酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「ユスフ」3部作~夢と現の迷路でトルコ映画を楽しむ

2012-01-09 20:30:14 | 映画、ドラマ
 正月スポーツが一段落した。大学ラグビーでは天理が準優勝、準々決勝で同志社が終盤まで帝京をリードするなど関西の復権が著しく、来季以降が楽しみになってきた。正月競馬は惨敗続きで、お年玉どころかいつも通りJRAに寄付している。

 NFLのワイルドカード・プレーオフは想定内の結果だったが、カレッジでは番狂わせが起きた。フイエスタボウルでスタンフォード大がオーバータイムの末、オクラホマ州立大に敗れる。イージーミスを繰り返したスタンフォードのキッカーを追う残酷なカメラアングルに胸が痛んだ。シーズンを締めくくるBCSチャンピオンシップ(日本時間10日、LSU対アラバマ大)が楽しみだ。

 仕事先の先輩のブログで知ったが、とんでもない事態が進行中だ。4号機の使用済み核燃料プールが危機的状況に陥り、小出裕章氏は講演で、外出時のマスク着用、建屋倒壊時の速やかな関東以西への移動を強く勧めている。正月ボケ(実は万年ボケ)は吹っ飛んだが、俺もどうやら、政府とメディアに催眠剤を飲まされていたようだ。

 さて、本題。巨匠の作品が時に催眠剤になることもある。俺に効いたのはフェリーニだった。20代の頃、「8 1/2」と「女の都」の2本立てにある女性と足を運んだ。明かりが灯って爆睡から覚めた時、彼女は蔑みの一瞥をくれ、出口へスタスタ消えていく。それっきりで、片思いもジ・エンドになる。

 早稲田松竹で先週末、久しぶりに睡魔と闘った。「卵」(07年)、「ミルク」(08年)、「蜂蜜」(10年)の「ユスフ」3部作(トルコ、セミフ・カブランオール監督)である。第1部「卵」で母の死を知った詩人ユスフは帰郷し、神秘的な風景をバックに、心の旅は過去へと遡る。「蜂蜜」でようやく、希薄だった父が像を結んだ。

 背景はすべて21世紀だ。「卵」(中年期)、「ミルク」(青年期)には携帯電話が登場し、「蜂蜜」(少年期)の舞台は09年である。奇妙な時間の流れとともにユスフの内面の核が明かされ、靄がクリアになる過程で、俺の眠気も覚めていく。夢と現を彷徨う3部作は、ミステリーの風味も備えていた。

 南方熊楠、柳田国男が追究し、小泉八雲が憧れた日本人の死生観、無常観、宗教観はデジタル世代にも継承されているが、トルコも同様なのだろう。独特の風土や感性に根差した「ユスフ」3部作を、理解しようと試みてはいけない。宮沢賢治ファンは<夢の中で夢を見るように読めばいい>と語っていたが、そのアドバイスは「ユスフ」3部作にも当てはまる。酔生夢死の観賞法は、結果的に正しかったようだ。

 第2部のタイトルでもあるミルクが、全体を結ぶイメージになっていた。「卵」には牛乳配達の少年が登場し、「ミルク」の主人公は自身が牛乳を配達している。「蜂蜜」のユスフ少年にとって牛乳嫌いの克服が、自立のスタートになる。「卵」ではスランプに陥った詩人、「ミルク」は煌めきを見せ始めた新鋭の詩人が主人公で、「蜂蜜」では少年が言葉に目覚める経緯が描かれていた。

 ユスフ少年は失語症で、周囲とコミュニケーションを取れない。校庭で遊ぶクラスメートをひとり教室から眺め、初恋の少女の詩の朗読に聞き惚れている。ユスフは柔らかく鋭い感性を教室の外で磨いた。森に仕掛けた籠から蜂蜜を採集する父と行動をともにしながら自然と親しんでいく。強い絆で結ばれていた父を捜しに、ユスフは森に入った。闇に佇む少年に、「卵」と「ミルク」の主人公の孤独が重なった。

 謎のまま終わったシーンも数多い。「卵」の冒頭、古書店に現れるグラマーな女性は何かのメタファーかもしれない。たびたび昏倒するユスフは夢(幻想)で獣に襲われ、ラストの雷鳴に繋がる。「ミルク」で繰り返し現れる蛇、ラストの巨大なナマズは、ユスフの神聖な父への思い、母の裏切りとその再婚相手(駅長)への憎しみの徴とも受け取れる。<理解しようと試みてはいけない>と記した割に屁理屈をこねてしまうのが俺の悲しい性だ。

 3作はともに人工的な音を排し、自然をそのままサントラとして重ねている。風の音、木々の揺らぎ、鳥の鳴き声、獣の咆哮のような雷鳴、虫の羽音、蜜蜂の囁きが自然への畏れと共生を呼び覚ましてくれた。映画館から一歩踏み出した外には、人工を極めた装置から排出された放射能が舞っていたのか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 小川洋子の清澄な世界~濾し... | トップ | 「春を恨んだりはしない」~... »

コメントを投稿

映画、ドラマ」カテゴリの最新記事