酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「文化防衛論」再読~三島の破綻と慧眼

2009-11-25 01:00:55 | カルチャー
 「学問のすすめ」(朝日ニュースター)を楽しみにしている。目に見えぬものに価値を見いだす右派の西部邁氏、直線的なイメージと裏腹の包容力を感じさせる左派の佐高信氏……。この両氏が60分、ニーチェ、トロツキー、小林秀雄、サルトルらを俎上に載せて語り合う。

 立脚点は異なる両氏だが、互いに敬意を払い、和やかなムードで論を進めていく。今月最初のテーマは39年前のこの日(11月25日)に自決した三島由紀夫で、美輪明宏との出会いなど興味深いエピソードも織り込まれていた。

 俺は別稿(05年11月23日)で以下のように記した。

 <自己完結の回路に生きた三島は、全共闘が占拠する大学にも足を運び、「最後の最後まで闘うぞ」といったアジ演説を何度も耳にしたはずだ。「こいつら、俺と同じだ。体を張る(死ぬ)覚悟が出来ている」……。純粋な物差しの目盛りが、「革命前夜」と弾き出した>(一部略)

 「学問のすすめ」で両氏は、「仮面」と「素顔」の対句を用いることで、俺の言いたいことを補強してくれた。三島の「素顔」は痛々しいほど純粋で、他者が「仮面」を被っているなど思いも寄らなかった。だからこそ三島は、アジテーションの主さえ信じていなかった<幻想の革命>におののいたのだ。

 三島より3学年下の城山三郎を、佐高氏が取材した時のこと。海軍に志願して特攻隊に配属された城山は三島について、「あの人、戦争に行ってないんだよね」と吐き捨てたという。同世代の多くが戦場で死んだが、三島は偶然も重なって入隊しなかった。〝徴兵逃れ〟の罪の意識が当人を苛み、晩年の行動を加速させたことは想像に難くない。

 西部、佐高両氏が<論理の破綻>と断じた「文化防衛論」(「中央公論」68年7月号)を30年ぶりに再読した。牽強付会も目立つが、三島の明晰さもちりばめられている。

 <近松も西鶴も芭蕉もいない昭和元禄には、華美な風俗だけが跋扈している。情念は涸れ、強靭なリアリズムは地を払い、詩の深化は顧みられない>……。この冒頭部分は、60年代において主流たりえなかった三島の慨嘆と受け取れる。

 三島は<非武装中立を一億総玉砕とコインの表裏を成すパラドックス>と断じ、<「平和を守る」という行為と方法が、すべて平和的でなければならぬという考えは、一般的な文化主義的妄言>と言葉を続ける。賛否はともかく、筋は通っている。

 正鵠を射ていたのは〝コピー文化論〟だ。三島は<木と紙に拠った日本の造形美術は破壊と消失を前提にしており、本来オリジナルとコピーの弁別を持たない>と日本文化の本質を抉る。伊勢神宮の20年ごとの式年造営を例に挙げ、<オリジナルがコピーに自らの生命を託し、コピーがオリジナルになる>と結論づけた。

 68年当時、〝安かろう悪かろう〟の日本製品は粗悪ぶりを嘲笑されていたが、三島の死後、<メイド・イン・ジャパン>は〝コピー〟と揶揄されながら世界に冠たるブランドになった。三島の慧眼には驚くしかない。

 戦後日本の様々な社会運動――安保闘争、三派系全学連の街頭闘争、ベ平連――の根底にある二つの潮流を三島は指摘していた。一つは<民族主義>であり、もう一つは、外国(アメリカ)の武力によって人質にされ抑圧された平和的な日本民族という<被害者意識>だ。

 <自由陣営に属することの相対的選択を、国是と同一視する安保条約の思想は、薄弱な倫理的根拠をしか持ちえない>と記した三島は、日本の自主性を強調したが、排外主義的な志向は皆無だった。

 三島が提示した中身と比べ、現在のナショナリズムは大きく歪んでいる。日本の保守派には、アメリカへの隷属を前提に、中国や韓国を一段低いものと見做す傾向が強い。上に弱く下に厳しい〝体育会系ナショナリズム。が蔓延している。

 「憂国」、「剣」、「太陽と鉄」を読めば、三島が早い時期から自らの死をプログラムに組み込んでいたことが理解できる。「文化防衛論」では、<民族主義の左右からの奪い合い>に決着をつけると宣言し、2年後に実行する。三島の死によって民族主義は右翼の占有物になり、所期の目的は達成された。

 三島はあの世で、「おまえたちを信じて、早まった俺がバカだった」と全共闘世代を笑っているだろう。思想を一瞬無化させた三島の死は、とりわけ左翼にとって強烈なボディーブローだったのだ。




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