酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「ヴィヨンの妻」を支える松たか子の煌き

2009-11-04 00:23:37 | 映画、ドラマ
 生誕100周年に当たる今年、太宰治の作品が次々に映画化された。今回は「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ」(根岸吉太郎監督)について記したい。

 太宰はある時期まで〝通過儀礼〟の作家だった。絶望と希望のアンビバレンツに彩られ、波瀾万丈の私生活が作品に重なったことも若者を惹きつけた所以か。俺もまた、10代で読み始め20代前半に〝修了〟するというパターンを辿る。

 <死に憑かれた作家>と評されるが、死とは究極の個に至る過程といえ、他者を道連れにする理由がわからない。ようやく成就した3度目は、相手女性が意図した無理心中といわれている。太宰の弱さを許せなかった三島由紀夫に「あなたが嫌いだ」と面罵されると、「あなたは私です」と切り返したという。太宰の優れた観察力と鋭い直感を物語るエピソードだ。

 「ヴィヨンの妻」は地上波、衛星、スカパーで繰り返し放映されるはずだ。いずれご覧になる方の興趣を削がぬよう感想を述べることにする。

 敗戦直後の混乱を背景に描かれた本作のイメージは<ダークサイド・オブ・阿久悠>で、「北の宿から」、「時の過ぎゆくままに」、「ざんげの値打ちもない」に顕著な〝昭和の情念〟に貫かれている。妻が夫の理不尽な言動に耐えるのは当然とされた時代から六十余年……。愛の装いが大きく変化した現在の妻たちは、〝人間失格〟の夫を支え続けるだろうか。

 主人公の大谷(浅野忠信)はそのまま太宰だ。妻子を顧みず、酒と女に溺れて莫大な借金を背負う。愛人たちとの醜聞で世間を騒がせるが、自らの不徳を棚に上げた妻佐知(松たか子)への凄まじい嫉妬は、「行人」などで辟易した漱石の作品群を彷彿とさせる。

 女の嫉妬は与り知らぬが、男の嫉妬は自己不信に根差している。太宰は思想(マルクス主義)を裏切り、女性を裏切り、栄誉(芥川賞)を欲する余り自らのプライドを裏切った。誰より自分を信じられない太宰は人間不信に陥り、聖書に救いを求め、「走れメロス」で人間賛歌を高らかに謳う。

♪「死にましょう」女の瞳の切っ尖に 「死ねないよ」淋しさだけが押し黙る(松本隆作詞)……。

 吉田拓郎の「舞姫」では心中は不成立だったが、似たような状況で一歩踏み出した太宰は、死への同道に、信じることの究極の意味を見いだしたのではないか。

 破滅も厭わず大谷を愛する秋子(広末涼子)、佐知を慕う純情な岡田(妻夫木聡)、上昇と引き換えに荒みを纏った弁護士の辻(堤真一)、大谷一家の庇護者である飲み屋夫婦(伊武雅刀、室井滋)……。芸達者たちに脇を固められ、松たか子が煌いていた。憂い、悲しみ、惑い、寂寥をナチュラルで柔らかな笑みに包み、実年齢より10歳若い佐知を違和感なく演じていた。

 米兵相手の娼婦から買った口紅を塗り、佐知は辻に会いにいく。ビルから出た佐知は道端にそっと口紅を置いた。印象的なシーンは本作を象徴するラストへと繋がっていく。汚れた壁をバックに夫婦が並んで立ち、佐知の「わたしたちは、生きてさえいればいいのよ」の台詞が流れる。ともに墜ちる愛の修羅に相応しいエンディングだった。

 太宰と並び称された無頼派が織田作之助だ。映画化された「夫婦善哉」(55年、豊田四郎)は本作と色調は異なるが、ともに夫婦の形を描いた傑作である。

 「人間失格」は来春封切られる。監督が「赤目四十八瀧心中未遂」(原作/車谷長吉)で愛の深淵に迫った荒戸源次郎とくれば、期待は高まるばかりだ。




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする