【帰ってきたシクラメン】

2020年6月14日

【帰ってきたシクラメン】

「もらったシクラメンが春なのに花をつけました」
というメールがカメラマンの友人から届いたのが 5 月 3 日だった。

彼の家は南向きのベランダがあるのでシクラメンも元気なのだろうと思い、わが仕事場の日当たりの悪さを逆に利用し、夏場もしっかり水やりして球根化させず、そのまま年越しさせようと世話をしていたら、なんと花を付け出した。

初めての経験なのでびっくりした。

コメント ( 2 ) | Trackback ( )

【□ どうでもいい】

2020年6月13日

【□ どうでもいい】

「□ A」か「□ B」かを問うアンケートの選択肢に「□ どちらともいえない」があるとき、「□ どちらともいえない」にチェックを入れたことがない。「□ A」か「□ B」かを選ぶのはたやすいけれど、「□ どちらともいえない」を選択する理由を述べるためには真面目でなくてはならないからだ。「□ どちらともいえない」理由を説明できる人は真面目な人だ。

「□ A」か「□ B」か「□ どちらともいえない」ではないもう一つの選択肢は記されていない。記されていればそこにチェックを入れたいけれど、そういう選択肢がないアンケートには答えないことにしている。もう一つの選択肢は「□ どうでもいい」なので、答えないことが回答になる。

「□ どうでもいい」は決して無責任などではなく大切な選択肢である。

難しい本の読書会などに参加するとインテリ風の人がいて、「あの人は頭がいい」とよく口にし、相対的に「あの人は頭が悪い」と言外で言い、そのさらに言外で「おれは頭がいい」と言っている。「□ A」か「□ B」かの選択肢が択一の両極にあるとしたら、「□ 頭がいい」と「□ 頭がわるい」はただ相対的な考え方であって、選ばれるべき両極ではない。「□ 好き」か「□ 嫌い」かも相対的であって択一の両極ではない。

あなたは経済学が「□ 好き」ですか「□ 嫌い」ですか、あなたは数学が「□ 好き」ですか「□ 嫌い」ですか、あなたは哲学が「□ 好き」ですか「□ 嫌い」ですか、という問いに必ず答えさせるなら「□ どうでもいい」が必要だ。結論を言えば、世の中に「□ 頭がわるい」人などいない。頭が悪いのではなく、その人はそういうジャンルが「□ どうでもいい」だけである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【こわい】

2020年6月12日

【こわい】

精神科医なだいなだを再読していたら、「こわい」ということについて論じた章のこんな箇所に某線が引かれていた。

苦しんでいる不幸な人間を、みんな努力のたりないなまけものだと、きめてしまう。こうした考えが、この世の中の不幸な人たちを罪のない、ただ運の悪いだけの人たちとして、みんなで助けて平和な世界を作ろうとするのを邪魔するのである。(『心の底をのぞいたら』)

ウィルス感染してしまった人を「努力のたりないなまけもの」と考えてしまう人間のこわさがここにある。「個」の「体」を守ろうとする本能が他人に対してそう働いてしまう。

昭和の時代に「精神疾患はありません、わたしは正常です」というお墨付きが運転免許更新に必要と定められ、獣医と歯科医以外すべての医者を動員して検査をし「不安解消のお札(ふだ)」をもらって提出させる騒ぎ ─ 11 カ月で頓挫したらしい ─ があった。いま PCR 検査や抗体検査済みの「お札(ふだ)」が、いったい何を担保するというのか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【歌男の朝】

2020年6月11日

【歌男の朝】

このところ明け方になると大声で歌いながら交差点を歩いて通り過ぎていく男がいる。男であることは声質で、歩いていることは近づいて遠ざかる速度でわかる。

歌というものはいいもので、歌い手の容姿とか、性格的な持病とか、社会的迷惑をかけていないか、などという理性的判断より先に、歌の「うまいへた」や「すききらい」についてこちらの感性が正直に反応する。

聞こえた瞬間いつも「うまい!」と思う。流暢な英語なので外国人かなと思っていたけれど、今朝はノリのいい日本語だった。アーティキュレーションが巧みなのだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【ひるのムクドリ】

2020年6月11日

【ひるのムクドリ】

入園料を取られる日本庭園内はおとなしい人間が多いので鳥たちも人を恐れない。この季節はムクドリがのんびり芝の上を歩きまわって虫をほじっている。人の足元にまとわりつくように歩くので、芝の上に寝転んでいたら目の前までやって来そうだ。

モーツァルトがムクドリを飼って鳴き声を K.453 ピアノ協奏曲 第 17 番 ト長調第3楽章のテーマのにした話は有名だけれど、あれはホシムクドリでひとまわり小さい。写真を見ると姿もかっこよく、ダークスーツに白い星を散らしてスタイリッシュ、日本のムクドリの野良着姿風とは違う。

ラジオで『ひるのいこい』を聴きながら弁当をつかうのが好きなので野良着姿のムクドリの方が好きだけれど、庭園内の芝に立ち入って一緒に昼食できないのが残念だ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【教養とはなにか】

2020年6月10日

【教養とはなにか】

本を読んでいたら「すべてを忘れ去った後に、まだそこに残されているもの、それが教養だ」という箴言(しんげん)が引かれていて、自分なりの解釈で感心した。自分なりの解釈はたいせつだ。たいせつなのでもっと自分に都合よく言いなおせば、「すべてを忘れ去った後でも、無意識に身について己を離れず尊厳を守り続けてくれるもの、それが教養だ」と言えると思う。

義母が暮らした老人ホームにいた高齢の H さんは 102 歳まで生きて亡くなられたが、母親の介護に通う妻あこがれの女性で、亡くなられたあと彼女のためオルゴール曲を作曲した。お会いした時はすでに認知症の深い人だったが、常に物静かで介護者を困らせることもなく、「ありがとう」「せわでしょう?」「すてきね…」と他人を思いやる言動が終生消えることはなかった。真の教養人だったと思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【名言写真】

2020年6月10日

【名言写真】

何か写真用品を買ったらついていたのだろう。"You don't take a photograph, you make it."「写真は撮るな、創れ。」という写真家アンセル・アダムスの言葉が書かれたカードが引き出しにあった。

絵のように真ん中を四角くくりぬき、インスタント・フォトのフレームのようにして写真を撮れという。

よほどパンフォーカスでないと額縁内の被写体はピンボケになる。28ミリの広角レンズで試してみたが、偉大な写真家のお言葉と重なって、これはこれで奇妙な味わいがある。いろいろな偉人のお言葉入りフレームがあると、いろいろ馬鹿馬鹿しくてよいのではないか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【箱根山】

2020年6月10日

【箱根山】

芹沢銈介の装幀はみんな好きだけれど、獅子文六『箱根山』がいちばん好きだ。図録で眺めるだけでは我慢できなくて、昭和三十七年の初版を古書店に注文したのが届いた。



『箱根山』以外にも「いいな」と思った本があるのだけれど思い出せない。高度成長期の大衆的ユーモアにおいて芹沢の造本は意匠に嫌味がない。小林真里『芹沢銈介・装幀の仕事』里山出版をめくってみたけれど見つからない。『季刊清水』の編集会議帰省が再開したら芹沢銈介美術館に寄り道して確かめようと思っている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【はけ道】

2020年6月9日

【はけ道】

台地の崖に沿った線を「はけ」と言い、柳田國男はアイヌ語で「端」を意味する「パケ」が語源だと言っている。「はけ」に沿って「はけ下の道」と「はけ上の道」と、その上下をつなぐ坂道がある。

根津の出版社で打ち合わせがあり、バスに乗るのを避けるため上富士交差点から富士神社前、駒込病院脇、ファーブル昆虫館前、高村光太郎旧居脇、旧安田楠雄邸前、森鷗外記念館脇と「はけ上の道」を辿り、藪下の道を経て「はけ下の道」から根津神社境内を突っ切って根津駅前へ。

昔の人が踏み分けた「はけ道」は真っ直ぐで迷いがない。山の民が情報と物資をもって日本列島を縦走した尾根道のようだ。上富士交差点からほぼ真っ直ぐに突き進むと根津駅前まで徒歩で 30 分かからない。約束の 11 時前に到着し、麦わら帽子を取り、汗を拭きながら「歩いてきました」と言ったら、3 歳年下で脳卒中リハビリ中の社長が「歩けて、うらやましい!」と笑っていた。

森鷗外記念館脇にて

打ち合わせを終え、根津駅前の赤札堂で買い物をし、交差点に出たら早稲田行きの都営バスが停車しており、麦わら帽子を振りながら走ったら待っていてくれた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【ヒステリー考】

2020年6月9日

【ヒステリー考】

葛藤とは葛(かずら)や藤(ふじ)の蔓が絡み合うことから来た言葉で、心の中に相入れない動機や欲求や感情などがあって絡み合い、そのいずれをとるかでにっちもさっちも行かなくなったこころの状態をいう。かつては女性ばかりがそういう立場に置かれ、現代では男性にも多いだろう。

そういう状態をなんとかしようとすることで追い詰められた人間に起こる現象は痛ましい。そういうことを病気だと言ってはいけないというありきたりな倫理観もあるし、あえて病気であるというお墨付きのレッテルを貼ってもらえることで、とりあえず社会的に救われることもある。追い詰められた末にある止むに止まれぬ救われ方である。

そういう「ヒステリー」や「狐憑き」の話をしみじみと読んで興味深く、ふとオーディオに夢中になった学生時代になじんだヒステリシス・シンクロナス・モーターのことを思い出した。

ヒステリーは Hysterie 、ヒステリシスは Hysteresis と綴るので、たぶん語源的に関連が深いだろう。きっと仕組みの捉え方でも通底している。〝いま〟の中には〝過去〟の蓄積があって、外見が元気で明るそうに見える人の、こころもまた元気で明るいとは限らない。元気さや明るさは常に影で上げ底されている。

ヒステリシスというのは履歴が現象に及ぼす効果をいい、押したり引いたりされた、ものやこころに加えられたチカラの履歴を常に考慮しつづけてあげないと、いま必要とされているチカラは計れないということだ。大まかにいえば。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【芝刈り】

2020年6月8日

【芝刈り】

緊急事態宣言による自粛解除気分で、先週末は近所の床屋に伸びていた髪を切ってもらいに行った。

六義園内も閉園中は似たような状態だったのか、今日は園内の芝刈りが行われていた。気持ちよく刈られた芝が熊手でかき集められ、草の匂いが懐かしい。

幼い頃は芝を刈る祖母について歩き、やはり同じように草の匂いがした。芝刈りをする祖母について歩くのは孫だけではなく、飼い猫の「みい」も尻尾をくねらせてついて歩き、芝刈りの鎌に驚いて飛び出してくる虫やカエルを捕らえておもちゃにしていた。親の野ネズミが逃げたあとの巣にいた子ネズミたちを、「みい」がムシャムシャといっぴき残らずたべてしまう残酷なシーンを見て驚き、母に言ったら、
「お母さんはそんなもんじゃない。ヨタヨタ出てきたもぐらを見つけて、持っていたクワをこいつめ!と言いながら振り下ろして首をちょん切るのを見た。おばあちゃんも残酷だよ」
と笑っていた。

さすがに都市庭園なので芝を刈っても何も飛び出してこない。ただ初夏の匂いがするだけだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【百合】

2020年6月8日

【百合】

染井の花屋で買ったひと枝の百合が次々に咲きかわるのを家人が嬉しそうに世話していた。切られて水に投げ入れられても生命のドラマを演じ切るその強さに驚嘆した。化けて出るかのようにつぎつぎ咲いてくる艶なる妖異。徳冨蘆花が『百合』と題してこう書いている。

一日又一日、今日の莟(つぼみ)は明朝の花となり、今日の残花は昨日に開き、開き盛り衰へ朽ちて花の坐は次第に梢頭に上り行きぬ。見よや六千年世界の変遷は、実に此一枝の百合の盛衰にあらはれたるを。(徳冨蘆花)

胎児が受胎三十日過ぎからの一週間で、一億年を費やした脊椎動物の上陸誌を走馬灯のようにに再演するという、解剖学者三木成夫の書いたものを思い出した。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【銅像石像】

2020年6月7日

【銅像石像】

郷土誌『季刊清水』がらみで木下直之『銅像時代 もうひとつの日本彫刻史』岩波書店を読んでいる。序章に永井荷風が銅像に言及した言葉の抜き書きがあり、「礫川」(=小石川界隈)の二文字でわが生活圏あたりに言及したものと思われる作品と目星をつけ、Kindle 版が無料なのでダウンロードし、ちょっと横道にそれて読んでみた。
その中で永井家に仕えた村瀬しんについてこんなふうに書かれている。

享年六十余歳。流行感冒に罹(かか)りて歿(ぼっ)せしといふ。しん逝きて後ここに幾年、わが家再びこれに代るべき良婢(りょうひ)を得ざりき。しんは武州南葛飾郡新宿の農家に生れ固(もと)より文字を知るものにもあらざりしかど、女の身の守るべき道と為すべき事には一として闕(か)くところはあらざりき。良人(おっと)にわかれて後永く寡(か)を守り、姑を養ひ、児を育て、誠実の心を以てよく人の恩義に報いたり。われ大正当今の世における新しき婦人の為す所を見て翻(ひるがえ)つてわが老婢しんの生涯を思へば、おのづから畏敬の念を禁じ得ざるも豈(あに)偶然ならんや。(Kafu Nagai. Rekisen shoyoki . Kindle 版.)

荷風は白山あたりから散歩して、現在の東京都文京区小日向1丁目辺りまできたところで、日輪寺にあるしんの墓に参る。

やがて寺のしもべ来りて兆域(ちょういき)に案内す。兆域は本堂のうしろなる丘阜(きゅうふ)にあり。石磴(せきとう)を登らむとする時その麓なる井のほとりに老婆の石像あるを見、これは何かと僕(しもべ)に問へば咳嗽(せき)のばばさまとて、せきを病むもの願を掛け病癒(いゆ)れば甘酒を供ふるなりといへり。この日も硝子罎(がらすびん)の甘酒四、五十本ほども並べられしを見たり。霊験(れいげん)のほど思ひ知るべし。(Kafu Nagai. Rekisen shoyoki . Kindle 版.)

木下氏は荷風の「醜陋(しゅうろう)なる官吏の銅像」という言葉を引いているが返す刀で石像について「霊験(れいげん)のほど思ひ知るべし」と書いているのが微笑ましい。「この「咳嗽(せき)のばばさま」の石像は現存するのだろうかと日輪寺に関するガイドを読んでみたけれど、荷風に関した言及はない。ただ「甘酒地蔵尊」があると書かれているのがそれではないかと思う。今度甘酒を持って行ってみよう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【タクちゃんとガジュ子】

2020年6月7日

【タクちゃんとガジュ子】

昨夕ぶらっと買い物に出て、夕立が来る直前に運よく帰宅した。
坂下の交差点にある花屋に観葉向きの鉢が並び、前から欲しかったテーブルヤシとガジュマルの小さな鉢植えをおみやげに買ってきた。ふたつで 2,480 円。わが家では貰い物や拾い物や転用ものの小さな植物が大きく育つ。「意外にまめですね」と言われるおかげかもしれない。

テーブルヤシは本当にテーブルに置きたいほどの小ささ、ガジュマルもキジムナーが子指の先ていどでないと気根の下に住めないほどの小ささである。小さいのを大きく育てるのが好きだ。というわけでわが家の一員となって初めての朝を迎え、今朝はベランダに出して水やりをした。植物にまで名前をつけたがる妻によれば「タクちゃんとガジュ子」だそうだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【黄昏と箱根山】

2020年6月7日

【黄昏と箱根山】

蘆花の書いた黄昏の二文字に「こうかん」とルビがあり、辞書を引くと「こうこん」はあっても「こうかん」という読みはない。原本にそうルビがふられているのだろうか。電子化のとき「クワウクワン」と「クワウクヲン」を間違っていないかな。iOS では「たそがれ」と打たないと変換されないので「こうこん」を辞書登録した。

時に夕陽(せきよう)函嶺(かんれい)に落ち、一鴉(いちあ)空(くう)を度(わた)り、群山(ぐんざん)蒼々(そうそう)として暮れむとす。寺内(じない)、人なく、唯(ただ)梅花(ばいか)両三珠(りょうさんしゅ)雪の如く黄昏(こうこん)に立てり。――徳冨蘆花
※両三珠(?)は「二三本(株?)」と解すればよいのではないかと思う。

「じしょとうろく」と打つと「地所登録」が候補に出る。地所登録といえば、いま読んでいる本で蘆花が函嶺(かんれい)を旅している。子どもの頃、堤(西武)と五島(東急)の箱根戦争を描いた映画を見た。たしか若い勝呂誉と大空真弓が共演していたように思う。「箱根の山は喧嘩のケン」という替え歌が印象深い。原作の獅子文六『箱根山』を読みたいと思ったことはないけれど、郷里の静岡市立芹沢銈介美術館に展示されていた芹沢の装幀による『箱根山』は美しい。レプリカでいいからあれは欲しい…と書いて検索したら、オリンピック景気に沸いた 1962 年の箱付きが安く出ていたので注文した。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« 前ページ 次ページ »