◉二月のアポリア

2019年2月12日(火)
◉二月のアポリア

二月は一年のしんがりで、背後の敵を「攻めながら撤退する」難しい役目を担っている月である。しんがりはおもしろい言葉で後駆すなわち「しりがり」が音変化したものだ。

王が暦(こよみ)を告げるとき、うるうの月だけ正室の門内にいるので門+王で閏(うるう)の文字ができている。「365 日、あまり 5 時間なんたら」のあまりを四年に一度清算するため、暦もまた攻めると見せながら撤退する。

家庭の事情で借金をつくってしまった友人がいて、その家族もまた借金によって攻めながらの撤退を余儀なくされている。攻め勝たなくては撤退が終えられない。道で会うと振り向いてこちらに手を振りながら遠ざかり、その顔は笑いながら泣いているように見える。

二月後半に仕事の締め切りが集中していて大変だと編集者に言ったら
「年度末だからねえ、おまけに短いし」
としみじみ言う。忙しいのはありがたいことだと、笑いながら悲鳴をあげるしんがりの二月である。

(2019/02/12)

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◉ただいま録音中

2019年2月11日(月)
◉ただいま録音中

三連休の二日間は頑張って仕事をしたので三日目に少し余裕ができた。できた余裕を家族に還元することにし、妻の手回しカード式オルゴール録音をしている。

時折血液センターの救急車がサイレンを鳴らしながらやってきて、交番から警官が出て交差点の交通整理をしている。その間はサイレンと警官が吹く笛の音が入るので録音を停めている。

救急車が遠ざかり、警官が交番に引っ込んだはずなのに、いつまでたっても笛の音が聞こえている。気合の入らない笛なので警官が遊んでいるのだろうかと思ったら、六義園内で鳥たちが鳴き交わしているのだった。

ときおり鳥の声が混じる、素人の手づくり的な音楽 CD 制作中である。

(2019/02/11)

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◉古書店移転

2019年2月11日(月)
◉古書店移転

向丘、千駄木、本駒込と移り住んで文京暮らしも四十年近い。あみだくじ方式で散歩するのが好きなので、次々に引き口を移し、ほぼ全ての路地を網目のように見知っている。

大観音通りからあみだくじ近道で保健所通りに入り、道灌山下を目指して歩いていたら、後ろから追い越していく黒塗りのタクシーが不意に右の路地に折れた。営業車の抜け道になっているのかなと、つられるように右折してみたら、なんと初めて通る道だった。銀杏の古木と路地遊びの子どもらを左に見ながら、急な坂道を下ったら不忍通りに出て、そうか、この場所に出る坂道だったのかと新鮮な感慨がある。

不忍通りに出たので道灌山下のサミットストア目指して歩いたら『古書ほうろう』が閉店セールをしていた。古書がさらに安い。家賃値上げに耐えかねて上野池之端に移転するという。

(2019/02/11)

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◉いだてん

2019年2月10日(日)
◉いだてん

大観音通りから不忍通りに折れても「金栗四三青春の地文京区」のペナントが街路灯にぶら下がっているので、区をあげてNHK大河ドラマ「いだてん」に波乗りしているのだろう。

金栗四三はわが夫婦出身大学の先輩であり、その「青春の地文京区」で生涯暮らすことになりそうなので、見上げるたびにちょっと照れ臭い。先輩の奮闘ぶりを見ないわけにもいかないだろう、というノリで毎回見ている。

(2019/02/10)

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◉かにかくに

2019年2月10日(日)
◉かにかくに

あれこれ考え事をしながら昼休みの散歩に出て、白山上から大観音通りへ折れたら、向丘二丁目の浄土宗栄松院門前に西田幾多郎のうたが掲げられていた。

かにかくに思ひし事の跡絶えてただ春の曰ぞ親しまれける 西田幾多郎

よいものを選ばれたなあと感心したので境内に入ってみたらちゃんと春があった。

(2019/02/10)

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◉牛乳のおいしさ

2019年2月10日(日)
◉牛乳のおいしさ

朝食を食べながらテレビを見ていたら八ヶ岳山麓の畜産農家が映ったので、
「この茶色いジャージー種の牛乳はおいしいんだ」
と言ったら、朝っぱらから夫を質問攻めにする妻が
「どうおいしいの」
と説明しにくいことを聞く。

めんどくさいので
「茶色い牛はコーヒー牛乳を出すんだ」
と答えておいた。

(2019/02/10)

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◉ふたりの「みちこ」のこと

2019年2月10日(日)
◉ふたりの「みちこ」のこと

太宰治が井伏鱒二の仲人で甲府の女性と結婚したのは昭和 14 年で、妻になった石原家の娘は「みちこ」という名だった。「いしはらみちこ」はわが母と同じ名だが、太宰の妻は石原美知子で、わが母は石原通子(のちに改名)だった。

昭和 20 年、空襲で三鷹を焼け出された太宰夫婦は二人の子どもを連れて妻の実家がある甲府に疎開し、7 月 6 日深夜から 7 日にかけて行われた甲府空襲で再び焼け出されている。その様子は短編『薄明(はくめい)』に詳しい。

昭和 20 年 7 月 6 日、マリアナ基地より発進した B29 編隊が 23 時 30 分ごろ御前崎あたりから本土上空に侵入し、半数が甲府空爆、残り 50 機が 7 日零時半より清水を空爆した。清水空襲を体験したわが母は、高橋町にあった家から焼夷弾に焼かれないよう布団をかぶって飯田の田んぼに逃げたと言っていたが、太宰一家もその夜やはり布団をかぶって田んぼへと走っていた。甲府と清水を焼き尽くした B29 による「たなばた空襲」を、二人の「みちこ」が山を挟んで体験していた。

(2019/02/10)

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◉沖と冲

2019年2月9日(土)
◉沖と冲

「恥ずかしながら初めて見た時は若冲をじゃくちゅうって読めなかった」
と正直に言ったら
「わたしはじゃくちゅうと耳から覚えたから読めた」
と妻が答え
「さんずいの字のほうでしょう」
と言う。相打ちである。冲は沖の簡体字であり、沖には衝突したり相殺するという意味もある。

若冲の描いた軍鶏はたいへん立派だが、喧嘩鶏として強いだろうか、よく敵を蹴るだろうかという話になった。私は蹴らないだろうと云い、友人はよく蹴るだろうと云った。私も友人も闘鶏を見た経験がなかったので、お互に根拠があって云ったわけではない。その論争は水かけ論になった。(井伏鱒二『軍鶏』)

(2019/02/09)

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◉路上の補助線

2019年2月9日(土)
◉路上の補助線

本郷通りの歩道改修工事が進んでいる。街路樹の植樹升(しょくじゅます)が組みあがり、舗石を敷き詰める工事前の、仮舗装した路面に補助線が引かれている。

この補助線が道に対して水平垂直でなく斜めに引かれている理由がわからない。わからないので非常に高度な幾何学的下準備であるように見える。

見えるだけでなく、実際歩道にみっちり隙間なく舗石を敷き詰めることは、ひどく高度な作業なのかもしれない。補助線を見ただけですっかり感心してしまった。

(2019/02/09)

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◉恋は神代の昔から

2019年2月8日(金)
◉恋は神代の昔から

明日は東京地方でも積雪が予想されるという。午後からちょっと散歩を兼ねて買い物に出た。信号待ちをしながら六義園染井門前で空を見上げると、確かに雪の気配を感じる空模様に見える。

運動のためわざわざ遠回りして買い物を済ませ、いつも通り駒込東公園内を抜けて帰るさい、今日の空気感がそうさせるのか、園内に植えられた桜の幹が薄あおみどり色した地衣類に覆われているのがとても気になる。

樹木に害はないし、緑青をふいたように神々しいと喜ぶ人もいるし、地衣類が生育しやすいくらい良い環境である証であるともいう。そういうものかなあと思いながらたくさん写真を撮り、仕事場に戻ったら埼玉の老人ホームから草加煎餅とともに「畠山みどりショー」のフライヤー依頼原稿が届いていた。
「♪む〜かしのひとは〜いいました〜、こいは〜するほど〜つやが〜でる〜」
と歌っていたら妻が
「よく覚えてるな〜」
と笑っていた。畠山みどりももう 79 歳である。

(2019/02/08)

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◉噺家の記憶

2019年2月8日(金)
◉噺家の記憶

田端文士村記念館の企画展を見ていたら 4 代目桂三木助に関する展示があり、長いこと混線したままだった記憶の間違いが解(ほど)けた。

2001 年に田端出身の噺家が突然亡くなり、ニュースを見て「そうか彼は田端出身だったのか」と驚き、それが 3 代目 古今亭志ん朝だと間違って記憶していた。

田端から本駒込に向かう道沿いの蝋梅(ろうばい)

志ん朝はとなりの本駒込出身で 10 月に他界し、田端出身は 1 月に亡くなった 4 代目桂三木助だった。同じ年に同じ地域出身の噺家が亡くなっていたわけだ。

(2019/02/08)

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◉のらくろ散歩

2019年2月8日(金)
◉のらくろ散歩

田端文士村記念館企画展の展示替えが近いので昼休みの散歩がてら見に行った。

田河水泡と小林秀雄が一緒に写った写真があって、説明を読んだら小林秀雄は義兄だった。田河水泡は小林秀雄の妹と結婚したのだと妻に言ったら、どっちが年上だと言う。

なるほど、面白いことを聞いてくるものだと感心したので調べたら、田河水泡は 1899 年、小林秀雄は 1902 年生まれなので「たしかに」義兄の方が年下だった。

ポプラ倶楽部のあったポプラ坂

幼い芥川比呂志がたどたどしい字で書いた作文が展示されているので読んだら、おとうさん(龍之介)がいちばん好きな「おくわし」はチヨコレートだと書かれていた。弟の多加志は学徒動員で戦死するが東京外語の仏語なので小林秀雄の後輩になる。

(2019/02/08)

→◉驢馬

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【清水市公会堂のレリーフ】

【清水市公会堂のレリーフ】

かつて清水市相生町にあった清水市公会堂は、静岡県貿易館との合同建築だった。

客席数 416 席でオーケストラボックスも備えていた。1951(昭和 26 )年竣工で、総工費は4,455 万円。壁面に巨大なレリーフが埋め込まれていたがあれは誰の作品だったのだろうとふと思う。

年末年始の片付けで高校時代に撮影したモノクロネガフィルムをスキャンしたら、隅にサインがあるのに初めて気づいた。

なんと作者は彫刻家の堤達男で、西伊豆出身の彼は梅蔭寺の「清水次郎長像」、駿府公園内の「徳川家康公之像」も製作している。ああそうだったのかとやっとわかって嬉しい。

(2019/02/07)

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◉興津と福山

2019年2月7日
◉興津と福山


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井伏鱒二を読んでいたら彼は福山誠之館中学の卒業だという。

誠之は「誠者天之道也、誠之者人之道也」(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)という『中庸』の一節からとられている。そして近所にある文京区立誠之小学校は「誠之人道」を校是としている。それは福山藩校の誠之館と共通であり、なぜなら誠之小学校は備後福山藩丸山中屋敷を譲り受けて開校されたからだ。

昨年、雑誌『季刊清水』の調べ物で清水区興津に興津氏の居館跡を訪ねた際、最後の福山藩主阿部正桓(まさたけ)の別荘跡を見つけて驚いた。正桓は文京区に住んでいたが興津に別荘があったことは知らなかった。

【1899年築の寄棟書院造室内】

【1922年増築部分】

【矢印の山上に阿部邸はある】

東海道の要衝興津で、陸と海の道に睨みをきかせていた興津氏の居館前の高台に阿部氏の別荘跡はあった。どんな思いで興津の風景を眺めたのだろうか。絶景の地に建つ歴史遺産なので朽ち果てるにまかせるのは惜しいことである。

(2019/02/07)

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◉クロップ係数

2019年2月6日(水)
◉クロップ係数

フィルムを使うカメラの時代に生まれ、最も一般的な 35 ミリフィルムを使いなれたので、広角・標準・望遠というレンズの画角は 、28ミリは広角、50ミリは標準、135 ミリは望遠というように、35 ミリ判フィルム用レンズの焦点距離数値で把握している。

デジタルカメラの撮像素子が 35 ミリ判フィルムより小さい場合は、同じ画角の広角・標準・望遠レンズでも焦点距離が短くなる。そういうカメラ用のレンズが 35 ミリフィルム用レンズでは何ミリにあたるかを知るためには、それぞれの撮像素子に応じた数値を掛けて計算しなくてはならない。

オリンパスとパナソニックのフォーサーズ規格では、25 ミリレンズは 50 ミリというように 2 倍すればいいのだけれど、PENTAX の Q マウントでは 5.58 倍か 4.55 倍、Nikon 1 マウントでは 2.73 倍、SONY NEX マウントでは 1.53 倍と、掛けて換算するための数値が違っている。

それぞれの撮像素子サイズによって違うその数値を「クロップ係数」というらしい。調べたのでこうして日記に書いてメモしておく。そういうややこしい計算をして、換算した数値を知りたい小さなカメラ好きにしか役に立たないメモである。

(2019/02/06)

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