<1157> カマキリのかま子
かまきりの さまよふほども 天下なり
どんよりと曇った天気の日だった。お腹を膨らませたカマキリのかま子は、雨になってはいけないと屋根のあるカーポートに移された洗濯物が吊るされた物干し竿に来ていた。よく、草の茎などに掴まって干乾びているバッタのように、動く気配がないので、見る者に、もしかしたらと思わせるところがあったが、物憂いような緩慢な動作ながら、力の漲る複眼の目玉を持つ三角形の頭をときに動かすので生きていることがわかった。こうして、かま子はカーポートの辺りを居場所にして今も過ごしている。
安心して落ち着けるところがないのか、それとも動くことに意味があるのか、定かではないが、そのうち車の屋根に取り付けられている樹脂性のアンテナに移った。アンテナは長さが二十五センチ、直径が二センチほどの円柱形で、屋根には斜めに取り付けられている。かま子にはここがお気に入りの場所になったようで、三日ほどそこに居続けた。
雨の日に車を走らせてもアンテナから動こうとする気配はなく、じっと掴まっていた。アンテナの太さがかま子には掴まりやすく、身を置くのに適していたのだろう。それもアンテナが車の後方に向けて斜めに取り付けてあるので、雨の日に車を走らせてもアンテナの裏側に身を移し、雨に濡れることもなく、風を遮ることが出来る。かま子には身重の身を少しばかり動かせば、このアンテナ棒での移動は容易く出来た。実にいいところを見つけたというふうであった。
けれども、このアンテナに卵を産みつけるわけにはゆかず、かま子には先行きの不安があるのではないかということが思われた。車はよく出かけるので、その都度、いろんな景色が見られ、自分ほどいろんなものを見ることが出来たカマキリはいないだろうという気持ちでいるのかも知れない。しかし、問題は卵を産む場所を見つけなくてはならないことである。アンテナ暮らしは、そこにしがみついて身を置き、時の来るのを待つほかにないという状況に違いなかった。じっと耐えているふうで、鎌を胸の辺りにたたんで頭を下げ、神さまに祈りを捧げているように見えた。
雨の日と晴の日が交互に訪れ、そして、山々に紅葉のときがやって来た。この間はモズの甲高い鳴き声がした。かま子には恐ろしく、嫌な声である。車を走らせるこの家の夫婦には見つかってしまったが、夫婦はやさしく、かま子に手出しをすることなく、見守って今にある。かま子には、そろそろ卵を産みつけるところを決めなければならない。立冬が近づいて、もうすぐ冬鳥の到来がある。霜が降りて一段と寒さも厳しくなる。かま子には卵を産んで、この世とおさらばであるが、この命題はどうしてもこなさなければならない。とにかく、この命題をこなすこと、かま子のそれまでの働きには辛抱が要ることである。
天気のよい今日はアンテナから離れて、また、物干し竿に掴まり、カーポートの屋根の支柱に取り付いて日の射す暖かな場所へゆっくりと移動を始めた。かま子には天地が裂けても、卵を産みつける命題は果たさなければならない。暫く支柱を登り、行く手を阻む主のいない蜘蛛の巣に出会い、粘着する糸に脚を取られ、大きな鎌でそれを外しにかかるという仕儀に至った。糸は一方を取り除くと、今度は別の脚に絡まるといった具合で、かま子は暫く難儀した。ずっと黙し、思想家を思わせるようなところが見られたが、蜘蛛の糸に絡まれたときは何かぶつぶつ言っているように感じられた。カマキリは半年ほどが一生で、その最後の最後に大仕事が待っている。で、お腹がもっと大きく膨らまなければその天命の大仕事は達成出来ない。だが、それももうすぐのところにある。
かま子は蜘蛛の巣の難儀も越え、暖かな晩秋の日射しを受ける位置に移動し、今は一休みといったところである。かま子の一生というのはフィニッシュによって決まる。卵を無事に産めなかったら一生は台無しになってしまう。卵の成熟に励むことはかま子の母性と彼女が負う神さまの負託に応えることに違いない。環境は生きるに厳しいものながら、母性とこの負託はかま子を懸命にさせ、生かしめている。写真はカマキリのかま子。