逃亡の末に逮捕された市橋達也容疑者は、瞬発力と忍耐力を併せ持つ恐るべき犯罪者に違いない。だとしても、両親をさらし者にする権利がメディアにあるだろうか。加害者家族は有形無形の制裁を受けている。愚かしい風潮を助長するメディアに倫理と良心を求めるのは、ないものねだりと言うべきか。
森繁久弥さんが亡くなった。俺にとって森繁さんといえば、豊田四郎監督の「夫婦善哉」(55年)と「猫と庄造と二人のをんな」(56年)だ。〝雲上人〟になる前の森繁さんは、男の脆さ、情けなさ、哀愁、色気を滲ませていた。名優の死を心から悼みたい。
前置きは長くなったが、本題に。グランジの2大バンド、パール・ジャムの新作「バックスペイサー」とニルヴァーナの「ライヴ・アット・レディング」(CD&DVD)を併せて購入した。
チケットマスターに異を唱え、レーベルの反対を押し切ってライブブートレッグを商品化するなど、パール・ジャムは常に尖った姿勢を貫いてきたが、ここ数年、勢いを失くした印象は拭えなかった。エディ・ヴェダーの実質的ソロアルバム「イントゥ・ザ・ワイルド」(07年/サントラ)を経て発表された新作で停滞感を払拭し、チャート的にも全米1位に輝いた。
スタジオライブ風のシンプルな作りでデビュー時の煌きが甦り、渋いグルーヴと枯れたアコースティックが織り込まれた本作は、疲れた五十路にも優しい音だった。♯2「ガット・サム」、♯4「ジョニー・ギター」、♯7「アンソウト・ノウン」、♯10「フォース・オブ・ネイチャー」がとりわけ心に響く。
ニルヴァーナのピーク時(92年)のパフォ-マンスを収めた「ライヴ・アット・レディング」については、ブートレッグDVDを購入した際、別稿で記した。自らを浄化するようにシャウトするカート・コバーンは、<刹那>と<永遠>を同時に表現しうる稀有のアーティストだった。
94年4月、自ら命を絶ったカートは、ジョン・レノンをも超えるイコンになった。<ニルヴァーナのように=既成の概念を根底から覆す>、<カート・コバーンのように=身を削って真実に殉じる>は普遍的に通用する枕詞になっている。
グランジに括られたバンドには音楽的接点が殆どない。パール・ジャムとニルヴァーナ、そしてサウンドガーデン、ライブ……。彼らの共通点はパール・ジャムの“Ten”( 米国だけで1200万枚)を筆頭に爆発的なセールスを記録したことだけだ。
パール・ジャムは王道ロックの正統な継承者だ。バンドとしてニール・ヤングのアルバムに参加し、エディはフーと同じステージに立っている。一方のニルヴァーナはパンク再生の使命を負い、革新的であることを求められた。
ロックスターであることを否定し、儚く美しく悲劇的に散ったカートの絶望と孤独を、エディは宿業のように背負い続ける。だからこそパール・ジャムが奏でる音は、哀調と陰影を帯びているのだ。ニルヴァーナ解散後、スティックをピックに持ち替えフー・ファイターズのフロントマンになったデイヴ・グロールも、カートの影から逃れようともがいたひとりだ。今やロックスターとして君臨しするデイヴに、「ちょっとやり過ぎじゃない」とあの世でカートは苦笑しているに違いない。
俺にとってレーガンとサッチャーは、“ロックの父と母”だ。新自由主義によって生じた疲弊と矛盾が、ヒップホップ、グランジ、ミクスチャー、マッドチェスター、ブリットポップを育む土壌になる。グランジ発祥から20年、閉塞感を一掃するようなムーブメントは胎動しているだろうか。
最後に、枠順未定のエリザベス女王杯の予想を。野生児スミヨンはアガ・カーンに主戦契約を切られ、犬猿の仲のルメールが新任としてシャラナヤを駆る。昨年ルメールで勝ったリトルアマポーラに騎乗するのはスミヨンだ。両者の確執が波乱の因になっても不思議はないが、年の功の安藤勝、事情通の武豊は冷静にレースを進めるだろう。
◎シャラナヤ、○リトルアマポーラ、▲ブエナビスタ、△ミクロコスモス。馬券はシャラナヤ1頭軸の3連単を考えている。
森繁久弥さんが亡くなった。俺にとって森繁さんといえば、豊田四郎監督の「夫婦善哉」(55年)と「猫と庄造と二人のをんな」(56年)だ。〝雲上人〟になる前の森繁さんは、男の脆さ、情けなさ、哀愁、色気を滲ませていた。名優の死を心から悼みたい。
前置きは長くなったが、本題に。グランジの2大バンド、パール・ジャムの新作「バックスペイサー」とニルヴァーナの「ライヴ・アット・レディング」(CD&DVD)を併せて購入した。
チケットマスターに異を唱え、レーベルの反対を押し切ってライブブートレッグを商品化するなど、パール・ジャムは常に尖った姿勢を貫いてきたが、ここ数年、勢いを失くした印象は拭えなかった。エディ・ヴェダーの実質的ソロアルバム「イントゥ・ザ・ワイルド」(07年/サントラ)を経て発表された新作で停滞感を払拭し、チャート的にも全米1位に輝いた。
スタジオライブ風のシンプルな作りでデビュー時の煌きが甦り、渋いグルーヴと枯れたアコースティックが織り込まれた本作は、疲れた五十路にも優しい音だった。♯2「ガット・サム」、♯4「ジョニー・ギター」、♯7「アンソウト・ノウン」、♯10「フォース・オブ・ネイチャー」がとりわけ心に響く。
ニルヴァーナのピーク時(92年)のパフォ-マンスを収めた「ライヴ・アット・レディング」については、ブートレッグDVDを購入した際、別稿で記した。自らを浄化するようにシャウトするカート・コバーンは、<刹那>と<永遠>を同時に表現しうる稀有のアーティストだった。
94年4月、自ら命を絶ったカートは、ジョン・レノンをも超えるイコンになった。<ニルヴァーナのように=既成の概念を根底から覆す>、<カート・コバーンのように=身を削って真実に殉じる>は普遍的に通用する枕詞になっている。
グランジに括られたバンドには音楽的接点が殆どない。パール・ジャムとニルヴァーナ、そしてサウンドガーデン、ライブ……。彼らの共通点はパール・ジャムの“Ten”( 米国だけで1200万枚)を筆頭に爆発的なセールスを記録したことだけだ。
パール・ジャムは王道ロックの正統な継承者だ。バンドとしてニール・ヤングのアルバムに参加し、エディはフーと同じステージに立っている。一方のニルヴァーナはパンク再生の使命を負い、革新的であることを求められた。
ロックスターであることを否定し、儚く美しく悲劇的に散ったカートの絶望と孤独を、エディは宿業のように背負い続ける。だからこそパール・ジャムが奏でる音は、哀調と陰影を帯びているのだ。ニルヴァーナ解散後、スティックをピックに持ち替えフー・ファイターズのフロントマンになったデイヴ・グロールも、カートの影から逃れようともがいたひとりだ。今やロックスターとして君臨しするデイヴに、「ちょっとやり過ぎじゃない」とあの世でカートは苦笑しているに違いない。
俺にとってレーガンとサッチャーは、“ロックの父と母”だ。新自由主義によって生じた疲弊と矛盾が、ヒップホップ、グランジ、ミクスチャー、マッドチェスター、ブリットポップを育む土壌になる。グランジ発祥から20年、閉塞感を一掃するようなムーブメントは胎動しているだろうか。
最後に、枠順未定のエリザベス女王杯の予想を。野生児スミヨンはアガ・カーンに主戦契約を切られ、犬猿の仲のルメールが新任としてシャラナヤを駆る。昨年ルメールで勝ったリトルアマポーラに騎乗するのはスミヨンだ。両者の確執が波乱の因になっても不思議はないが、年の功の安藤勝、事情通の武豊は冷静にレースを進めるだろう。
◎シャラナヤ、○リトルアマポーラ、▲ブエナビスタ、△ミクロコスモス。馬券はシャラナヤ1頭軸の3連単を考えている。
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