【夏のメロディ】

2020年6月21日

【夏のメロディ】

人それぞれが持つ個性的な情緒は、それぞれの音程と固有のリズムをあわせた旋律(melody)であり、人という旋律がこの世界を覆う五線紙を投影し、その結果として「時間」というものが生まれ、時間とはそういう意味で楽譜なのだ。ごく荒削りにそう言ってみる。

情緒(emotion)の語源的なりたちは先日メモした経験(experience)と似ており、ラテン語 ēmōtiō、ē- 外へ+ movēre 動く+-tus 過去分詞語尾+-ion = 外へ動かされた状態 → 我を忘れること、となる。

人が我を忘れて自分のメロディを奏でるとき、そうしたくなる最もエモーショナルな季節がそれぞれで違う。ヴィバルディの四季を聴いても情感が最も高まる季節が各々で異なるように、自分の場合は夏に情緒のツボがあるので、歌い疲れた夏の終わりはいつも寂しい。

空いっぱいに夏の楽譜が見える季節になった。しばらくは絶頂に向かってカタパルト上を夏好きたちが滑走する。『夏への扉』を書いた R・ハインラインの SF では、カタパルトを使って宇宙船を虚空に向け高速射出していた。音楽にもまた情感のカタパルトのようなものがある。

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【夏の領分】

2020年6月20日

【夏の領分】

大人(おとな)の領分。

小人(こども)の領分。

正午(まひる)の領分。

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【小川三四郎】

2020年6月20日

【小川三四郎】

今朝の朝日新聞『be on Saturday』掲載、原武史「歴史のダイヤグラム」─「敗戦後」を予言した庶民─ はとても面白かった。

本題と違うところでちょっと驚いたのだけれど、漱石の『三四郎』は大好きなので何度も読み返している。記事に敗戦後の日本を予言したひとりとして登場する広田、この広田先生が登場人物でもとくに好きで、その台詞だけの抜き書きもつくって持っているほどだけれど、三四郎の姓が小川であることを全く忘れていた。

どこに姓が出てたっけと、読み返すと最初の方ですぐ
「三四郎は宿帳を取り上げて、福岡県京都郡真崎村小川三四郎二十三年学生と正直に書いたが、女のところへいってまったく困ってしまった。」
と書かれており、その後も三四郎は「小川さん」「小川君」と何度も呼び掛けられている。なんで小川姓であることが記憶から抜け落ちているのか不思議だ。

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【手っ取り早い方法】

2020年6月20日

【手っ取り早い方法】

十代の頃は暗記力が優れていた。大学入学直後もまだその力が残っていたようで、フランス語の授業は一度しか出席しなかったけれど、副読本の日本語訳を探して手に入れ、突き合わせて完全に丸暗記し、最後の試験に出たらスラスラと答案が書けて AA の単位がもらえた。楽しく丸暗記できたのは記憶力云々より本の内容自体が楽しかったのかもしれない。暗記しようとしたせいか集中して読めた。誰が書いた何だったか忘れたのが残念だ。そういういい加減な体験のおかげでフランス語の響きがいまも好きだ。

よく出てくる「表象」という言葉の意味することが書き手と本によってとっ散らかって自分には感じられ、ショーペンハウアー『意思と表象…』全3巻をうんうん唸りながら読まされたこともあり、また「表象」かと文字を見るたびにうんざりする。うんざりするので、その2文字が出てくるたびに「ルプレザンタシオン」と心の中でルビを振っている。

あらかじめシナリオを読んで丸暗記してしまえば、踊るように演じる役者たちを見ているだけで、どんな会話が行われてどう話の筋が展開していくかわかってしまうわけで、それはあの安直な丸暗記フランス語単位取得大作戦に似ている。あらかじめ自分が用意した「プレザンタシオン(台本)」を自分で「ル(再現)」して自分が観賞するわけで、自分の背後から光を投射して自分の姿が前方の壁に投影される様子を自分が観劇するわけだ。表象とはそういうルプレザンタシオン、すなわち再表現的に自作自賛をする人間の思考方法のことであると解することにしている。フランス語だと覚えやすい気がするので。

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【スポーツと回想】

2020年6月19日

【スポーツと回想】

巨人ファンの義父も他界してしまい、最近は野球をほとんど見なくなった。昔は夢中になっていたので古い時代の野球の話はよくわかる。古い時代の数学者が古い時代に出した本に、川上監督の野球はピッチャーを替えずにみすみす負けるから嫌いだと書いていて笑った。世界的数学者らしい必勝方があったのだろう。

その数学者が相撲は大鵬より柏戸が好きで、よく負けるけれど負けっぷりがいいとも書いていた。柏戸の時代の自分はまだ幼かったので負けっぷりがいいと言われても笑えない。ただよく負けていた記憶はあり、
「なぜ柏戸はいつも泣きそうな顔をしているの?」
と母親に聞いたら
「そういうことを言うもんじゃない、この人は真面目だからこんな顔なんだ」
と叱られたのが忘れられない。

川上巨人が連戦連勝の時代であり、アナウンサーが
「どうして巨人はこんなに強いんでしょう」
と聞いたら解説者が
「そりゃそうですよ、他のチームはぜんぜん練習してませんから」
と言うので、ほんとかなぁと思った記憶もある。

スポーツの思い出はたいがいいい加減である。

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【寒山拾得】

2020年6月19日

【寒山拾得】

 

明治人の書いたものを読んでいると、自分の〝悟性に依頼して折り折りに判断〟する、つまり考える前に感性的刺激として〝意識〟に直接与えられたものを総合的に統一し、概念を構成し対象を直観として認識する能力、平たく言えば自分の〝情緒を信頼して行動を任せる〟やりかたで仔細あるまい、というようなことがさらりと書いてあり、やはりこの時代の人は東洋の仏教思想が基礎教養の台座になっているのだなと思って感心する。

芥川龍之介に単体結晶のような作品がいくつかあるとしてそのひとつに『東洋の秋』が挙げられていたので再読し、今回は無料の Kindle 版で読んだついでに森鷗外『寒山拾得』も再読した。こちらは何度読んでもいい。もう一点挙げられていた芥川の『尾生の信』もしみじみと読んだけれど、こちらも今回初めて読んだような、そうでもないような不思議な感じがした。

最近、初めて読んだ文庫本を本棚にしまおうとすると同じ本が既にもう一冊あったりするので、自分の「気がする」があてにならない。「気がする」をあてにしないおかげで再読して感心しているのだから、けっして悪いことではない。溜めておくことができなくて、読んだことすら忘れていて、心の渇きに応じてときどき自分の中に流しておかなくてはいけない本があるのだろう。そういう本はたしかに単体結晶のように人のこころに直接はたらく。

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【九九のしくみ】

2020年6月18日

【九九のしくみ】

子どもの頃、算数嫌いではなかった。九九表を見てまる覚えをしながら数の規則性が面白くて、「くくはちじゅういち」で終わった先を考えていたら、11 かける 11 が 121 になる原理に気づき、111 かける 111 はちゃんと 12321 になるので、ときどき算数を教えてくれる静岡工業高校出の叔父に会った際、1 が連続する数字同士の掛け合わせは面白い、1111111 かける 1111111 は 1234567654321 になるとすぐに答えが出せると言ったら、妻を呼んで「おい英子!雅彦はバカじゃなかったよ!」と笑いながら言うので、叔父夫婦は自分のことを「あいつはバカだ」と話していたのだとわかってがっかりした。

この歳になって九九開立法というのがあることを初めて知った。「かいりつほう」で辞書を引いても出てこなくて、「かいりゅうほう(extraction of cubic root)」と読み、英語が示すように自乗で平方を出すのではなく、三乗で立方を求めるのだ。明治生まれの子どもはそういうまる覚えもしていたらしい。

暗唱方法は、
いんいちがいち
ににんがはち
さざんにじゅうしち
ししろくじゅうし
ごごひゃくにじゅうご
ろくろくにひゃくじゅうろく
しちしちさんびゃくしじゅうさん
はっぱごひゃくじゅうに
くくななひゃくにじゅうく
なのだという。

なーるほどーと思いながら、やはりこのあたりの算数は面白くて、子ども時代に戻って腹這いになり、新聞広告の裏に「くくななひゃくにじゅうく」の先はどうなっているのだろうなどと筆算して遊んでいると、「おい、やっぱりこいつバカなのかもしれない」などと大人たちに笑われるのだろう。

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【水出し麦茶の常識】

2020年6月17日

【水出し麦茶の常識】

家内が還付金詐欺の電話を真に受けて騙されかけ、不安になって近所の警察署に届け出て相談し、いろいろなグッズと一緒に水出し麦茶をもらってきた。1 リットルの水で水出ししろと書かれていたので作って飲んだらひどく苦い。あれは騙されかけた人への罰ゲームとして、警察署が特別調製させた、苦いお仕置きだったのではないかと言って笑った。

昨日は銀行に行った妻がまた水出し麦茶をもらってきたので「また苦いんじゃないの?」と笑った。せっかくもらったので試しに作ってみるかと説明書を読んだら、1 リットルの水に 1 パックを入れ、ここまでは警察がくれたのと同じだけれど、その先を読んだら冷蔵庫に入れて冷やしながら水出して2 時間たったら麦茶パックを取り出せ、その頃がつめたく冷えて飲み頃だと書かれていた。親切だ。

思えば警察署でもらったのはろくに説明も読まず、水を入れて常温で半日かけて水出しし、ずいぶん濃く出たなと思いつつ冷蔵庫で冷やし、飲んだら驚くほど苦かったのだ。落ち着いて、ちゃんと常識で考えろという、ほろ苦い戒めだったのかもしれない。

2020年6月17日正午過ぎの KOMAGOME NOW

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【その息その意気】

2020年6月17日

【その息その意気】

いい歳して失敗を「若気の至り」などとは言えない。何歳になっても失敗はあり、何歳になっても昨日の自分は今日の自分より若いので、広義に「若気の至り」と言えなくもないけれどしっくりこない。

「血気にはやる」という言葉もあり、一時の意気に任せて向こう見ずに事をすることを言う。確かにそういう成り行きで人は失敗をするのだけれど、いい歳したオヤジの血気も、カッカと湯気を噴いて煮えたぎるヤカンみたいで恥ずかしい。

「意気に任せて」はいいかもしれない。事をやりとげようとする積極的な気持ちを「意気」という。人は何歳になっても息と意気はあるので、その意気に任せて失敗をする。

数日前にヤフオクで安い出物を見つけ「そうそう、これが欲しかった!」と速攻で入札した。入札してからオークション終了まで5日もあると、心変わりして後悔するのが人間なので、こんなものをあの時どうして欲しがったのだろうという「意気に任せて」入札した自分への悔恨の情に5日間さいなまれた。5日間は長い。

終了1時間前になっても相変わらず「あなたが現在の最高額入札者です」(あなたが最高のバカです)となっている。いまあんなものを欲しがるやつは他にいないのだ、とあきらめて布団をかぶって寝たが、今朝になってメール通知を見たら「他の人があなたより高値をつけました」という高値更新通知が届いていた。

助かった。誰かが5日間じっと物欲に耐えて雌伏し、終了数分前に入札して一気にかっさらって行ったのだ。よくぞやってくれた、「その意気や良し!」。

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【コンツール・ファインダー】

2020年6月16日

【コンツール・ファインダー】

三十歳で電機メーカーのデザイン室をやめてフリーランスになった年に、ぶらりと立ち寄った中古カメラ屋で買ったドイツ製のコンツール・ファインダーが引き出しにあるのを思い出した。

ホットシューに取り付けた小さな暗箱を右目で覗くと 24mm×36mm フィルムで焦点距離 35mm のレンズが切り取る範囲が明るい光の枠としてくっきり見える。このとき左目も同時にあけておくと、左目が見ている眼前の光景に右目が見ている光の枠が重なって脳内で合成される。いわば両眼を使って合成する明るい脳内ファインダーなのである。

素晴らしいアイデアに感動して購入したものの、ピント合わせをするファインダーと、構図を決めるファインダーとの行ったり来たりが煩わしく、実際に使用することはなかった。ふと焦点距離 35mm のレンズをつけたオートフォーカスのデジタルカメラで、ピントが合うに決まっているのにいちいち液晶画面を眺めるのにも飽きて、もっと気軽で風通しの良い外付け光学ファインダーが欲しいなと思って調べていたら、コンツール・ファインダーがあったことを思い出したのだ。取り付けてみたらとてもいい。こんなかたちで活かせる日が来るとは思わなかった。

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【 6 月 16 日の噴火】

2020年6月16日

【 6 月 16 日の噴火】

2015年の今日の日記に「浅間山が噴火したらしい」と書かれているので、過去の火山活動を記録しているサイトで調べたら「6月16日の午前、浅間山で小規模な噴火活動がありました。」と書かれていた。小規模な噴火だったがニュース速報に反応して大袈裟に書いたらしい。

連用日記が面白いのは地球に1年という恒星周期があり、しかも傾いて回転することによって春夏秋冬がある国民だからで、赤道直下に生まれていたら、毎年巡ってくる「きょう」に対する感慨はもっと希薄なのだろう。

傾いて自転しながら公転する遊具のような国に今年も真夏日がやってきた。あまりに運動不足気味なので汗かきついでに散歩と買い物をしてきた。

2020年6月16日正午過ぎの KOMAGOME NOW である。

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【偽ボランティアの朝】

2020年6月16日

【偽ボランティアの朝】

秋になると六義園内から樹木の種子が風に乗って飛んで来る。掃除しながらふたつぶみつぶ拾っては植木鉢の隅に埋めてみるけれど発芽したことがない。種子の発芽にはコツがいるのだろうと思うけれど、公園の周りを注意深く見て歩くと、掃除の手の届かないゴミの吹き溜りで発芽したものを目にする。人が世話を焼いたりしない厳しい環境のほうが種子の発芽に適しているのかもしれない。

昨日も外出帰りに下を向いて歩いたら、歩道と側壁のすき間に小さなクヌギとイロハモミジが芽吹いていた。そのうち夏の草むしりで抜き取られてしまうにきまっているので、わが家のベランダで大事に育ててみたくなった。早起きの草むしりボランティアをよそおっていそいそ早朝に出掛け、よっこらしょとしゃがみこんで引き抜こうと思ったら、コンクリートの隙間に深く根を張っている。無理したら千切れそうなので断念した。人の善意を知らない植物もまた必死なのだ。

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【情緒とは】

2020年6月16日

【情緒とは】

情緒という漢字二文字を英語で言えばエモーションで、emotion を語源に分割すると「心を外へ(ex-)動かす(moveo)こと(-ion)」なのだという。人が五感で受け取るさまざまな刺激を、交感神経と副交感神経のような相互的にはたらくうまい仕組みを経て制御し、行動として表出させるのが情緒(emotion)なのだろう。情緒は「情(動き)」の「緒(糸口)」であるわけで、いったん英語にあたってみると、なるほどなと思う。

「直感から実践へ」という生き物の生理的な行動、その行動における平衡のとりかた、端緒となる情緒を整えることが肝であり、情緒が整うと人は世界がちがって見えるのだろう。理屈で身構えず、情緒を整える。情緒の整った人は、ともにある人の情緒をも整わせる。

土日に禅僧の話を読んでいる最中もそんな気がした。西田幾多郎も森田正馬も岡潔も、書かれたものを読んでいると似た感銘を受ける。古い日本の知識人は禅の匂いがする。だから読んでいて落ち着くのだろう。

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【久々の快読】

2020年6月15日

【久々の快読】

スティーブ・ジョブズが川瀬巴水(かわせ・はすい)の版画をもとめに何度も来日していたという話をネットで偶然読み、巴水は大好きなので「へぇ〜」とびっくりし、その関連ページで偶然目にとまった本を買ってみたら大変な良書だった。土日で一気に読み上げてしまったが、読み終えて本の世界を立ち去りがたい読後感を久しぶりに味わった。なんだか寂しい。

柳田由紀子
『宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧』
 集英社インターナショナル

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【旅の人】

2020年6月15日

【旅の人】

富山では県外から富山県に移り住んで間もない人を「旅の人」と言い、発音は標準イントネーションでいう「足袋の人」に近い。あの人は旅の人だから、という言い方の意味することが、富山で初めて聞いてもすんなり理解できたのは、土地に未だ根づかない人を旅人ととらえる感性が日本人に普遍的だからだろう。

徳冨蘆花は現在の熊本県水俣市出身の明治人だが、いまは蘆花恒春園となっている世田谷の家に暮らす自分が、村を愛しながらも村人の役割を担えないわがままさを、
「儂は村の人にはなり切れぬ。此は儂の性分である。東京に居ても、田舎に居ても、何処までも旅の人、宿れる人、見物人なのである。」(『みみずのたはこと』)
と書いている。

人は自分を根無草にたとえるけれど、蘆花は「人間にとって根とは何か」を強く意識できる人だったのだろう。「あの人は旅の人だから」と言う富山の人たちもまた「根」を強く意識する県民性であるような気はする。持ち家率日本一の基盤となる家族意識の傾向も、たぶんそれに裏打ちされている。

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