酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「春を恨んだりはしない」~鎮魂歌の彼方に灯る希望

2012-01-12 22:00:14 | 読書
 澤穂希がFIFA年間MVPに選ばれた。ライカールトやダーヴィッツを彷彿させるダイナモとしてピッチを駆け回る澤の受賞は当然だと思う。垢抜けたチームメートと対照的に、澤はセピア色のニュースフィルムから抜け出たような顔立ちだ。ノスタルジーと和みを感じさせるのも、人気の一つの理由かもしれない。

 吉本隆明氏のインタビュー「反原発で猿になる」(週刊新潮新年号掲載)が物議を醸している。齧った程度の俺の吉本像は<凡人が言葉に表せない感覚や思いをピンポイントで表現する日本語の使い手>だが、娘のばななさんが弁明しているように、〝知の巨人〟はボケてしまったのだろうか。

 池澤夏樹著「春を恨んだりはしない~震災をめぐって考えたこと」(中央公論新社)を読んだ。池澤は3・11以降、被災地に足を運び、見聞したことを柔らかい感性、奥深い洞察、物理の知識で研いだ。潤いと鋭さを併せ持つ鎮魂歌に心を揺さぶられる。

 「あの頃はよく泣いた」と池澤は第1章<まえがき、あるいは死者たち>で記しているが、俺にとっても2011年は涙に暮れた一年だった。とはいえ俺は、優しい人間ではない。阪神大震災時、東京から被災地を他人事のように眺め、親族の死や病気にも冷淡だった。だが、16年の年月が感性を変える。背後に忍び寄る死の影に気付いてようやく、俺は人間らしい感情を持てるようになった。

 個々の死が風化し、数に換算されていくことに、池澤は違和感を覚えた。それぞれの尊い死に迫るため、多くの被災者の肉声に接した池澤は、「どうして自分がこんな目に」という恨み言と一切出合わなかった。池澤は自然の冷酷さ受け入れてきた日本人、東北人の来し方に思いを馳せ、 <災害と復興がこの国の歴史の主軸ではなかったか>と綴っている。災害は日本人独特の無常観、死生観、美意識、諦念を育んだが、マイナス面もある。日本人は戦争や政府の無策まで天災として受け入れるようになったのだ。

 第7章<昔、原発というものがあった>の冒頭で、「地震と津波は天災だが原発は人災」と池澤は記している。大学で物理を学んだ(埼玉大理工学部中退)池澤は、1990年前後から原発に疑義を呈してきた。別稿(11年4月15日)で紹介した「すばらしき新世界」(00年)は自然と進歩、家族の絆、価値観の転換といった3・11以降の日本に即したテーマを紡いだ作品だ。

 「すばらしい新世界」で興味深いのは、主人公が所属する部署で2030年の日本のエネルギー事情がテーマになった場面だ。「原発はほとんど消滅」という共通認識は、「春を――」で示された「再生可能エネルギー導入ポテンシャル調査報告書」(11年、環境省)と距離が近い。<政官財が一体となって原発を推進>などと当ブログで記してきたが、経産省と環境省では志向性が異なるようだ。

 「春を――」で池澤は、感性ではなく技術論で原子力を否定する。最大のネックは、他の研究者言及しているように万年単位の放射能の管理だ。絶対安全の器がないことを、<すべての物質を溶かす溶媒>というSFのパラドックスを用いて説明していた。人災としての福島原発事故がもたらした悲劇を、池澤は第1章で以下のように記している。

 <撒き散らされた放射能の微粒子は身辺のどこかに潜んで、やがて誰かの身体に癌を引き起こす。(中略)この社会は死の因子を散布された。放射性物質はどこかでじっと待っている>……。

 主音はペシミスティックだが、池澤は希望を捨てない。池澤は崇高な志を持つ人々と出会い、行政とボランティアが垣根を越える場面に遭遇した。そして、3・11が<集中と高密度と効率追求ばかりを求めない分散型の文明への一つの促しになることを期待している>と結んでいる。

 池澤は次作のテーマに3・11を据えるはずだ。「すばらしい新世界」、「光の指で触れよ」に次ぐ第3部になることを期待している。


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