来たハズ。夕方、小松島から客扱いする425レと言う穴吹行きがありましたが、編成後部を見ると臨港駅か客車留置線から出て来たカンジですから回送だと思います。


機関庫奧には38622が居ます。休車札は無く、キャブには焚き付け用と思われる古枕木が見えます。ひょっとして給湯ボイラー代用?


小松島の写真が少ないので徳島駅西方で撮ったヤツも載せときます。先ずは1967年春に出来島踏切で撮った急行。まだ二両ともキハ26ですね。警手の居る踏切でした。背後の松原機械工具店は今も同じ場所にあります。眉山で桜が満開のようです。


右手の煉瓦塀が刑務所で、現在は市立体育館があるところです。踏切の上には歩道橋が出来てますね。


同じ場所から駅方向を見たところで、右端は信号扱い所です。南海ビルや駅舎は変わりましたが、C58が発車してる両側のホームは跨線橋も含め今もほとんど変わってないと思います。


ハーフサイズなんで縦型の構図が多いんです。46号機も今回のスキャンで初めて撮っていたことに気づきました。


上の列車の後追いです。何度か記事に書いてますが、夕方高松に向かう列車の後部には板野から鍛冶屋原に向かう列車が機関車ごと付いてました。C12から客車4両が鍛冶屋原行きで、その先マニ36?から前が高松行きです。今回のスキャンで鍛冶屋原行きにはオハニ61が組み込まれていたことが分かりました。板野までの各駅では鍛冶屋原編成はホームに掛からないはずです。


こっちは1968年3月と月が判明しています。


’68年になると池田行きもC58の牽引になったんですが、さて3月で既に代わっていたか?


110号機は王子から来たんですが、転入当初は集煙装置が付いていませんでした。これで大坂峠のトンネルを抜けるのは大変だったでしょうね。
今回はここまで。








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