三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「海南島月塘村の朱学平さんのこと」

2024年02月19日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会第27回定例研究会(2024年2月17日に開催)への海南島からのメッセージのなかで林彩虹さんは、「万寧月塘村の「三・廿一」惨事の生存者である朱学平さん」について語っています。
 海南島近現代史研究会は、月塘村虐殺62年後の2007年に、生き残った人びとの証言を、村人のみなさんの助けをかりて、50日間記録し、ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』制作しました。
 以下は、そのドキュメンタリーのうち、朱学平さんにかかわる記録の個所です。

Ⅰ、月塘村 
 映像:月塘村への道
 表題:海南島月塘村虐殺
 ナレーション:1945年5月2日の明け方、まだ暗いうちに、日本軍は、この道を通って月塘(ユェタン)村に侵入してきました。
 影像:月塘
 テロップ:月塘
 ナレーション:むかしは、月塘村の中心は、月のかたちをしているこの大きな池のそばにありました。
 映像:アジア太平洋地図→海南島全図→万寧→月塘村

Ⅱ、証言                     
 映像:朱学平さん(自宅で、殺戮現場で、月塘村の道で)
 テロップ:朱学平さん(1933年生)
 テロップ:ここから 腸が出ていた
 テロップ:私は 柱の影に隠れていたので 助かった
 テロップ:朱学平さんの家の土台石
 ナレーション:朱学平(ジュ・シュェピン Zhu-Xueping)さんは、
         「わたしは、12歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、なにも言わないで、殺しはじめた。
        わたしだけが生き残った。母、兄の朱学温(ジュ・シュェウェン Zhu-Xuewen)と朱学敬(ジュ・シュェジン
        Zhu-Xuejing)、姉の朱彩和(ジュ・ツァィホ Zhu-Caihe)、叔母2人、いとこ2人、そして6歳だった妹の
        朱彩蓮(ジュ・ツァィリェン Zhu-Cailian)が殺された。
         わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹は腹を切られて腸がとびだしていたが、まだ
        生きていた。血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なんども妹が息をしているかどうか確かめた。激しい雨が
        降った。村はずれに隠れた。半月ほどたって戻ってみたら家は焼かれていた。遺体も火にあっていたが、
        骨になりきっておらず、くさっていた。まもなく、日本軍の手先になっていた者たちが万寧(ワンニン
        Wanning)から来て、遺体を近くに運んで埋めた。
         その5年前の1940年11月28日に、父の朱開廉(ジュ・カイリェン Zhu-Kailian)が、近くの東澳(トンアォ 
        Dongao)村に魚を買いに行き、日本軍に銃で撃たれて殺されていた」
     と話しました。
 影像:畑からの帰り道、クワをかついで遺骨が埋められたと思われる場所に近づく朱学平さん
 影像:遺骨が埋められたと思われる場所をしめす朱学平さん
 テロップ:遺骨が埋められたと思われる場所をしめす朱学平さん
 ナレーション:朱学平さんは、
          「日本軍が負けていなくなってから、遺骨を探した。遺骨が埋められたと思われる場所をなんども
       掘って探したが見つからなかった。焼けた骨は土のなかで砕けてしまったのだと思う」
    と話しました。
 映像:朱学平さんのむかしの家の跡
 テロップ:日本軍が襲撃した朱学平さんの家の土台石
 テロップ:むかしの家の門の跡を示す朱学平さん
 影像:その向かいの朱開琨さんの家の跡
 テロップ:朱学平さんの家の向かいは朱開琨さんの家だった  土台石が残っているだけ

Ⅸ、朱彩蓮さん                    
 映像:瀕死の妹、朱彩蓮さんを抱いて逃げた道を62年後に歩く朱学平さん
 テロップ:妹を抱いて逃げた道を歩く朱学平さん
 映像:「坡」で話す朱学平さん
 テロップ:妹は、近くに埋めた
 テロップ:妹を抱いてここまで逃げてきた
 テロップ:妹は、近くに埋めた
 テロップ:妹は ただ 水だけを欲しがった
 テロップ:妹は静かに目を閉じ、死んでしまった
 映像:朱学平さん 樹と草の茂みのなかで
 テロップ:ナグゥサン(ひどい) ナグゥサン  思い出す。悲しい ホレン(可怜)
       食べるものも着るものもなかった   土の上に麻の袋を敷いて、蓑をかけて寝た
 テロップ:ここで何か月も暮らした  捨てられているサツマイモのくずを探して食べた   ひとりで何年も暮らした  
       怖かった 思い出すと涙がでてくる
 映像:「坡」を去る朱学平さん
 映像:太陽河
 テロップ:太陽河 2007年11月
 映像:太陽河の水辺に映る揺らめく太陽→遠景
 テロップ:朱学平さんは、瀕死の妹にこの河の水を汲んで飲ませた
 映像:牛と太陽河
 テロップ:月塘村と その農地と 入会地は太陽川の 北側の台地にある

■『海南島月塘村虐殺』新版(海南島近現代史研究会 2008年制作)■
 Ⅰ、月塘村  Ⅱ、証言  Ⅲ、「要求日本国政府賠償請願書」 Ⅳ、戦犯を「象徴」とする日本国で  Ⅴ、海南島における
 日本軍の住民虐殺  Ⅵ、月塘村追悼碑  Ⅶ、要求賠償  Ⅷ、掲碑儀式  Ⅸ、朱彩蓮さん
 
 構成・シナリオ:佐藤正人  編集:佐藤正人 小谷英治 金静美
 翻訳:林彩虹 佐藤正人 金静美  撮影:小谷英治 佐藤正人  ナレーション:崔文子
 協力:月塘村のみなさん 蔡徳佳 朱学基 朱振華

 『海南島月塘村虐殺』のシナリオ全文は、海南島近現代史研究会のウェブサイトに掲載してあります。
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