いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

未成年だからな

2020-10-18 10:54:30 | せんせいとよばれて
子供は、未熟で無知であるが故のデリケートな、
その年齢ならではの繊細な感性をもっている。

大人は、成熟したが故のタフな、
大概のことは飲み込むか流すかしてしまえる、
ある意味での鈍感さをもっている。

例えば、

「豚さんも牛さんも殺されてお肉にされちゃう、かわいそう」

と、

「家畜というのはそういうもので、肉を食べないわけにもいかないし、考えても仕方ない」

という対比。

思えば、原発も環境問題も戦争も差別も、
あるいは政治の無体や会社組織内の理不尽な諸々も、
みんなこうして「考えても仕方ない」で、
思考を停止させてしまうことが「大人しぐさ」かのようだ。

どんな疑問も不満も屈託も鬱屈も「知識」と「理屈」にすり替えて、
「わかった気」になってしまう。
自分はそうして呑み込んでいるのだからと他人にも、
そしてもちろん子供にも無意識にそれを強要する。
それは「常識」でしょ、と言いながら。

でも、子供たちにはただの同調圧力でしかない。
なぜ黙らなければならないのか、承服できない。

何も大人だけが悪者だと言うわけではない。
大人だって、思うところがないわけじゃない。
でも大人は、わかってはいても生き延びていくために、
心を殺さなくてはならない時がある。

生きるというのは悩むということだ。
生老病死に四苦八苦、怨憎会苦から求不得苦、
愚痴も逃避も許されず、ありとあらゆる責任にがんじがらめにされて、
悩み苦しみ迷い考えなきゃいけないことが山ほどある。

とるに足りない小さなことや、
個人の手に負えないような大きすぎることで、
いちいち喜んだり怒ったり悲しんだり傷ついたりしていられない。
自分に直接影響しない他人事に、
同情したり首を突っ込んだりしている暇も余裕もない。

大人がそうしてタフに生き延びて、家族を守っているからこそ、
子供は些細なことに感じ入ったり傷ついたり、
誰かに同情を寄せる余裕があるのかもしれないよね。

授業で扱った国語の文章題に付随して、そんな話をしていたら、
「じゃあ大人と子供の中間が居ればいいんだね」
という声が挙がった。
「子供の心を持ったまま大人になれば、両方の気持ちがわかるんじゃない?」
という声も。

そうだね。
まったくそう思う。
教育業にはそんな大人がたくさんいて欲しいよな。
そう思いながら聴いていると不意に、別の子がポツリと呟いた。

「子供と大人の中間…先生(僕のこと)じゃん?」
「ああー!そーだねー!こんな感じかー!」
「学校に先生いたら全然違うよねー」

45歳の理屈っぽいふざけたおっさんが、
まさかそんな風に言ってもらえるとは思ってもみなかったので、
柄にもなく照れちゃって、気の利いた返しができなかったんだけど、
ありがとう、たいへん光栄です(^^)

何を隠そう、僕は成人式出ていない(起きたら終わってた)ので、
まだ未成年なのです(キリッ

大人たちには青臭いと言われ続けた僕の酸味は、
子供たちにはイイ感じのスパイスになるようで、
僕にとっては最上級の褒め言葉です。
尊敬するとか言われるとむず痒いけど、
味方になってくれると言われたらすごく嬉しい。

…でも、残念ながらたぶん学校では生きていけないと思います。
……校長とか他の先生とかとすぐケンカになっちゃうから…。
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