<1165> 鳥 の 歌
雁が来る季節を言へる雁来月また敷島のやまと歌燃ゆ
葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ 志貴皇子
吉野なる夏実の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山陰にして 湯原王
思ひ出でて恋しき時は初雁の鳴きてわたると人知るらめや 大伴黒主
帰る雁今はのこころ有明に月と花との名こそ惜しけれ 藤原良経
桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る 高市黒人
和歌の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺を指して鶴鳴き渡る 山部赤人
淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心も萎に古思ほゆ 柿本人麻呂
淡路島通う千鳥の鳴く声にいく夜寝ざめぬ須磨の関守 源 兼昌
かささぎの羽に霜ふり寒き夜を独りか寝なむ君を待ちかね 柿本人麻呂
鵲の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける 大伴家持
あしひきの山鳥の尾の一峰越え一目見し児に恋ふべきものか 読人しらず
山鳥のほろほろと鳴く声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ 行 基
春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげに鶯鳴くも 大伴家持
鶯のなけどもいまだふる雪に杉の葉しろしあふさかの山 後鳥羽院
ほとゝぎすなくやさ月のあやめぐさあやめもしらぬこひもするかな 読人しらず
ほととぎすそのかみ山の旅まくらほのかたらひし空ぞ忘れぬ 式子内親王
うづらなく真野の入江の浜風に尾花なみよる秋の夕ぐれ 源 俊頼
夕されば野べの秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里 藤原俊成
うらうらに照れる春日に雲雀あがり情悲しも独りし思へば 大伴家持
雲雀あがる春べとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく 同
あしひきの八峯のきぎしなき響む朝明の霞見ればかなしも 同
雉子鳴く交野の原を過ぎ行けば木の葉も殊に色づきにけり 曽根好忠
名にしおはばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと 在原業平
鴎ゐる沖の白洲にふる雪の晴れ行く空の月のさやけさ 源 実朝
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮 西 行
暁の鴫の羽がきかきもあへじ吾が思ふことの数を知らせば 土御門院
大倭には鳴きてか来らむ呼子鳥象の中山呼びぞ越ゆなる 高市黒人
雎鳩(みさご)ゐる磯廻に生ふる名乗藻の名は告らしてよ親は知るとも 山部赤人
阿倍の島鵜の棲む磯に寄する波間なくこの頃大和し思ほゆ 同
夕されや檜原の峰を越え行けばすごく聞こゆる山鳩の声 西 行
夕立の雲間の日かげ晴れそめて山のこなたをわたる白鷺 藤原定家
以上、これらは『万葉集』巻一の志貴皇子(七世紀)から『土御門院御集』の土御門院(十二世紀)までに見られる和歌全盛時代の短歌から抽出した鳥を詠んだ歌である。和歌にはほかにもまだ鳥の出て来る歌はあるが、これらの歌群を見ていると、鳥の種類は案外少なく、昔の人が限られた鳥に興味を持っていたことがうかがえる。中でも多く詠まれているのは雁(かり)と千鳥(ちどり)と時鳥(ほととぎす)で、鶴(つる)や鴨(かも)も多く、みな渡り鳥であり、季節を感じさせる鳥がほとんどであるのがわかる。
雁や鶴のような大型の鳥については、その姿が目立つので、採り上げられるのもそれなりにわかる気がするが、あまりポピュラーでない時鳥と千鳥には昔の人がなぜこれほどまでに執着したのか不思議な感がある。これに関しては時鳥の歌を見ればよくわかる。ほかの鳥でも言えることであるが、時鳥の場合、ほぼ百パーセント鳴き声を詠んでいる。これは、当時の人たちが時鳥の独特の鳴き声に夏の到来(自然の移り変わり)を感じたからで、自然とともに暮らしを営んでいた当時にあっては至極当然のことだった。
また、鳥の捉え方において「西洋では視覚的傾向が強いのに対し、東洋では聴覚的傾向が強い」(大田眞也著『スズメ百態面白帳』)という具合で、日本でも鳥は鳴き声に関心が持たれた。池にやって来る鴨のにぎわいにしても、姿のみではなく、声によるにぎやかさがある。その集まる鴨たちの鳴き声は和やかで、見ていて飽きないところがある。
今日は北西風の強い冬型の空模様になり、寒くなったこともあって、冬の渡り鳥のことが思われ、雁の歌を思い出し、和歌における鳥について見ることにした。雁と鴨は異なる水鳥であるが、私の気分の中では晩秋、初冬のころ北国からやって来て池沼等で冬を過ごし、春にまた北へ帰って行く同じ水鳥の印象がある。 写真は池で寛ぐ鴨の群。