大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年11月25日 | 写詩・写歌・写俳

<1177> 道  (2)

       老いそめて なほもある道 時の道 この身はつまりこの道にある

 道には往来する通路としての実際の道のほか、今一つ、人生、即ち、一生の生き方に関わる精神を象徴する意味の道がある。即ち、男の道、女の道、迷わば大道を行くべしと言えば、道を極めるともいう。また、道理、道徳、正道といったような用い方。専門分野や宗教の教えなどを指す道もうかがえる。例えば、茶道、華道、柔道、仏道、神道等々。ところで、道は極め難く、中途で挫折する者や横道に逸れる者がある。で、道を極めた者は称賛され、顕彰されることになる。けれども、人生自身が道であるからは、評価の如何に関わらず、大方は人生の道を尽くし終わるとは言える。

 この精神上の道について、斎藤茂吉の第二歌集『あらたま』に「あかあかと一本の道とほりたりたまきはるわが命なりけり」と詠んだ歌が見られる。この歌について、茂吉は「秋の一日代々木の原を見わたすと、遠く一ぽんの道が見えてゐる。赤い太陽が團々として轉がると、一ぽん道を照りつけた。僕らは彼の一ぽんの道を歩まねばならぬ。云々」と自註している。歌にこの自註を重ねてみると、この道が単なる道より心に至る茂吉の人生の道であるのがよくわかる。

 この自註は大正二年七月三十日に師の伊藤左千夫が亡くなったとき「左千夫先生追悼号」に寄せて書かれたもので、所属する結社アララギ、つまり、短歌を双肩に担って行かなければならないとする決意のようなものがそこにはうかがえる。言わば、ここで述べている道とは歌の道で、茂吉には、誇張表現と受けとめられるところなきにしもあらずであるが、この道は、「たまきはる命なりけり」ということで、実景の写生以上のものであって、人生そのものに譬えた象徴たる道ということになる。この歌の後には「野のなかにかがやきて一本の道は見ゆここに命をおとしかねつも」という歌も見える。この一首も歌の道への思いを詠んだもので、前の歌より続く歌であるのがわかる。

                                

 俳句で言えば、種田山頭火に「この道しかない春の雪ふる」という句がある。昭和九年(一九三四年)の句で、五十三歳、晩年の作である。この句に示された「この道」は行脚の修行をしながら句作に励むことへの思いと取れる。昭和九年二月の日記に「やうやく句集壱部代入手、さっそく米を買ふ、一杯ひっかける、煙草を買ふ。…… 四日ぶりに御飯を炊く、四日ぶりにぬく飯をたべる、あたゝかい飯のうまさが今更のやうに身にしみる。酒もやっぱりうまい、足りないだけそれだけうまい。山を歩く、あてもなく歩くのがほんたうに歩くのだ、枯木も拾ふたが句も拾ふた」とある。

 続いて、「味ふ、楽しむ、遊ぶ――それが人生といふものだらう、それ自体のために、それ自体になる――それがあそびである、遊行といふ言葉の意義はなかなか深遠である。仏法のために仏法を修行する、仏法をも忘れて修行するのである」とも述べている。山頭火の当時の生活状況と修行者としての境地を示すもので、「この道」に精進することへの思いに重なって受け取れる。道とは精神的な意味における道、このようにも言われるところがある。この句に表現された道も比喩の道で、象徴としてあることが言える。 写真はイメージで、道。「旅は道連れ、世は情け」であるが、この諺は裏返しの言葉ではなかろうか。所詮、人生の道は独りで歩くことを余儀なくされている。その余儀ないところを互いに認め合い助け合いながら行くべきことをこの諺は言っていると知れる。

 


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2014年11月24日 | 写詩・写歌・写俳

<1176> 道  (1)

       幾人が往きしか知らず 遠代より今に及べる山の辺の道

 小春日和の続く今日は山の辺の道の檜原神社から大神神社を往復し、心地よい汗を搔いた。休日とあって歩く人が多く、大神神社では七五三を祝う晴れ着の子供たちも見られた。歩きながら道について考えを巡らせることになった。道(みち)は路、径、途とも言う。岩波『国語辞典』によると、人や車などが通る所。通路、道路、往来の意。みちのり、道程の意。途中を表わす意。また、人が踏み行なうべきこと。道徳、道理。そして、その人が手がけている方面のことなどという説明がある。

 所謂、道は、歩くという言葉や走るという言葉とともにイメージされて用いられることが思われる。『奥の細道』は松尾芭蕉が行脚によって辿った東北(みちのく)から北陸方面を巡った際の俳句を交えた紀行文である。乗り物がなかった昔の人は現代人よりもよく歩いたと言ってよい。現代でも乗り物が使えない山道などでは歩く。私も山歩きをするので、よく歩く方かも知れない。

  考えてみると、職業にもよるが、通常の生活で言えば、概して若いときよりも、老年の域に達してからの方がよく歩くような気がする。殊に、私の場合は定年になってから山歩きを始めたので、この例にあてはまる。とにかく、昔の人の方が今の人よりも相対的によく歩いたと思われる。で、芭蕉ほどよく歩いた人はいないのではないという気がする。

                  

 ところで、大和には日本最古の道として知られる山の辺の道がある。奈良盆地の東の山々に沿って桜井市から奈良市にかけて南北に続く自然歩道になっている古道がある。これが山の辺の道で、天理市の石上神宮より南方面がよく整備され、歩く人も多い。「すべての道はローマに続く」と言われるが、これは、どの道を選んでも行き着くところはローマであるという意で、「真理は一つ」という意にも用いられているが、この道も古い道と言える。もちろん、現存するかどうかは知らないが。

 また、大和には標高一三〇〇メートルから一九〇〇メートルの大峰山脈の尾根筋に見られる険しい山岳の修験道の行場の道で知られる大峯奥駈道がある。この修行の道は「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとして平成十六年(二〇〇四年)、ユネスコの世界文化遺産に登録されている特異な道で、全長約百七十キロに及ぶ遥かな天空の道である、

 それにしても、日本ほど固執して道を造って来た国はないのではなかろうか。人口減少にあり、もうこれ以上新しい道路など必要なかろうという意見もそこここに言われているが、止める気配はない。造れば造るほど維持費が嵩む。そういうことも計算に入れなくてはならないが、それよりも、現状に沿うことの方が政治には大切なのだろう。道一つを概観しても、この国の計は甚だ覚束ないことが感じられる次第である。 

 なお、路は主に太い道を繋ぐ横道のことで、広く道全般を指す。径は回り道をしない真っ直ぐな道のことで、概ね小道を言う。途は長く平らに延びた道で、みちのりをいう。写真は日本最古の道とされる山の辺の道とイチョウ並木が美しい彩を見せる国道二十五号(天理市内で)。

 

 


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2014年11月23日 | 写詩・写歌・写俳

<1175> 町おこしの光景

       小春日や 老いが背にする 暖かさ

 近年、大和の各地ではその地域の特色を生かして町おこしや村おこしをしているところが多く見られる。大小の差はあるものながら、ほとんどの市町村で、この催しは行なわれているのではなかろうか。その催しをうかがえば、その催しの活動に特徴のあるのがうかがえる。一つにはその地域が有する歴史に基づき、昔を偲ばせる行事などを中心に行なうもの、今一つにはその地域の特産物によって行なう場合がある。

 最近、疲弊する地方を創生しようという動きが国の政策にも見受けられるが、地方はその疲弊に対していろいろと苦慮し、こうした町おこしや村おこしをするところが増えて来た。そこには市町村の行政と一般団体の協力が欠かせないところであるが、その魅力的運営はやはり需要側の印象によるところが大きいと言ってよかろうかと思われる。

            

 今日はそういう町おこしの一つである斑鳩の里のまちあるきマーケットの「常楽市」という催しに出かけてみた。「常楽市」というのは、斑鳩町の龍田神社を中心に開かれていた「竜田市」と同じく、鎌倉時代から江戸時代の末ごろにかけて法隆寺東南の地にあった常楽寺(明治時代のはじめに廃寺になったと言われる)の門前で開かれていたもので、このときの盛況に倣って、この一帯の商店や古民家など約七十店舗が出店して開き、町中を歩いてもらおうという企画である。なお、「竜田市」も復活している。

 「常楽市」には猿楽などの催しが行なわれていたとされ、今年からはこれに倣ってメインステージを設置し、和太鼓やダンス、筝曲演奏、マリンバコンサートなど演芸も加えられ、華を添えた。大和は好天に恵まれ、小春日和の一日で、朝から大勢の人が繰り出したが、法隆寺の参拝者とは流れを異にしているところが見られた。今後、この市をもっと盛り上げるには歩行者天国を考えるなどし、回を重ねて知名度を上げ、法隆寺の参拝者も取り込むような工夫が求められるような気がした。写真は二枚とも「常楽市」の町歩きでにぎわう斑鳩の里の三町付近。

 

 

 


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2014年11月22日 | 写詩・写歌・写俳

<1174> 俳優高倉健の訃報に接して

       それぞれが語る端々聞き及ぶ 健さん貴方の逝きし晩秋

    

 映画俳優の高倉健が亡くなった。享年八十三歳。私生活を全く見せない俳優だった。任侠ものから人情ものまで何作品か見ているが、1977年作品の「幸福の黄色いハンカチ」がもっとも印象に残っている。ストイックで寡黙な人の印象が強いが、生前接した人々の彼への人物評はよくしゃべるやさしい心遣いの人だったという。だが、ほとんどのフアンにはそのような印象はなかったのではないか。そういうフアンの一人として、この度の訃報に接した次第で、ここに少しく俳優高倉健に寄せる歌を作るに至った。

 不束にも歌は私自身の気持ちに帰るところがある。これは私が私自身の心を締め付けるもので、俳優たる彼の知ったことではなかろう。言うならば、これは私の至らなさから来るものにほかならない。このことを思うにつけ、彼の映画俳優としての道に対する厳しさが思われるところである。ただただご冥福をお祈り申し上げるのみである。以下は、映画俳優高倉健、彼への追悼の歌である。 写真は左が「幸福の黄色いハンカチ」の一シーン。中が「単騎千里を走る」の中国ロケで。右は「網走番外地」のワンカット(いずれもテレビ映像による)。

      行き着けず戻れず 健さん ねえ健さん 律し切れざる不束にゐる

     思ふこと尽きぬがゆゑに生はある 孔子思へば 孔子に惑ひ

     男とは斯くあるべしと思はしむ 健さんあなたの旅の端々

     スターとは貴方のやうな人を言ふ フアン一人一人の彼方

     美は一つ 思ひて忍び尽くすこと 黙して立てる一樹のやうに

     貫きし美学と辛さの等しさを単騎は千里走り遂せり

     言葉とは思ひのゆゑにあると知る 言葉とともに ありし人生

     人生の景色は死後に開かるる そんな貴方の今日の印象

     コーヒーはいいよね 健さん 飲みながら貴方の映画見てゐたくゐる

 


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2014年11月21日 | 写詩・写歌・写俳

<1173> 霜月の朝

        霜月の あるほどもなき 朝の月

 今日は久しぶりの快晴になり、朝方は冷え込み、大和ではかぎろひ現象が見られるとともに、平野部にも霜が降りた。鴨の飛来が見受けられる池には水蒸気が立ち、水と大気の温度差がうかがえた。紅葉は里山にも見られるようになり、暦の上だけでなく、秋から冬への感じ、池にはこれから鴨などの水鳥が徐々に増えて来るはずである。昼は小春日和となって暖かかった。

          かぎろひの 見ゆる彼方は 伊勢の国               霜月や 実は落ちてこそ 実効す              鴨の朝 漁りゐるあり 泳ぐあり

          小春日の どこかのどかな 奈良大和               柿食へば 遠くに烏の 鳴く声す        霜の朝 ウオークの人の 白き息

                                                     

        写真左はかぎろひ現象の見られる東の空に微かに見える繊月 (山並は竜王山から初瀬山方面)。 右は水蒸気が上がる池で泳ぐ鴨。