【追録 2021.12.27】
信玄考案と言われる「武田流門松」 県庁に飾られる(2021-12月27日 11時55分 NHK甲府放送局) 新年を前に、戦国武将、武田信玄が考案したと言われている、伝統の「武田流門松」が県庁に飾られました。 「武田流門松」は、戦国武将の武田信玄が考案したと言われている山梨県伝統の門松です。 竹の先端が斜めに切られている一般的な門松は、信玄に戦で敗れた徳川家康が、竹を武田家の首に見立てて斜めに切らせたのが始まりとされていますが、武田流門松では、竹の先端を平らに切っているのが特徴です。 また、家康の元の姓が「松平」だったため、家康を連想させる「松」より武田家を連想させる「竹」を高い位置に設置しています。(以下引用は略します)
◎
Wikipedia_門松(百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
◎
門松の意味と由来、歴史には深い意味がある(2018年11月5日 SEASNALATURE(シズナレイチャー))
◎
門松~悠久の歴史と飾り方3つのルール~(2015年12月12日 井上熱帯園株式会社)
この3本の記事では、竹の斜め切りは徳川家康が始めたと書かれています。
【以下は 2019-12-25 に書いたブログ記事です。】
クリスマスにこんなブログ記事も一興として・・・
元亀3年10月3日、武田信玄は躑躅ヶ崎館を出陣して遠州を目指した。
すなわち「ゲンキ3年=1572年10月3日(旧暦)」に甲府(甲斐府中)の「ツツジガサキ」から出陣し、信州の諏訪~伊那を経由して遠州を目指した。
二俣城を攻略した後、浜松城の北にある台地、三方ケ原(ミカタガハラ)で家康軍と戦いになったのは12月22日。
22日の夕刻には勝敗が決して家康軍は浜松城に退却した。信玄は浜松城を攻め落とすのでは無く、目的地である西に向かった。
【以上は雑誌「歴史と旅 特集・三方ケ原・長篠の合戦」を参照して書いたものです。】
三方ケ原合戦の翌年、元亀4年正月、家康のもとに信玄から正月飾りの門松と一緒に一句が届いた。
「まつかれて たけたくひなき あしたかな」・・・松枯れて 竹類ひなき あしたかな(松平姓の家康 松平は滅び武田は類いの無い良い未来を迎える)との一句に家康は憤った。それで家臣の一人がこの句を書き換えた・・・
「まつかれで たけだくびなき あしたかな」・・・松は枯れず武田は首がない未来である と。
この書替えに家康は喜び、信玄の首を切るかのように門松の竹を斜めに切り落とした。
これは私が東京にいた頃、かなり以前に何かで読んだ、門松の形に関する話です。ですから東京(江戸)と同じように斜めに切られている門松が飾られている甲府の正月には意外な思いを感じていました。
『鳥居脇には両側に見事な門松が立っていましたが、これぞまさしく武田・甲斐の国バージョンの門松でした。 』
初詣、武田神社(2007年1月1日のブログ記事)写真と共に書いたのは、上記の話が記憶に残っていたからでした。
県庁に伝統の「武田流門松」設置(NHK甲府放送局 2019-12-25)、NHK様の記事ですからチャチャを入れるつもりはありませんが、武田流門松というより、これが門松の元々の形なのかも知れません。
門松の成り立ち、歴史を私は知るものではないので、竹を斜めに切る必要があるのか、無いのかは分かりませんが、徳川時代に全国各藩が江戸政権に「忖度」して「松平流の門松」になっていったと考えるのもアリかも知れません。
天領時代の甲州では門松はどのような形状だったのか、「武田流門松」が継続していたのなら、「まつかれて たけたくひなき あしたかな」に基づく門松話は、それなりの昔話としておくのが良いと思います。