酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「死刑台のメロディ」~スクリーンで融合するパトスと叙情

2024-05-02 21:21:13 | 映画、ドラマ
 新宿武蔵野館で「死刑台のメロディ 4Kリマスター版」(1971年、ジュリアーノ・モンタルド監督)を見た。イタリアとフランスの合作である。監督よりも作曲家に重きを置いた企画で、<エンリコ・モリコーネ>特選上映と銘打たれ、「ラ・カリファ」と併せて公開されている。

 「死刑台のメロディ」は史実に基づいている。1920年、マサチューセッツ州ブレイツリー市で製靴工場が襲われ、2人が殺され1万6000㌦が奪われる強盗殺人事件が起きた。冒頭のモノクロ画面で、イタリア人街が警察隊の襲撃を受ける。マカロニウエスタンの空気を感じたが、モンタルドが西部劇を撮影したことはない。

 ロシア革命直後、全米でも労働者の抗議が広まっていた。核をなしていたのはアナキストで、パーマー司法長官の左翼に対する徹底的な弾圧はマッカーシズムの先駆けといわれている。移民への差別もあり、捜査陣の網にかかったのが、イタリアからの移民であるバルトロメオ・ヴァンゼッティ(ジャン・マリア・ヴォロンテ)とニコラ・サッコ(リカルド・クッチョーラ)だった。拘束時、拳銃を不法に所持していたことが心証を悪くした。興味深かったのは英語版の〝ラディカル〟が字幕で〝アナキスト〟になっていた点で、その辺の事情はわからない。

 裁判の過程で証言の曖昧さが浮き彫りになる。最初に結論ありきで、パーマーの意を呈したカッツマン検事(シリル・キューザック)とサイヤー判事(ジェフリー・キーン)はムア弁護士(ミロ・オーシャ)が突き付ける矛盾に取り合わない。証言を撤回しようとした者は暴力にさらされる。直情径行のムアはカッツマンとサイヤーに対し、「あなたたちはKKKと変わらない差別主義者だ」とぶちまけるが、仕組まれた法廷で旗色が悪くなるだけだ。陪審員は短い協議時間でヴァンゼッティとサッコに死刑を求刑する。

 法廷の内と外では空気が真逆だった。ムアと彼を引き継いだトンプソン弁護士(ウィリアム・プリンス)の尽力もあり、ヴァンゼッティとサッコの当日のアリバイ、真犯人の存在が明らかになる展開に、イタリア特有のネオレアリズモの伝統が窺えた。真実が伝わると全米だけでなくロンドンでも<ヴァンゼッティとサッコを無罪に>を掲げた大規模なデモが行われた。

 冤罪事件であれば、2人は解放されたはずだが、両被告が公判で自らアナキストと公言し、資本主義独裁国家アメリカへのメッセージを訴えたことで構図が変わった。体制を問う裁判になった以上、権力側は死刑執行に向け一歩も譲らない。ヴァンゼッティとサッコにも変化の兆しが表れた。無実を主張するヴァンゼッティは無実を主張し、精神に異常を来したサッコは癒えた後、諦念と絶望から沈黙を続ける。サッコを演じたクッチョーラは複雑な心境を演じ切ったことで、カンヌ映画祭最優秀男優賞に輝いた。

 モリコーネが作曲した主題歌と挿入歌に歌詞を付けて歌ったのは、反骨のフォーク歌手ジョーン・バエズだ。両者のコラボこそ、パトスと叙情の煌びやかな融合だった。「忍者武芸帳」(67年、大島渚監督)での影丸の印象的な台詞が重なった。

 <大切なのは勝ち負けではなく、目的に向かって近づくことだ。俺が死んでも志を継ぐ者が必ず現れる。多くの人が平等で幸せに暮らせる日が来るまで、敗れても敗れても闘い続ける。100年先か、1000年先か、そんな日は必ず来る>

 影丸、そしてヴァンゼッティとサッコの思いは現在、いかほどのリアリティーを持つのだろう。世の中の構造はさほど変わっていないのではないか。
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