今日は一時間半ほどNをいじってみました。
結局今月は模型店にも行かなかったし、今日は家人がいない時間が出来たので
シンナーの臭いをさせてもいいだろうと先ず中性洗剤で油分落とし、乾かす間に
窓にカーテンを表現する灰色の紙を裏貼りする
と、ここでもう時間切れ。家人1も帰って来ました。
しかし、Nは小さい。老眼鏡が要ります。私は元々近眼なので
老眼鏡は要らないと思っていたんですが、
遠くはもちろん近くも見えなくなってきました、トホホ・・・
さて、前回途中で終わった鍛冶屋原線の続き。
鍛冶屋原駅舎。ローカル線駅舎の標準タイプです。写っていませんが
右側に改札口があります。
線路の終端部分を望んでいます。
逆に給炭台からホームを見たところ。左端が駅舎です。
’67年(昭和42)年10月改正までは徳島~板野間を牽引機C12ごと
高徳線列車に併結する客車列車があったことは以前に紹介しましたが
その名残の給炭台と給水塔が残っていました。
このポイントで給炭・給水を終えたC12が機廻ししていたのでしょう。
この後、次の列車まで未だ時間があったので隣の神宅駅まで歩く事にしました。
道中いろんな人と出会います。地元の方は常用されているのか
草蒸した線路に獣道のように跡が残っています。
さらにこんなのも来ました↓
昔はちょっとした保線所には備えてあった軌道自転車。
自家用に一台欲しいと思っています。
神宅駅に到着。
ホーム側全景。当時、鍛冶屋原線は全線一閉塞でしたが
見たところこの駅は開業時から交換不能駅であったようです。
でも駅舎は標準的な大きさ。模型にしたい雰囲気です。
正面は極めて簡素な造りです。
駅舎内の出札窓口。右側には手小荷物窓口があり、
これらも国鉄標準な造りです。
だいぶ長くなったので以下次号・・・
おまけに3月20日(祝日)朝の新町橋から眉山を望んだ写真を。
こうしてみるとコーラの看板デカいです、ウチの実家より大きいのでは。
もう一週間経ちますが、今日あたり桜も満開でしょう。
かんやけ(神宅)写真ありがとうございます~~
感動しました~~標準タイプでw
いやいやもう幻なので・・・形的にトミックスの田舎駅舎か、トミーテックの駅舎などが一番形が似ているのでレイアウトで再現したいですね~~
線路を歩いているなんて、のんびりしたところがいいですわ~~
鍛冶屋原の給水塔・・・平成ぐらいまであったような・・・薄っすい記憶ですが・・・?間違いかも?
ちなみに、1閉塞だから、タブレットは無いのですかね?
なんか信号機も見えないような・・・?
ps:行商の写真を見て、うちのおばあさんは、衣類とかの行商を少ししていたらしく、母がよく池田や川田や脇町に連れて行かれたっと言ってたのを思い出しました~
たしか板野より先は信号機は無かったと思います。
そのせいで国鉄標準型駅舎にもポイント転轍機は無かったようです。
トミックスといえばオハ61系、ネットで見ましたが良い出来です。欲しい・・・
以前、拙ブログで紹介した「川田駅の廃工場」の現役時代を御母上はご覧になっていたのでしょうか。
実際、南薩鉄道(鹿児島交通)のドキュメントを大昔に見た時、
こんな風景がいっぱい出ていたような覚えがあります。
脳みその奥の方にこびりついています。
あるいは、日本を離れ、東南アジアにでも来たような雰囲気。
それに比べれば、牟岐線や徳島線なんて、
充分に「幹線」という気がしてくるのが不思議です。
こういう「時間の流れが止まった」ような場所で、
セミの音や鳥のさえずりを耳にしながら、
ノンビリと汽車が来るのを待つ、
なんて撮影をしてみたい気がします。
でも、ちょっとキハ30には不釣り合いな風景かもしれません(汗)
僕も触発されて、
以前、小松島線の廃線跡を散歩した時のポジ、
引っ張り出してきたので、
明日にもアップしようと思います。
廃線から6年後の91年、そろそろ遊歩道の工事が始まった、
そんな頃の記録です。
本日4月1日でJOJR-TVがTV放送開始50年を迎えました。
もっともRADIO放送はもっと古く1952年7月1日、中四国で最初の民間放送局でした。
今朝と明日の『おはようとくしま』ではTVがみた徳島の50年を特集してます。
今朝の映像の中で、これや!と画面に向かって叫んだのは、南東風さん紹介の軌道自転車。
流れるモノクロ映像は阿波池田駅所属の軌道自転車での保線作業。
また、旧徳島本線を爆走する蒸気機関車の総天然色の勇姿(カラー映像初期、SLの終焉期の頃)。
どれも懐かしい映像でした。
四国放送は由緒正しい放送局なんですね、知りませんでした。
テレビに詳しくない小生は先日帰省した際、日テレ系らしいというのが
やっとわかったくらいで恥ずかしい限りです。
その記念放送、身内が録画してくれてると良いんですが・・・
真夏の昼下がりは白日夢を見ているような気になることがあります。
もっとも最近はそういう状況は少なくなりましたが。
ごっさん様の昔の写真、お待ちしております。
それにしても
ごっさん様のブログで拝見しましたが
しんすけ様・ごっさん様とは一体どういう素性の方なのか
おっさんにはますますわからんようになってきました。
ということはチャーリー様は小生より少々先輩?
小生が中学生の頃、夕方の高松行客車列車に
鍜治屋原行きが板野まで併結されて
一度だけ撮ったことがあります。
(朝は板野から高松始発列車に併結して徳島へ)
草は、撮ったのがお盆の最中だったので
一番繁る時期ということもあるかもしれません。
こういう情景が好きなんです。。。
私が神宅から板野に通学で乗っていたの昭和37年度が最終です。
18歳の年ですからその辺を考えていただくとわかると思います。
それにしても貴重な写真です。鉄道ファンでもない私が見せて頂いて
遠い昔の出来事を思い出します。
上板中学が出来る前は大山中学に通っていましたから、上板町でなく
大山村だったのです。
昭和37年と言えば小生は小学校高学年。
昭和25年までを団塊世代と言うそうですから
その次の世代(るり色世代というそうです)です。
当時の時刻表で残っている一番古いのは昭和42年ですが
復刻版で昭和36年10月改正号があります。
それによると朝は
神宅発 板野着
5:44 5:54(気動車)
6:34 6:44(気動車、徳島行)
7:15 7:30(汽車、徳島行)
とありますから7:15の列車だったんでしょうか。
大山村とは残念ながら聞いたこともありません。
平成の大合併で高知には「村」が無くなったと聞いています。
通っていた時間は多分7時30分の列車に乗っていたと思います。
もう50年前の話ですから、大山村の合併は平成の合併のもうひとつ前の大合併で上板町が出来たのだと思います、板野駅に駅名が変わったのもそのころではないかと思います。
私は団塊の世代の一つ前の世代です。
高速千円が無くなったので帰る機会がますます減ってまいりました。