大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年11月20日 | 写詩・写歌・写俳

<1172> 米国と中国、そして、日本 (6)

       国家とは果たして我に存在す つかず離れず そして 思ふに

 日本は極東の小さな島国であり、ほぼ単一民族の国である。人口は一億三千万人弱で、中国の約十分の一、米国の約三分の一である。この多民族国家である両大国に比べると日本は小国寡民の国と言ってよい。老子は小国寡民を国の形の理想として見たが、この考えは当を得ているように思われる。治政が行き届き、国がよくまとまるからである。老子が小と寡の基準をどの程度に置いたかは定かでないが、当時の中国において慮った言葉であろう。なので、日本の現状に合致するかどうかはわからないけれど、大国米中に比べれば、日本は小国寡民に違いない。

 それゆえ、大国米中は国土を細分化して共和国の形を採っている。その政治体制を見ると、米国は自由民主主義の公選による大統領制であり、中国は共産党一極が支配する社会主義の階級制により、日本は欧米に倣う自由民主主義を標榜する国であるが、天皇制による立憲君主国の色合いが強く、官僚支配体制にある。これは、英国やオランダ、北欧の国々、アジアではタイといった国に等しく、政治はもっぱら首相に権限を委ねる形で行なわれている。

 このような日本で、今、少子高齢化と過疎化が進み、世代間格差や地域格差、職域格差が問題になっている。敗戦後の私たちが子供のころは、戦争で多くの若い男子を失い、国が疲弊状況に陥ったため、産めよ増やせよで、一家族に子供五人というような家はざらで、三人はまず普通だった。私の郷里は瀬戸内の片田舎で、四十人一クラスの組が二クラスもあるほどだったが、今は学校が維持出来ないほど子供の数が減少し、町中の学校に統合されてしまった。話を元に戻すと、その人口は増え続け、一億人を突破し、人口抑制の対策が言われるようになるのであるが、産業変革の動向に合わせ、核家族の方針を採るに従って少子化が見られるようになり、結果、少子高齢化の著しい時代を迎えるに至った。

                                     

 日本はほぼ温帯に属する好緯度に位置し、四季に恵まれ、豊饒な山野に豊富な水が得られ、稲作を中心とする農耕民族としての歩みを進め、周辺を海に囲まれている関係で、昔から漁業が盛んに行われ、動物性タンパク質は主に魚によって摂取して来た。また、一方、災害の多い国で、これへの対処も必要な国である。こうした風土に基づき、欧米文化の導入がなされた明治時代以降、その影響によって変化が見られるようになって行き、敗戦後は第二次産業の工業化が進められ、工業製品の輸出によって外貨を稼ぐ道を選ぶに至った。結果、前述したごとく人口の都市部への移行が行なわれ、東京一極集中と地方の過疎化による疲弊が生じて来たのであった。

  このような状況下、日本への欧米の影響はいよいよ顕著になり、食生活にも変化を来たし、米のみでなく、小麦を材とするパン食が幅を利かせて来るようになった。また、肉も魚に匹敵するような状況を呈し、今日に至っている。そして、近年、中国やインド、韓国といった国々が先進国の仲間入りをし、急激に生産性を伸ばし、国力とそれに基づく競争力をつけて来たため、輸出に活路を開いていた日本には大きく影響を受けるところとなり、その圧迫によって思うに任せない経済状況が生まれているというのが現況と言える。そして、輸入圧力によって、農業も岐路に立たされる状況になっているのである。

 こうした外圧に曝されている政治的、または経済的状況の中、前述した国民を安心に導く六項目の課題が思われるわけであるが、六項目の何れを見ても安定し、堅実にあるものは一つだになく、国民には不安な要素ばかりが意識されるのが昨今の状況と言える。利便と物質的豊かさは幸せの条件に関わっているが、それ以上に安心ということが私たちの生活には求められる。この安心こそが国民の幸せの条件としてあげ得る。で、最初に述べた米国におけるデカルト的理性主義と中国における孔子の教えが脳裡を過るわけであるが、では、日本はどういう考えで取り組むのがよいのであろうか。現況は米国追随のやり方を採っているが、そこに日本の独特な試行錯誤の政策が見られ、常に不安と戦っている様相が見られ、一面には問われるところとなっているのがわかる。

 一例をあげれば、東日本大震災による津波の被害とそれにともなう東電の福島第一原発の事故の波紋がある。理性ある人間のやることに間違いはないとするデカルト的理性主義に基づく科学の信奉に裏づけられた原発の安全神話は福島の事故で大きく失墜し、米国が採って来たこの理性主義による物質優先の文明に疑問が発せられることになった。現在も事故処理は続けられ、四苦八苦しているが、日本という国は、このような状況を繰り返しながら試行錯誤して、自国の文化を作り上げて来た経緯がある。そして、そこには他国以上の知恵が要求されるところとなり、その知恵は自らの経験と他からの導入により、常に進化するものであることが思われる。

 社寺の多い土地柄の大和に住まいしているからでもないが、私には日本が多神教の国であることが大いなる特徴としてあることが思われる。この多神教の状況は日本人をよく表し、長い歴史の間に導入して来た外来の文化と元にある文化の和合折衷に通じるものとしてあり、排除の論理にはなく、共存の道を選んで来たことを物語るものと言える。これは日本人の謙虚な気持ちをもってある人間性の現れで、一神教の国とは異なる精神性の国であるということが言える。「以和為貴」は聖徳太子の十七条の憲法の言葉であるが、この言葉も日本人の精神の中に通じてあるもので、同じように捉えることが出来る。

 このように考えると、欧米、殊に米国のデカルト的理性主義の考え方も、中国の孔子の教えに基づく考え方も、日本はみんな取り入れ、これを自分のものにすべく、その精神性において知恵を働かせ、対処して来たように思われる。言わば、これは多神教や排除の方法は採らない和合折衷の姿に重なるところである。日本の歴史上には時に自らを奮い立たせて他国を攻める覇権主義に傾いたことも何度かあるが、その戦略は、白村江(はくすきのえ)の戦をはじめとし、ことごとく失敗し、国勢を衰弱させた。近代戦においても、日清、日露戦争には勝ったが、結局は太平洋戦争に至って敗れている。日本人にはこの教訓を知恵として考慮する必要があると思える。

 日本は昔も今も決して大国ではなく、極東の小さな島国で、海外との交流なしにはやって行けない国である。この事実を踏まえ、和合と共存の精神をして、どこの国とも親和関係を保つ努力がなされるべきで、平和の実績を有する現憲法を蔑ろにし、戦争の出来るような国にすることは、過去の歴史的事実を振り返って見てもすべきでないことが言える。それは、人間が如何に理性的であるとしても完璧ではないからである。  写真左はオバマ大統領と握手を交わす安倍首相。右は習国家主席と握手する安倍首相 (いずれもテレビ映像による)。  ~ 終わり ~