大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年11月01日 | 写詩・写歌・写俳

<1154> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (84)

                 [碑文1]              秋萩の散りのまがひに呼びたてて鳴くなる鹿の聲の遙けさ                                   湯 原 王

                 [碑文2]              夕されば小倉の山に臥す鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも                                雄略天皇

 今回紹介するのは、鹿の鳴き声に関して詠まれた万葉歌の歌碑である。碑文1の歌は『万葉集』巻八の「秋の雑歌」の項に収められている(1550)の歌で、湯原王の作。碑文2の歌は巻九の巻頭を飾る「雑歌」の項に見える(1664)の歌で、雄略天皇御製とある。この御製歌については、「臥す」を「鳴く」と表記した同じ内容の歌が、巻八の「秋の雑歌」の冒頭(1511)の歌に舒明天皇御製として見える。

 湯原王(ゆはらのおおきみ)は志貴皇子の子、即ち、天智天皇の孫で、光仁天皇の弟。政治の表舞台に登場の形跡がなく、生没がはっきりしていない。兄が天皇になったことにより、親王の位を得たとされる奈良時代前期の代表的歌人で、『万葉集』に短歌十九首を遺している。 「吉野なる菜摘の川の川淀に鴨そ鳴くなる山蔭にして」(巻三・375)など父親譲りの歌才が言われている。

 雄略天皇は第二十代安康天皇の同母弟で、安康天皇が暗殺された後、皇位継承者と思われるライバルを次々に倒し、初瀬朝倉宮(桜井市黒崎付近が伝承地とされる)に第二十一代天皇として即位した。一説には中国の史書に言う讃、珍、済、與、武の倭の五王の武に比定され、五世紀後半の英雄的存在の天皇で、大和朝廷をつくり上げた一人とされている。名は大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけのみこと)で、『万葉集』の巻頭を飾る「籠もよ み籠持ち 掘串もよ 掘串持ち ―」の求愛の長歌はよく知られる。(このブログ<925>大和の歌碑・句碑・詩碑(65)を参照)。

                 

 碑文1の歌については、「まがひ」が入り乱れる意で、「秋萩のしきりに乱れ散るとき、呼び立てて鳴く鹿の声の遠くから遥かに聞こえて来ることよ」と解せる。この歌に詠まれている「散り」というのは花か色づいた葉か。萩は花もさることながら、黄葉する葉も意識され、歌には詠まれている。

  この鹿と紅葉の取り合わせは昔からで、花札などでも見られる通りである。ということであれば、この歌の「秋萩の散りのまがひに」は花よりも葉と見てよいように思われる。鹿は繁殖期の秋に雄鹿が雌鹿に送るラブコールで、その声はかん高く、遠くまで聞こえる。これは萩の花が見られる秋口よりも紅葉の季節にピッタリで、この歌も黄葉した葉を言っているとみるのがよいのではないかと思われる。

  碑文2の歌については、「小倉の山」を桜井市内の山と見て、歌の意は「夕方になると小倉の山に臥して寝る鹿は、今宵は鳴かない。どうも眠ったようであるよ」となる。いつもは鳴き声が聞こえて来るのにこの夜は聞こえて来なかったというほどである。雄鹿には求愛が成就されたのかも知れないとも想像される。雄略天皇は武に長ける人物であったようだが、歌にはやさしい一面が見られる。

  なお、湯原王の碑文1の歌碑は東大寺三月堂から若草山の登山口に向かう途中、手向山八幡宮の境内地の一角に書家村上三島の揮毫によって建てられている。一方、雄略天皇御製と言われる碑文2の歌の碑は、初瀬朝倉宮伝承地に当たる桜井市脇本の旧伊勢街道の春日神社と朝倉小学校の中間地点に京大総長平澤興の筆によって建てられている。   哀れとも 聴けばきこゆる 鹿の声