大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年11月29日 | 写詩・写歌・写俳

<1181> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (86)

          [碑文1]             宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに                          『万葉集』  巻 一 ( 7 5 )  長 屋 王

          [碑文2、3]          佐保すぎて寧楽の手向に置く幣は妹を目離れず相見しめとそ                    『  同  』 巻 三  ( 3 0 0 )   同

         [碑文4]               うまさけ三輪のはふりのやまてらすあきのもみぢはちらまくをしも                 『   同   』 巻 八 ( 1 5 1 7 )  同

  今回は悲運の皇子長屋王の万葉歌碑を見てみたいと思う。長屋王は天武天皇の長男高市皇子を父とし、天智天皇の娘である御名部皇女を母に持つ。正妃は天武天皇の次男草壁皇子(母は持統天皇)と天智天皇の第四皇女である元明天皇の間に生まれた吉備内親王である。天智と天武は兄弟であるから、長屋王は天皇家の濃い血筋にあることがわかる。この血筋が長屋王にはかえって影響し、悲劇を招く災いになったと言えるかも知れない。

  養老二年(七一九年)従二位、右大臣。神亀元年(七二四年)正二位、左大臣に昇り、同五年(七二八年)に皇太子の基(もとい)王(聖武天皇の第一皇子・母は光明子)が幼くして亡くなり、藤原氏は藤原不比等の娘である光明子を皇位継承権のある皇后に立てようとした。長屋王はこの立后に反対し、藤原氏と対立、長屋王の変によって同六年(七二九年)、妻子もろとも自害して亡くなった。五十四歳だった。その後、光明子は天皇家以外で初の皇后となり、藤原氏の地位を盤石にした。

 長屋王は詩歌を好み、平城宮近くの自邸佐保の楼に天皇、皇后をはじめ多くの貴族を招いてよく詩宴を催したと言われる。その宴席で披露された漢詩を集めてまとめたものが我が国最古の漢詩集とされる『懐風藻』である。で、長屋王は『万葉集』に短歌五首と『懐風藻』に漢詩三篇を遺している。

 以上が長屋王の概要である。言わば、父の高市皇子が持統、草壁、文武の血筋の影響を受け、天皇の地位をうかがうことが出来なったが、長屋王も一級の血筋にありながら聖武、光明子の藤原氏の血筋に阻まれ、その道を叶えることが出来なかったのである。これらのことを踏まえて歌碑の歌を見てみたいと思う。

                       

 碑文1の歌は、『万葉集』巻一の「雑歌」の項に見える(75)の歌で、原文では「宇治間山 朝風寒之 旅尒師手 衣應借 妹毛有勿久尒」とある。宇治間山は明日香村から芋峠(妹峠)を越えて吉野に入ったところの千股山ではないかと言われている。この峠越えは持統天皇の吉野行幸の際にも用いられたと思われる。歌は「宇治間山の朝風が寒い。旅なので、私に衣を貸してくれる妻もいない」という嘆きの歌であるのがわかる。歌碑はこの峠を越えた吉野町千股(ちまた)のスマイルバス上千股バス停近くの公民館広場の一角に建てられている。

 碑文2、3の歌は、巻三の「雑歌」の項に見える「長屋王、馬を寧楽山に駐めて作る歌二首」の詞書による(300)の歌で、原文表記では「佐保過而 寧楽乃手祭尒 置幣者 妹乎目不離 相見染跡衣」とある。佐保は奈良市法蓮町辺りで、寧楽山(平城山・奈良山)の佐保丘陵の麓の一帯をいう。手向は旅の安全を祈って道の神に幣を手向けることで、歌は「佐保を過ぎて奈良山にかかり、手向に幣を置くのは妻をいつも目から離さず、見ていたいという気持ちからだ」という意になる。

 これは一首目の歌で、二首目の(301)の歌は、「磐が根のこごしき山を越えかねて哭(ね)には泣くとも色に出でめやも」というもの。原文では「磐金之 凝敷山乎 超不勝而 哭者泣友 色尒將出八方」とあり、その意は「岩のごつごつした山を越えることが出来ずに声を出して泣くことがあっても、恋しい妻のことを決して出したりはしないつもりだ」ということになる。

 この碑文2、3の歌碑は奈良市歌姫町の添御県坐(そえのみいます)神社境内と同市佐保台西町のJR平城山駅前に建てられている。これらの歌碑に関わる三首は難渋する峠越えの心細い旅の途次に妻を思いながら詠んだもので、後に家族もろとも自害して果てる運命を思わせる心持ちに重なり、私には悲痛な歌に思えて来る。行く手を阻む峠の岩根は人生の行く手にもあって、塞ぎ、超え得なかった。

 次に碑文4の歌は、巻八のこれも「秋の雑歌」の項に見える(1516)の歌で、原文では「味酒 三輪乃祝之 山照 秋乃黄葉乃 散莫惜毛」とある。祝(はふり)は神職の意で、「三輪の神の山を照り映えるほどに彩っている秋の黄葉の散るのが惜しまれる」ということになる。この歌碑は桜井市の大神神社の境内に建てられている。

 今一首、巻三の(268)の歌があるが、この歌は「明日香より藤原の宮に遷りし後、この歌を作るか」という左注があるように、持統天皇八年(六九四年)藤原遷都があった十九歳のときの望郷の歌で、「わが背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり島待ちかねて」というもの。原文は「吾背子我 古家乃里之 明日香庭 乳鳥鳴成 嶋待不得而」とあり、その意は「あなたの古い家のある明日香の里には千鳥の鳴いているのが聞こえる。美しい庭泉を求めかねて」という具合である。

 この二首も、長屋王の思いに任せない心持ちの現れが見えるような歌であるのがわかる。『万葉集』の五首を総じてみても、恋歌などはなく、華やかな詩宴とは裏腹に、憂愁を纏った気息の歌である印象を受ける。これは長屋王の生立ちによるものであろうか、それとも環境によるものであろうか。おのがじしの抒情歌である短歌はその人の人となりを表わすと思えて来る。写真は左から吉野町千股の「宇治間山」の歌碑、歌姫町の添御県坐神社境内の「佐保過ぎて」の歌碑、JR大和路線平城山駅前の「佐保過ぎて」の歌碑、大神神社境内の「うまさけ三輪」の歌碑。  落葉踏み 歌碑を求めて 吉野路へ

 

 

 

 


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