大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年11月11日 | 写詩・写歌・写俳

<1163> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (85)

             [碑文1]           ちとせあまりみたびめぐれるももとせをひとひのごとくたてるこのたふ                                 会 津 八 一

             [碑文2]            あめつちにわれひとりゐてたつごときこのさびしさをきみはほほゑむ                                    

 この碑文1、2は、会津八一が大正十年(一九二一年)に奈良大和を訪れ、斑鳩の里にも足を運び詠んだ歌で、歌集『南京新唱』に所収され、法隆寺境内の歌碑になっている歌である。今回はこの二つの歌碑について触れてみたいと思う。碑文1の方は、西院伽藍の五重塔を仰ぎ見て詠んだ歌であり、碑文2の方は、東院伽藍・夢殿の秘仏で知られる救世観音に対面して詠んだ歌である。

  碑文1の歌碑はこのほど建てられたばかりの真新しいもので、西院伽藍の一角、廻廊と西室(三経院)の間の五重塔を仰ぎ見る植え込みの中に南面して見える。一方、碑文2の歌碑は昭和五十四年(一九七九年)に建てられたものを移したもので、東院伽藍の一角、夢殿の北側、中宮寺に向う庭のこれも植え込みの中に南面して見える。

 法隆寺は推古天皇十五年(六〇七年)、聖徳太子によって建てられ、『日本書紀』によると、天智天皇九年(六七〇年)に焼失したとある。その後、七世紀後半から八世紀初頭に再建されたとされるが、その時期についてははっきりせず、その再建は論争の的になっている。一説によれば、五重塔に納められている塑像の製作年代等により、和銅四年(七一一年)ごろまでに西院伽藍は完成したのではないかと言われ、一方の東院伽藍の夢殿は、天平十年(七三八年)、行信によって斑鳩宮跡に造られたとされる。

 その後、法隆寺は平安時代に大講堂や鐘楼を焼失する火事に遭い、室町時代には南大門を焼く火災に見舞われ、昭和二十四年(一九四九年)には金堂の壁画を焼損する火災に遭っている。だが、ほかの建築物や仏像等は火難を免れ、江戸と昭和の大修理を経て現在に至っている。金堂と五重塔を中心にする西院伽藍の飛鳥時代の古建築群は世界最古の木造建築物として国宝に指定されるとともに、ユネスコの世界文化遺産にも登録されて今日にある。

                                        

 碑文1の歌は、「五重塔をあふぎみて」という詞書によって詠まれた歌で、漢字を交えて書くと、「千年余り三度巡れる百年を一日のごとく立てるこの塔」となる。「千年余り三度巡れる百年を」は「千三百年を」という意で、自註には「太子の千三百年忌が近しといふ印象の下に、おほらかにかく歌ひたるなり」と見え、加えて「この塔の頂上なる水煙は徳川時代の補作らしく、軒をめぐる鐙瓦のうちには三つ葵の文様のものありて、四代将軍家綱(一六四一~一六八〇)の生母なる桂昌院の寄進による大修理を経たることを示せり。されど、とにかく凡そ千三百年を一日の如く立ち尽し来れりと詠めるなり」と言っている。

 一方、碑文2の歌は、「夢殿の救世観音に」という詞書による歌で、「天地に我独りゐて立つごときこの寂しさを君は微笑む」となる。さびしいような心持ちにあっても、微笑みを絶やさない救世観音の境地を一人感じている歌であるのがわかる。救世観音は律師行信が当時の仏師に作らせたと言われる観音立像で、聖徳太子の身代わりとも言われ、いろいろと推理がなされている秘仏であるが、廃仏毀釈の明治時代に入って米国の東洋美術史家で哲学者のアーネスト・フェノロサによってぐるぐる巻きにされていた「凡そ五百ヤードの木綿を取り除き」公にされたことで知られる謎めいた神秘の仏像である。

 その姿は、等身大よりやや大きいが、聖徳太子を連想させると言われ、秘仏の意味がいろいろと取り沙汰されるところとなって物語られている。骨壷を持った両手を胸下に置くほぼ左右相称のシンメトリックな姿ですらりと立ち、何とも言い難い微笑を湛えている。この微笑についてフェノロサはモナ・リザの微笑に比したが、『古寺巡礼』の和辻哲郎は、モナ・リザに見られる淋しさにはなく、仏が有する慈愛の微笑であると捉えた。

 では、この救世観音の微笑む表情に感を得た八一は如何にその「ほほゑみ」を捉えたのであろうか。碑文2の歌の自註は次のように言っている。「中国六朝時代の造像には、常に見慣れたる類型的の微笑ありて、夢殿の本尊もその一例なるを、ここにてはこの像の特別なる表情の如く作者の主観として詠みなせり。また中国六朝時代より我が国の飛鳥時代に波及せる一種の微笑的表情を、遠く希臘のARCHAIC時代の彫刻にその源流を帰さんとする学者、わが国には一人のみにあらざるも、所謂ア―ケイック時代は、耶蘇紀元を遡ること五世紀を超ゆるに、我が飛鳥時代はその紀元後七世紀なれば、千二百年を中にして、突如として遠隔せる東洋に影響し、しかもその中間には一もこれを中継せる伝承の経路を明らかにせずとせば、これを以て学術的提説とはいふべからず、云々」と。

  モナ・リザの微笑と仏の微笑は違い、真似たものではないと言っている。この点からすれば、この救世観音の微笑を仏教的東洋の微笑として捉えた和辻哲郎と同じ見方をしたものと言ってよいように思われる。 写真左は碑文1の歌碑(右後方は五重塔)。右は東院伽藍に見える碑文2の歌碑。  冬の雲 行かしめ 塔の立ちゐたる

  [追記]  碑文2の歌碑は、会津八一を敬愛していた斑鳩の歌人原玉泉(故人)が夢殿の直ぐ北側の自邸の庭に建てていたのをこのほど遺族から寄贈されて移したもので、碑文1の歌碑とともに除幕された。「法隆寺東院にて 秋艸道人」と刻まれている。なお、この「あめつちに」の歌は、このほど亡くなった孤高の映画俳優高倉健がいつも手元に置いていた台本に種田山頭火の句などとともに貼って励みにしていた歌である。