▼言うまいと思えど今日の…

 今日の最高気温は何度あったのだろうか。

 六義園内では明け方ヒグラシが鳴く以外、日中はまだほとんど蝉の声を聞かない。園内をたくさんのムクドリが走り回っており、時折大きな虫のようなものを捕まえて丸呑みしているので、望遠レンズで撮影してみたら地上に出てくる蝉を待ちかまえていたのだった。すごい写真がとれたけれど気味が悪いので二度見る気がしない。




7月16日、青山通りにて。



 赤坂の出版社で打ち合わせがあるので、地下鉄半蔵門線で青山一丁目まで行き、地上に出たら青山通り沿いではもうアブラゼミが鳴いていた。高橋是清翁記念公園では物言えぬ鳩が「暑いぞ!」と言いたげににこちらを睨んで、お腹をぺったり地面につけ身体を冷やしていた。




7月16日、高橋是清翁記念公園のハト。



 地下鉄南北線で駒込まで戻り、次の出版社での打ち合わせに向かう途中、六義公園運動場から子どもたちの叫び声が聞こえるので、のぞいたら少年野球の練習中だった。子どもたちは暑さをものともせず元気だ。




7月16日、六義公園運動場にて。



 「言うまいと思えど今日の暑さかな」という句は作者不詳だそうだけれど、昔は「言うまい」と思ったら堪えられたはずなのに、最近は汗をぬぐいながら思わず
「暑いっ!」
と声が出てしまい、それほど暑さが厳しくなったのか、年をとってこらえ性がなくなったのか良くわからない。

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▼1983年の夏

 


 朝日新聞がおまけにくれる小冊子に茂木健一郎が連載原稿を書いている。
 イングリッシュ・ブレックファーストが好きだというフランス人の友だちに「フランス式の朝食に比べるとイギリス風の朝食はごたごたしてエレガントさに欠けるんじゃないかなぁ」と言い、コーヒーとパンだけの組み合わせだと思っていたコンチネンタル・ブレックファーストがフランスではカフェオレとクロワッサンの組み合わせであり、その「何も付け加える必要がない。不変のコンビネーション。」が一つの宇宙に思えるのだという。
 そうかなぁと首をかしげるのは、フランスのコンチネンタル・ブレックファーストはフルーツ、ヨーグルト、ミルク、チーズ、生ハム、サラミなどのコールド・ミールにパン、そしてジュース、コーヒー、紅茶などが組み合わさって「ごたごたしてエレガントさに欠ける」ものだった記憶しかないからだ。




7月13日、六義園内にて。



 カフェオレとクロワッサンだけの朝食がエレガントだというなら、司馬遼太郎のエッセイに出てきたジャムパンと牛乳を交互に口に運びながら世の中にこんなにうまいものはないと言わんばかりにパクつく先輩記者の食事も極めてエレガントだと思うがどうだろう。ジャムパンと牛乳がエレガントでないなら、フランスのコンチネンタル・ブレックファーストがエレガントなのではなく、カフェオレとクロワッサンの組み合わせをハイカラに感じて好きだと脳が言いたがっているだけかもしれない。




水に届くまで枝をたれるハゼノキ。7月13日、六義園内にて。



 カフェオレとクロワッサンや、ジャムパンと牛乳のような簡素で飾り気のない朝食がエレガントとは思わないけれど、質素な組み合わせが美味しく嬉しかった記憶が僕にもあり、それは富山の山奥で泊まった合掌造り民宿の朝食だった。
 山盛りのキュウリ漬けとお櫃いっぱいのご飯を、縁側を開け放した和室に座って、蝉の声を聞きながら黙々と食べたのだけれど、その美味しさがいまだに忘れられずにいる。
 あれは何年前の夏だったろうと思い出すに、朝のNHKニュースでSONYがカセットケースサイズのウォークマンを発表したという話題を報じており、どうしてカセットケースサイズにまで小さくできたのだろうと、キュウリ漬けとご飯を頬張りながら首をかしげた記憶がある。調べてみるとカセットケースサイズのウォークマンはWM-20という型番なので、それは1983年の夏だったということになる。

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▼自画像

 

 小学生時代、図工の時間が大好きだったのは、図工の時間には自由というものがあったからだ。
「今日は自由に絵を描いてみましょう」
と言われると嬉しかったが、たとえテーマが決められ画材が制限されても嬉しさが損なわれなかったのは、そこにはまだ自由があると思えたからで、図工には正解がないと言えば無いし、あると言えば無数にあることに気づいていたのだと思う。
 小学校卒業の日が近づき、最後の図工の授業で
「六年間で一番嬉しかったことを描いてみましょう」
というテーマが出されたので、迷わず自画像を描いた。馬づらだと笑われる自分の容姿が好きではなかったし、顔を似せて描くのも苦手だったので、いきなり自画像を描けなどと言われたら嫌で仕方なかったはずなのに、一番嬉しかった思い出を表現するなら嬉しがっている自分を描くしかないし、嬉しがっている自分を描くなら似ている必要なんてないとなぜか思えたので、自由からの卒業という挑戦もあって、すすんで苦手な自画像を選んだのかもしれない。




7月13日、六義園内にて。



 自分の顔に正対するように画用紙いっぱいに自分の顔を描き、顔の前に右手を持って行って鷲づかみにしている牛乳瓶を描く。顔の前に手があるので手は画面の顔より飛び出していないといけないし、その手の前にさらに牛乳瓶の底側が突出している。突出した牛乳瓶は透明で向こう側が見えながら中の牛乳によって不透明でもあり、その状態で一番手前に飛び出していなくてはならない。そういう重層する立体表現に四苦八苦しながら何度も絵の具を塗り重ねて「牛乳を飲む自画像」を描いた。小学校六年間の思い出で一番嬉しかった日は、給食の脱脂粉乳が廃止されて瓶入り牛乳になった日だったのだ。
 いつもの給食の時間になり、給食当番がガラスビンのぶつかる音を立てながら、箱に入った瓶入り牛乳を持って教室に入ってきたら、教室内から期せずして歓声が上がった。脱脂粉乳はまずいけれど、給食費が払えない友だちもいるのだから、おいしいと思って飲まなくてはいけないと教えられた。確かにその通りであって、世の中にはまずいのにおいしい、おいしいのにまずい物があることを、教えてくれたのが脱脂粉乳だった。そういう我慢食からの解放が宣言されたのが牛乳給食開始の日だったのであり、もう戦後ではないと言われた昭和三十年代も終わろうとしていた。
 おいしいけれど同時にまずい食べ物がこの世にはあり、似ていないのに同時に似ている不思議な自画像があることを学び、小学校六年の締めくくりに描いた自画像は賞をもらって卒業の日まで校内に飾られたが、その後どうなったかはわからない。




食べ物が欲しくてそばに寄ってきた鳩。7月13日、六義園内にて。



 絵を描くという自由が楽しかったとあの頃を振り返ると、国語、算数、理科、社会…どの教科にも図工ほどではないにしろ、わずかではあっても許された自由があったはずだと今になって思う。大人になってから、子どもの頃もっとまじめに勉強しておけばよかったな、と苦笑いしつつ振り返る初歩の初歩の勉強には、辛いけれど同時に楽しめたかもしれない不思議な自由が三等星くらいの明るさで瞬いている。たとえ正解はたったひとつであっても、正解に近づいたけれど正解に届かなかった正解の卵は無数にあり、正解になれたかもしれない無数の卵を産み出す気力の方が大切であることに、疲れた大人になってやっと気づくからだ。それぞれの科目にある自由とは何かということに気づいて、自由という卵の大切さが尊重されていたら、図工以外の通信簿の評価ももっと良かったのかもしれないな、と今でもいじましく思う。


全国コミュニティライフサポートセンター(CLC)発行
『Juntos(ふんとす)』に連載中の
「打てば響くか」第6回用に書いた原稿より。
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ManReco『ラジオ体操組曲2009』

 


ManReco『ラジオ体操組曲2009』

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ManReco『TJの回文的かつ逆行可能なカノン』4

 

ManReco『TJの回文的かつ逆行可能なカノン』4 2009年7月10日収録

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ManReco『TJの回文的かつ逆行可能なカノン』3

 


ManReco『TJの回文的かつ逆行可能なカノン』3 2009年7月10日収録

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▼一富士二鷹三茄子

 


 初夢に見て縁起のよいものをあげたとされる「一富士(いちふじ)二鷹(にたか)三茄子(さんなすび)」という言葉がある。
 昔読んだ本で、駿府に隠居するという家康が、引き止めようとした者に
「富士山は見えるし、鷹狩りはできるし、茄子がうまい駿河の国ほど良いところはない」
と言ったという話を読み、うまい茄子の産地が郷里静岡県清水の駒越だったと聞いて、悪い気がしなくて、それいらい一富士二鷹三茄子にかこつけて故郷自慢に持ち出したりする。江戸時代から油紙張り温室による茄子の促成栽培をして高値で売っていたらしく、同じく駒越名物の枝豆「駒豆ちゃん」と発想が良く似ている。




左から上富士バス停、神明町、動坂下。



 現在住んでいる文京区本駒込に駒込富士神社があり、江戸庶民の信仰を集めた都内有数の富士塚が現存することで名高い。その境内に、本駒込が一富士二鷹三茄子発祥の地だという解説板があり、富士は駒込のお富士さま、鷹は富士神社近くの鷹匠屋敷、茄子は当時名産だった駒込茄子のことだという。生まれ故郷静岡のお株をとられたわけだけれど、駒込もまた永年暮らして愛着のある土地なので、悪い気がしなくて、一富士二鷹三茄子にかこつけて我が町自慢に持ち出したりする。
 そもそも土地柄自慢に一富士二鷹三茄子を持ち出すのが間違いのような気もして、一富士(いちふじ)、二鷹(にたか)、三茄子(さんなすび)に続いてさらに、四扇(しおうぎ)、五煙草(ごたばこ)、六座頭(ろくざとう)と続け、富士と扇は末広がりの子孫繁栄商売繁盛、鷹と煙草の煙は空にのぼるので運気上昇、茄子と座頭は毛がないから怪我がないと、目出度いものを言い立てた言葉遊びというのが、いかにも初夢に相応しい正解のような気がする。




浅草寺境内にて。



 仕事で上富士前バス停からバスに乗って出かけようとしたらバスに乗り遅れ、健康のため不忍通りを根津まで歩いたら、動坂下の商店街に一富士二鷹三茄子の発祥の地が動坂であると書かれた旗飾りがたなびいていてびっくりした。一富士二鷹三茄子を土地柄自慢になど持ち出すものじゃない、などと思いつつ思わずムッとしている自分が可笑しい。

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▼ほおずき市の頃

 入谷の朝顔市で買った鉢植えを手みやげにして静岡県清水の実家に帰ると、清水の商店街は七夕祭りで賑わっており、故郷の七夕祭りを楽しんで帰京すると、浅草浅草寺では恒例のほおずき市が開催されていた。そんな風に四季折々の行事を歯車の一つひとつとして組み込みながら、世界という時計は365日かけて一周している。

 




浅草寺境内にて。



 7月10日に参詣すれば四万六千日間詣ったと同等の功徳があるといわれる「四万六千日(しまんろくせんにち)」の行事は江戸時代享保年間から盛んになり、浅草寺境内にはたくさんの露店が並んで「ほおずき市」が開催される。



浅草寺境内に並んだほおずきの露店。



 7月8日、新潟の友だちがマンドリンの練習のため上京したので、年寄りの夕食を用意したあと、浅草にドジョウを食べに出た。朝顔、七夕、ほおずき市の頃は、なぜか雨傘を持って下町にドジョウを食べに行きたくなる。



浅草寺境内に並んだほおずきの露店。



 思い出話をしながら浅草寺境内を歩くと、四季折々の行事を歯車の一つひとつとして組み込んだ世界時計の上を歩いているような気分になり、その時計のほおずき市の季節には、下町に降る雨とドジョウと山盛りの白ネギも、都合よく一緒に組み込まれているのかもしれないと思う。

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【アヒルがいた夕暮れ】

【アヒルがいた夕暮れ】
 

 Macintoshでいうとデスクトップ・ピクチャ、Windowsでいう壁紙に写真を表示させるということを今までほとんどやったことがない。単なる色面にするか抽象図形を表示させておくくらいで、風景写真を表示させたいと思ったことがなかったからだ。
 Windows 7 をインストールして使い始めたら、壁紙ではなく「デスクトップの背景」という表記になっており、そのために用意されている画像がとても美しいので感動した。とくに山梨県側から写した富士山の写真がとても美しくて、画面右端の黄昏の中あたりに、生まれ故郷静岡県清水があると思うとしみじみとした気分になり、パソコンに向かうのが心地よいので、MacintoshもWindowsも同じ写真を表示させていた。



Windows 7 付属のデスクトップ・ピクチャ。

 静岡県清水が好きで、富士山も大好きだという新潟の友だちに紹介したら、やっぱり富士山を表示させるなら、さった峠から駿河湾越しに眺める富士山が一番好きだという。 パソコンのデスクトップに常時表示させて人の心を癒す風景というものは、人の数だけ好みも違うわけで、他人のパソコンのデスクトップを見せてもらうと、意外な人柄に接したようであらためて感動することがある。
 それでは、出来合いではなくて自分のパソコンのデスクトップにいつも表示させておくと、心が慰められ、時折眺めては初心に返るような、自分にとって清々しい風景ってなんだろうと、自分が写した写真の中からそれを探してデスクトップ・ピクチャにしてみた。
 Windows 7 のそれを調べてみたら96dpi で 1920 × 1200 ピクセルの画像なのでそのサイズに切り出して表示させてみたが、今までこんなに大きなサイズで自分の写した写真を眺めたことがないので、他人が写した写真のような新鮮さがある。



Macintoshで表示させたマイ・デスクトップ・ピクチャ。

 何年前からか、時折港橋界隈を歩いていると、巴川に白いアヒルがいるのを目にし、誰かが飼っているのだろうか、それとも捨てられて勝手に住み着いたのだろうかと不思議に思っていたが、ここしばらく見たことがなかったので、死んでしまったかどこかへ立ち去ってしまったのだろうと思っていた。
 デスクトップに写真を飾ることの楽しさは、大延ばしして毎日毎日繰り返し眺めることによって次第に細部に目が行くようになり、思いがけない発見をすることだと思う。2009年5月30日、解体することになった実家の鍵を業者に引き渡して、これで帰る実家がなくなったと港橋からしみじみ眺めた巴川夕景の中に、なんと白いアヒルが映っていることに今になって気づいた。



巴川方向へ歩く白いアヒル。

 画面右端、山本釣船店前あたりの桟橋を歩いて巴川方向に向かうアヒルが映っており、どうもこのあたりで飼われているのか、勝手にねぐらにしているらしいとわかって嬉しくなった。午前8時過ぎに仕事場に来てパソコンの電源を入れ、表示される巴川にアヒルの姿を確認するのが、このところの楽しい日課になっている。

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【静岡県系カバン探し】

【静岡県系カバン探し】
 



 清水帰省し、夕方から仲間が集まって仕事の話しや、郷土の歴史の話しや、あれこれ与太話で盛り上がった。夜も深まったので友人宅をひとまず辞去し、街に出て、全員が初めて入るという飲み屋で続きをやった。

 夜遅くまで開いている店が少ない清水では、あまり注文の少ない客はさっさと追い出して効率重視の商売がしたいらしく、厚塗りド派手な扮装のおばちゃんが食べかけの皿までさっさと下げながら、こちらの素性をたいして知りたくもなさそうなお追従笑いで尋ねるので、
「静岡県系の者です」
と言ったら笑いを消して引っ込んだ。何か勘違いし、心にやましいところでもあるのだろうか。

 出て行って欲しそうなのでその店を出て歩いていたら、静岡県系の友だちの一人に携帯電話から呼び出しがあり、急に事件…じゃなくて家庭の事情ができて帰ることになり、正しい静岡県系の人間は酔って自転車に乗るわけにも行かないので、急(せ)く気持ちを抑え、ハンドルを握って押しながら帰って行くように見える姿を見送る。

 千歳橋たもとに懐かしの『ギョーザ倶楽部』が帰ってきたので、路上にテーブルと椅子を用意して貰い、夜空の下でラーメンを食べた。

 北京屋の常連がラーメンに一味唐辛子を入れて食べるのを面白く眺めたことがあるけれど、ここでも胡椒以外に一味唐辛子が出てくるのでやってみたらなかなか美味しかった。

 静岡県系の人間が午前様になるのもどうかと思い、勘定を済ませて帰ろうとしたらカバンがない。どうしたんだろうと落ち着いて思うに、厚塗りド派手な扮装のおばちゃんの店に忘れたのに違いないと思い、中味を思い出すとちょっとまずいなぁと酔いが覚める。

 静岡県系の仲間がどうしたと心配してくれるので
「大丈夫、さっきの店に忘れたから寄って帰る」
と手を振って別れたものの、無かったらどうしようと心配になる。

 まぁ、静岡県系を勘違いしていたようだから忘れ物のカバンもしっかり保存してくれているに違いないと自分を安心させつつ10メートルほど歩いたら
「(あっ、カバンなんて最初から持って出なかったんだ…)」
と思い出した。

 手ぶらで夜の街に出てカバンなんて最初から持っていなかったことを思いだしたら急に幸せな気分になり、見上げた空に出たまん丸の月があまり綺麗に見えたので遠回りして宿泊先まで帰った。

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【清水七夕祭初日の朝】

【清水七夕祭初日の朝】
 

 7月4日、売却した実家跡地に出てきた古井戸埋立料を支払うのと雑誌取材を兼ねて帰省した。



新幹線車両最前列で100ボルトのコンセントがあったので
パソコンを充電しながら使用してみた。

 東京駅7時03分発ひかり461号の指定席券を駒込駅で買って、山手線外回りを待ったら6時43分まで電車が来なくて、券売機が発券したものの間に合わないのではないかと冷や冷やした。



しずてつ新静岡駅ホームにて。

 小走りに走って危うく乗車したひかり号が、8時13分静岡駅に到着したので、なんとなく再び小走りに走って東海道線在来線ホームに行ったら、8時52分熱海行きまで列車がなく、30分以上待つのは時間の無駄なので、新静岡駅まで歩いてしずてつ電車を利用した。



清水銀座七夕祭り初日の朝。

 新静岡駅構内に七夕飾りがあり、清水は4日から7日まで恒例の七夕祭りで、
「しずてつ電車で行こう!!清水の夏祭り」
と大書されていた。旧東海道入江商店会にある寿司店での取材まで、ちょっと時間があるので清水銀座を歩いたら商店主や露天商が祭りの準備をしていた。

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▼親と子の会話

 

 親子が交わす会話というのは次第に会話が誕生したばかりの頃の素朴さに戻るのかもしれない。そしてよほど他人の前で仲良く見えることに慎重な親子以外、ごつごつとして荒削りな会話ばかりになってしまうことが多いように思う。
 他人の親子が交わす会話を聞くともなく聞いていて、ドキッとする小さな棘に気づいて、その親子が置かれている今の事情に気づくことがある。僕もまた70前後の年齢になった母親と話しているうちに言葉を荒げてしまい、周りの人にギョッとした視線で見られた記憶がある。




豊島区駒込にて。



 丁寧で他人をギョッとさせない話し方というのは、他人が聞いても内容が理解できるよう、文法的に整った会話をすることであり、親子がともに大人になるということは、余計な軋轢が生じないように丁寧な会話をするようになることなのだと思う。
 その親子が次第に年をとり、親が老人と呼ばれるようになり、介護が必要になる頃には、文法的に整った会話がしだいにごつごとして荒削りになり、時には棘がちくりと刺さるような会話になってしまうのかもしれない。親も子も疲れているのだ。




豊島区駒込にて。



 どんどん小食になって痩せていく母親が目の前にあるサンドイッチに手をつけないのを見て、娘が
「もう一つ食べて」
と言い、母親が
「いやっ!」
と睨みながら答える。他人行儀なほど丁寧な話し方をした義母が、まるで子どものような拒絶の言葉を吐き捨てるほど年をとったのかと、会話を聞いていてチクリと刺さった棘の痛みに思う。

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【ヘルン先生と焼津】

【ヘルン先生と焼津】
 

 パトリック・ラフカディオ・ハーン、日本名小泉八雲、愛称ヘルン先生と静岡県焼津について書かれた本を母の本棚で見つけて読んでから、ヘルン先生が愛したという焼津の人と土地が気になっている。気になるので一度ちゃんと焼津の町を歩いてみたいと思いつつ果たせていない。

…陽がカンカン照ると、焼津という古い漁師町は、中間色の、言うに言えない特有な面白味を見せる。まるでトカゲのように、町はくすんだ色調を帯びて、それが臨む荒い灰色の海岸と同じ色になり、小さな入り江に沿って湾曲しているのである。(小泉八雲『霊の日本』所収「焼津にて」)

 



静岡県清水にて。

 ヘルン先生が東京帝国大学文科の英文学講師となり、帰化して「小泉八雲」と名乗り、東京都新宿区富久町に転居したのが1896(明治29)年のことなので、小泉八雲とその家族が焼津を最初に訪れた1897(明治30)年はその翌年ということになる。
 遠浅ではなく水泳に適した急深の海を求めて選んだのが焼津の海であり、清水も三保の外海などは急深なのだけれどヘルン先生のお眼鏡にかなわなかったらしい。だが、1899(明治32)年、1900(明治33)年、1901(明治34)年、1902(明治35)年、そして1904(明治37)年に54歳で急死するまで、毎年夏は焼津で過ごしたそうなので、ヘルン先生はそのたびに清水の町を通過していたことになる。静岡駅東海軒の駅弁が1889(明治22)年創業だそうだが、やすい軒の駅弁が当時すでにあったとしたら、江尻駅で駅弁くらい買わなかっただろうか。当時の列車で焼津まではまだ遠いのだ。



静岡県清水。波止場にて。

 焼津のどこがそんなに気に入ったのだろうという疑問を胸に焼津の町を訪ねてみても、100年以上も時を経て往時の面影はほとんどないに違いないので、そう急ぐこともあるまいと思い、宇野邦一さんが『ハーンと八雲』という本を今年4月に出されたので買って読み始めている。

…一部始終、いまも世界中の場末で繰り返されているようなやり取りばかりである。
「それはあたかも、ある窓を通してわれわれが二千年前の生活をのぞいているようなものである」とハーンはいう。ハーンの文学がどこにむかっていたか、よく伝える一節である。こういう凡庸な会話と光景が「ある窓を通して」見えるとき、もはやそれは凡庸なものではなくなり、驚異となる。たとえば小津安二郎の映画の人物たちのまったく凡庸なやり取りが、カメラのフレームを通してのぞかれ、フィルムに定着されたとき、それが何かしら奇跡的な様相を呈することと、これは無関係ではない。
(宇野邦一『ハーンと八雲』より)

 未知の「小泉八雲」に出会う!という惹句の添えられた本を読んでから訪ねたら、死の直前には家を買っての定住まで計画していたというヘルン先生の愛した焼津の町が、今はもうどこにでもあるような凡庸な町になりはてていたとしても、何かしら違って見える窓になるかもしれないという魂胆もこの読書にはある。



宇野邦一
『ハーンと八雲』
角川春樹事務所
四六判上製/224頁/1800円
ISBN978-4-7584-1134-9

 

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【捨てるものがなかった時代のこと】

【捨てるものがなかった時代のこと】
 

 静岡県清水で瓦製造業をしていた母方の実家には、オート三輪が製材所から出た端材を積んで定期的にやって来て、それらは瓦を焼く窯の燃料になったり、竈にくべて煮炊きの燃料となった。
 材木を角材にするために切り取った表皮部分の端材を「バタ」、細かい切れ端を「モヤ」、鋸で挽いた際に出る粉を「ヌカ」と呼び、窯場にストックしては瓦を焼く際にくべていた。友だちのブログを読んでいたら、製材業が盛んだった清水では、一般家庭でもそういう端材を風呂や煮炊きの燃料として使っていたことを知って懐かしい。



静岡県清水、入江商店会にて。

 瓦工場では燃料の端材とともに稲藁も欠かせない瓦づくりの道具だった。作業小屋には大量の稲藁が溜め込まれており、天気の良い日はそれらの稲藁を地面に敷き、焼く前の瓦を綺麗に並べて天日干ししていた。焼き上がった瓦を出荷する前にも藁を間に挟んで傷つかないよう数枚単位でまとめ、同じく藁で編んだ荒縄でギュッと縛り鎌で切って荷造りしていた。
 泥だらけ、煤だらけ、埃まみれの工場内には藁で編んだ作業用座布団、藁で編んだロール状の敷物など藁製品が多く、たくさんのミゴボウキが用意してあっていつもしっかりと掃除されていた。



旧東海道沿いで売られていたミゴボウキ。
入江商店会にて。

 今から175年くらい前になるけれど、その大内の村に寺田七平という人がおり、江戸でミゴボウキの作り方を覚えて戻り、稲藁の皮を取り去った上部の茎である「ミゴ」を使ったホウキを稲作地帯大内村の工芸品にしたのだという。戦後まで大内では盛んに作られていたというから、祖父の瓦工場にミゴボウキや藁製品が多かったのはそのためかもしれない。

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