つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

岐阜新聞に続いて入選

2024-04-09 | 岐阜県
 昨日は、岐阜新聞に月見草会員の伏屋さんが入選されました。私が入選した時より嬉しかったです。当初彼女が郡上市大和町短歌大会に入選し、その表彰式で、岐阜新聞短歌欄の選者、小塩氏から投稿するよう声をかけられたからです。その後全員に投稿をすすめ、こういう結果になりました。

 昨日の英会話の最初のテーマは、西洋の迷信。鏡を割ると不吉なことが七年起こり、それを収めるには自分の肩に塩をふりかけるのだそうです。13日の金曜日のことは絶対的に不吉と信じられているようです。他に驚いたことは、満月の日には自殺が起こるのを想定して精神病院では医師の数をふやしているとか・・・日本の丙午の迷信にも触れられました。2年後です。息子も丙午生まれですが、支障にない暮らしです。下段の写真は我家のハナモモ。





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20年ぶりの谷汲山華厳寺

2024-04-07 | 岐阜県
 昨日は最後の眼科診察に従弟の眼科クリニックに向かいました。順調に白内障の手術後も恢復しているようです。午後は、20年ぶりに薄墨桜を見に長男の運転で向かいました。ところがあと6kmで渋滞に巻き込まれ、行き先を谷汲山華厳寺に変えました。ユーターンするとき、車寄せで、そこから見えていた能郷白山を撮影しました。
 谷汲山も花見の人で賑わっていました。こちらも20年ぶり。子供のころから来ていますので10回目くらいでしょうか。西国33ヵ所札所の33番目。満願の寺でもありますし。夫も私も80代で多分これが最後の参詣になると思います。
 何度も訪れているのに、今回初めて気づいたお堂があります。池の中にあり、石橋で渡る、地蔵堂。入り口近くにあり、本堂を目指しているので気付かなかったのでしょう。
 帰途、古田織部記念館にも寄り、岐阜の生んだ偉人を偲びました。ここは初めて。長く生い立ちは知られていなかったのです。100歳歌人の久野治氏が伝記を出して、岐阜県芸術文化賞を受賞されました。


能郷白山


谷汲山華厳寺



地蔵堂








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手作りお菓子 76

2024-04-06 | わが家
 昨日は整体師のNさんからまた、手作りお菓子を頂きました。メニューは、ヨーグルトプリン、あんこパイ、チョコシフォンケーキでした。どれも美味しく有難く頂きました。あんこパイの餡は、いつも小豆からお義母さまが時間をかけて作られるらしく、とてもまろやかで、昔の味がします。

 予定通り長男が来てくれ、古紙の運搬、買い物などいろいろ手助けしてくれました。今日は二ヶ月ぶりの眼科検診に乗せて貰うことになっています。従弟が院長の眼科で昨年白内障手術をすませ、順調です。食事はいつものように外食としました。
 今年は雨天が多くて、庭師さんの日程も遅れがちのようで、ようやく一昨日から四人で剪定に入られました。いつもは三月に手入れして頂くのですが・・・



手作りお菓子


お昼はランチ


晩は中華で ここにお粥とスープがつきます

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金日成政権の確立

2024-04-05 | Weblog

田母神俊雄氏のメルマガより

金日成政権の確立


〇 ソ連による金日成指導体制の確立

金日成が依拠する共産党組織は、
当初1945年10月に朝鮮共産党北部朝鮮分局
という形で結成された。

これが後に北朝鮮労働党を経て
朝鮮労働党となった。

日成は、ソ連の後押しで、
朝鮮労働党中央委員会委員長に推戴され、
実権を握ることになった。

朝鮮労働党こそが、
金日成が独裁体制を構築するうえで
不可欠の屋台骨となるものであった。

このシナリオを描き、実現させたのは
ソ連軍民政担当のイグナチェフ大佐であった。


民主主義国家においては、
選挙という平和的な
「権力闘争の仕組み」があるが、

共産党独裁国家においては
仁義なき権力抗争が行われ、
敗れれば粛清の憂き目にあう。

今日、孫の正恩が、
金王朝三代目として
政権基盤強化に腐心している。

2013年12月には、張成沢――
叔父(正日の実妹・敬姫の夫)で、
後見人的存在――が

「国家転覆陰謀行為」により死刑判決を受け、
即日処刑された。

選挙のない北朝鮮においては、
祖父・金日成の時代から永続的に、
絶え間ない仁義なき権力抗争が
水面下で繰り返されているのだ。


権力抗争において、金日成の最大の強みは、
ソ連占領軍から"御指名を受けた人物"
であることだった。

イグナチェフ大佐が、
金日成の庇護者として君臨していた。

そのような訳で、党創立大会では、早くも
「金日成同志は、『唯一の指導者』であり、

金日成同志をけなすものがいるとしたら、
それは反動であり裏切り者である」
と演説する者が現れた。

朝鮮民族特有のメンタリティである
事大主義(長いものには巻かれろ)は、
ソ連が北朝鮮を統治する上で、
殊の外便利であったに違いない。


〇 金日成の“政敵”と味方

金日成には、対抗せざるを得ない政治的党派
――“政敵”――が四つ存在した。

第一の、そして最大の党派は
朝鮮国内の共産主義者、
いわゆる国内派であった。

彼らは日本統治下で朝鮮国内に留まって
地下活動を続けてきた者達であった。

代表的人物に、朴憲永がいた。


第二の党派は、中国帰りの革命家達で、
延安派と呼ばれる集団であった。

代表的人物としては、
武亭、崔昌益、金枓奉などがいた。


第三はソ連軍と共に朝鮮に戻り、
ソ連軍が撤退した後も北朝鮮の政治に
関わり続けた朝鮮系ソ連人、
いわゆるソ連派であった。

代表的人物としては、許カイがいた。


これに対して、金日成を支える党派は、
パルチザン派とよばれた。

彼らは独立・建国を目指していた
朝鮮地域から見て国外である

満洲(中国東北部)とソ連領土を
拠点に活動していた為、
「国外パルチザン派」とも呼ばれた。


彼らは、満州における
抗日パルチザン闘争以来
金日成に従ってきた共匪あがりの人達で、

心から金日成に忠誠を誓っていたが、
いかんせん少数で、その数は、
200名に満たなかった。

パルチザン派の要人としては金日成、崔庸健、
金策、金一、朴成哲、李鐘玉、呉振宇、
李乙雪、林春秋、金東奎、呉白龍、李斗益、
金光侠、崔賢、姜健、徐哲などがいた。


なお、パルチザン派の中には、
第二次世界大戦後の朝鮮半島内の北半部の
体制(のちに朝鮮民主主義人民共和国となる)
に参加したグループがおり、

「甲山派」あるいは「国内パルチザン派」
とも呼ばれた。

のちに北朝鮮の建国活動、
及び統治機構に加わるが、やがて
北朝鮮内部の権力抗争に敗れて粛清される。

甲山派には李孝淳、金道満、朴容国、
許錫宣などがいた。


〇 金日成が権力の座に就くことができた事情

第一には、ソ連占領軍の存在、
特にイグナチェフ大佐による
バックアップである。

第二は、朝鮮が38度線で
分断されたことだった。

このことにより、
金日成のライバルになることができる
知名度の高い古参の革命家たちは、
殆ど南部朝鮮に偏在していた。

これら名の知れた革命家たちは、
「ソウルは朝鮮の首都であり、
朝鮮の政治の未来は平壌ではなく
ソウルで決まる」と考えていた。

第三は、金日成に対抗できる三つの党派
――国内派・延安派・ソ連派――が、
共同作戦を組んで、

単一の政治家を押し立てようとする
動きを示さなかったことである。


国内派すべてが朴憲永を
支持しているわけではなかった。

また、延安派のすべてが、
金枓奉を押しているわけでもなかった。

さらに、ソ連系朝鮮人は、
自分たちをそもそも一つの党派と
考えてはいなかった。

面白いことに、ソ連派は、
「金日成はソ連軍当局が選んだ人物である」
という、ただそれだけの理由で
金日成を支持したのだ。


〇 金日成による最初の粛清

金日成の人殺し――粛清――は
彼がソ連から北朝鮮に戻った
直後から始まった。

その最初の生贄は、
金日成のライバルとなりうる
北朝鮮地域における共産主義者の代表だった
玄俊赫(ヒョン・ジュンヒョク)であった。

金日成は(イグナチェフ大佐も)、
玄を排除しない限り自分がトップに
のし上がれないと判断したのだろう。


玄俊赫は金日成が平壌に入城した1週間後の
1945年9月28日に、民族主義者代表の
曺晩植(チョ・マンシク)と一緒に

トラックに乗っているところを
暴漢に襲われ死亡した。

金日成とイグナチェフ大佐の
共謀が疑われるという。


〇 金日成の保身術

"新生北朝鮮の首班"に推戴された金日成が
政敵から首班の座を脅かされないための術は、
ひたすらソ連に忠誠を尽くすことだった。

建国前後から、北朝鮮は
「プロレタリアートの祖国」たるソ連の
圧倒的な影響下に置かれ、

日成は「極東の衛星国」の「支配人」
に選ばれたわけであり、スターリンの期待通り、
言われるままに務めておる限りは、
クビになることはなかった。


〇 ソ連軍撤退後の金日成政権自立に備えた布石
  ――北朝鮮軍の建軍と保安組織の確立


ソ連占領軍は、侵入後一年もたたないうちに
1万の兵を残して、
3万の兵力を欧州正面に転用し、
48年12月には、ほぼ完全に撤退した。

ソ連軍がいなくなっても、
その威光がすぐになくなるわけではないが、
金日成は、権力を維持・確保するために

ソ連軍に代わる自前の軍と保安組織
(治安・警察機能)を立ち上げることが
死活的急務であることを知っていた。


日成はソ連軍当局の支援を得て、
建国宣言に先だって、
48年2月8日に朝鮮人民軍を創建した。

これに先立ち、46年末までに
四つの訓練所を開設し、
2万人の軍将校の養成を開始した。

士官候補生は、
当初はソ連軍から直接訓練を受け、
その後は教育訓練のためにシベリアに送られた。

その数はおよそ1万に達した。

軍の要職はパルチザン派が主流を占めた。

建国後は、約1年の間に約4万人が徴兵された。

朝鮮人民軍は戦争1年前の49年の時点で
6万の兵を擁し、三個師団で編成されていた。


また、保安組織としては、
正規の警察1万2千、政治思想警察3千、
秘密警察5千を組織し、

日成が初代保安隊司令官に就任したほか、
要職はすべて金日成を支えるパルチザン派が
実権を握っていた。

このようにして、金日成・パルチザン派は、
軍と保安組織を完全に掌握し、
政権基盤を確固たるものにした。

北朝鮮の金王朝政権を究極的に支えるものは
今も昔も軍と保安組織である。

写真はオウバイ


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天国と地獄の北朝鮮 3

2024-04-04 | Weblog
福山隆氏のメルマガより

前回は、
「金正日の女性遍歴」
について書いたが、

今回はその続きとして
「喜び組」について
書くことにしたい。

喜び組は
1970年代初めに、

金正日が全国から
美女を集めて、

金日成の別荘に
配置したのが始まりだ。

これを母体に、
1983年末には、

金正日自身のための
喜び組が生まれた。

喜び組(18歳から25歳)は
性的快楽のための「満足組」

疲労回復の為の
マッサージをする「幸福組」

ダンサーや歌手などの
「歌舞組」に分かれる。

喜び組の選抜は、
保衛総局が担当し、

毎年、学期初めに、
全国人民学校4年生
(9~10才)から、

金正日好みの
「細身でふっくらした
丸顔の美少女」を50人ほど選ぶ。

少女たちは、
その後20歳まで、

処女のままであるように
しっかり管理される。

彼女たちは、
「性を“売り”にする」
人身御供であるが、

両親が党幹部であっても
拒否できなかった。

喜び組は、表向きの任務は
「昼夜休まず
革命事業に没頭している

首領・金日成と金正日の精神的・
肉体的疲労を癒すこと」である。

そのために、彼女たちは
破格の待遇を受けた。

住まいは、特別居住区の
超豪華マンションで、

無償支給される日用品は
日本製だった。

また、金正日と
ベッドを共にした女性には

サインの刻印入りの
オメガの時計が下賜され、

大臣クラス以上の
待遇が保障された。

その真意は、
「口止め料」ということだろう。

喜び組が25歳を過ぎると、
高官(軍将校)などに
妻として下賜された。


◉ 金正日主催の乱痴気パーティー

金正日は
パーティー狂いだった。

パーティーは、
週末の夜八時ごろ始まり、
夜中の二時ごろまで続いた。

パーティーの目的は、
側近の管理である。

パーティーに
呼ばれるかどうかが
側近の評価・信頼度であった。

参加するのは、
党としては張成沢、
金容淳、金永南、

軍は趙命禄、
李河一などが
固定メンバーだった。

パーティーは、
乱痴気騒ぎそのもので、

金正日に促されて
ウイスキーを一気飲みをしたり

韓国の歌
――離別や下宿生――を
伴奏で歌うのが定番だった。

この間、喜び組は
欧米のヌードダンサー以上に

露出して激しく
エロティックなダンスを踊り、
宴を盛り上げた。


◉ 乱痴気パーティーが招いた悲劇

乱痴気パーティーが招いた
悲劇もあった。

組織指導部・副部長の
李ミョンジュは

金正日の覚えも目出度く、
よく乱痴気パーティーに
参加していた。

ある時、
かれは酔いつぶれて、

妻の前で、
不覚にも夢とうつつの狭間で、

乱痴気パーティーの模様について
口を滑らせてしまった。

曰く、「喜び組の呉ミランや
洪ヨンヒなどは

全部指導者同士(金正日)の
お手付きだよ。
だから横恋慕してもだめだよ」と。

李の妻は
金日成総合大学の教授だった。

純粋な彼女は、
金日成に直訴の手紙を書いた。

「親愛なる首領様 
祖国の未来を背負った
指導者同士(金正日)が

こんなことで
いいのでしょうか。
どうか首領様が正してください」と。

この手紙が、
金日成に届く前に

国家政治保衛部の
検閲網に引っ掛かり、
金正日に届けられた。

金正日は激怒し、即刻、
李ミョンジェを呼びつけ、

「お前は女房ですら
まともに教育できないのか」
と叱責した。

この事件以後、
李ミョンジェは妻に
暴力を振るうようになり、

ついには拳銃で
自殺することを促したが
拒絶され、

彼自身の手で
射殺したといわれる。


◉ 喜び組は北朝鮮版の妓生か、
酒文化も南北共通

筆者は、
1990~93年まで

駐韓国日本大使館で
防衛駐在官を務めた。

韓国陸軍の
Y少将に招かれた

キーセンパーティーの
出来事であった。

酒も相当回った頃に
バンドとチマ・チョゴリを着た
女性が呼ばれて入って来た。

隣に座っていた
韓国陸軍大佐の説明によると
有名な芸能人であるとのこと。

素晴らしい声で
何曲か韓国の歌謡曲を
歌った後、

Y少将の前に
進み出て挨拶した。

Y少将が
「とても良い声である」と賞讃し

「酒を注いでやるから
一杯飲め」と勧めた。

その歌手は
「私は宗教の関係から
酒は飲めません」と丁寧に断った。

するとY少将は
やにわに立ち上がり

「俺にできないことはない。
生意気な奴だ」と

ビールのグラスに
ウイスキーを注いで

歌手の鼻を逆手に掴んで
顔を上に向けさせ、

彼女の口に中に
無理やりウイスキーを
注ぎこんだ。

もちろん、ウイスキーは
口から溢れ

美しいチマ・チョゴリが
ウイスキーで
ビショビショになった。

歌手は泣きながら退席した。
日本人の私の目からは、
やはり異常なことだった。

私自身も、
酒にまつわる辛い体験がある。

陸軍本部のR将軍だった。
私は、この爆弾酒
(ビールとウィスキーのカクテル)を

何回も繰り返し飲んでいるうちに
気分が悪くなり、

「後一回『水爆』を飲めば
昏睡するかもしれない」と
思うほど酔ってしまった。

私は申し訳ないと
思いつつも、

「将軍、参りました。
将軍には到底敵いません。
この通り降伏します」と言った。

将軍がいやな顔を
するかと思ったらその逆で、

「福山大領(テーリョン、
自衛隊の一佐に相当する
韓国軍の階級)は正直で良い。

その潔さが、気に入った。
お前は今日から俺の弟分だ!」と
ご機嫌の体だった。


◉ 男尊女卑は南北共通の文化?

南北朝鮮の
酒宴における男達の
女性に対する振る舞いは同じようだ。

このような男達の
振る舞いのルーツは、
やはり男尊女卑だろう。

朝鮮民族の男尊女卑は、
儒教に由来すると聞いたが、
調べてみると様々な説がある。

女性を蔑視する韓国が、
日本に対して

ありもしなかった
従軍慰安婦を言い募ることは、

筆者には
釈然としないものがある。

写真はハナニラ


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天国と地獄の北朝鮮 2

2024-04-03 | Weblog
福山氏のメルマガより

天国と地獄の北朝鮮(2)金正日の女性遍歴


◉ 欲望に忠実な独裁者

人間には実に
様々な欲望がある。

これら人間が持っている
欲望の中でも

強い衝動を引き起こすものは
食欲、睡眠欲、性欲であり、
これを三大欲と呼ばれる。

金正日は三大欲のうち
睡眠欲は人並み以下であった。

金正日は後継者になると、
金日成から実権を奪うために
猛烈に働いた。

組織のあらゆる部署から
提出される報告書を

夜通しかけて
自分に都合のよいように整理し、
父に虚偽の報告をした。

この間20年ほどは、
睡眠時間は4時間ほどだったと
告白している。

ただし、食欲と
性欲については忠実で、
制限がなかった。

食欲――美食・美酒――
については、
前回触れたので、

今回は金正日の
性欲(色欲)について書いてみたい。


◉ 金正日の女性遍歴

金正日の女性関係は、
異常かつ複雑で、

正室といえる金英淑の他
同棲した女性だけでも
8名に上る。

そのほか関係した女性は
数え切れない程で、

万寿台芸術団の舞踏家、
曲芸組、女優、官邸担当看護婦、

執務室のタイピスなどを
欲望の赴くままに関係を結んだ。

また、スウェーデンやドイツなど
外国から金髪美女を呼び寄せ、
関係を持つほどだった。

さらには、金正日は、
街に繰り出し平壌女子高や

高等師範の女学生を
林道に連れ込んで、
悪戯することまでやった。

金正日は、
道徳感など全くなく、

自分の好みの女を見つければ、
人の女房・恋人であろうと

奪い取る略奪婚・愛の
常習犯だった。

金正日は、
駐チュニジア大使の妻に言い寄り、
不倫を遂げた。

また、金正日は
「ポイ捨て名人」で、

弄んだ女性を次々に取り替え、
「お手付き」の女性は

保衛総局の将校や
国家功労者に「払い下げ」られた。

以下、金正日の
女性遍歴から生まれた
悲劇と成功の例について紹介する。


◉ 金正男母子の悲劇 

金正日の女性遍歴が
後に悲劇につながったケースとして、

金正男とその母の成蕙琳
(2番目の妻、ソン・ヘリム)の例がある。

成恵琳はソウルの
豊文女子中学校に通っていたが

1948年に一家で北朝鮮に移住し、
60年に平壌演劇映画大学を卒業した。

蕙琳は、卒業と同時に
李平という男と結婚し、
女児までもうけた。

蕙琳は、卒業前の59年に
「分界線の村で」という
映画に主演し一躍有名になった。

しかし、それが
悲劇の始まりだった。
金正日に見初められたのだ。

金正日は、友人である
李平の弟をつてに

5歳も年上の蕙琳に
言い寄って自分のものにし、
李平と離婚させ同棲を始めた。

71年には
金正男が生まれた。

金日成は
正日と恵琳の結婚には、

「恵琳が韓国生まれで
出身家の身分が低いこと、

映画女優は政治家の妻に
不適切であること、

蕙琳は結婚し
子供も居ること」などの理由で
猛反対をした。

そのため正日は、
蕙琳との結婚はもとより

正男の誕生も
日成に隠し続けた。

蕙琳が正男と
外出したいと願うと、正日は、

「言うことを聞かないと
撃ち殺すぞ」とピストルで
脅し付けていた。

金日成は正男が
5歳になる1976年まで
蕙琳との結婚すら知らなかった。

蕙琳は、正日が
高英姫など別の妻・女を作ると
精神疾患になり、

74年からはモスクワで
療養するようになり、

ついに2002年5月、
同地で死亡したと伝えられる。

蕙琳の息子の正男は、
長男であるにもかかわらず
後継者から外され、

異母兄弟の正恩に
取って代わられ、

ついには厄介者として
2017年2月クワラルンプール国際空港で

二人の女性により
VXガスを用いて暗殺されたことは
説明の必要もないだろう。

まさに、
悲劇の母子である。
写真はカランコエ



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天国と地獄の北朝鮮 1

2024-04-02 | Weblog
福山隆氏のメルマガより

◉  金王朝一族だけの「地上の楽園(ユートピア)」

1950年代から1984年にかけて
在日朝鮮人とその家族93、
340人が北朝鮮へ帰還した。

北朝鮮を「地上の楽園」と
はやし立てたのは、
朝鮮総連はもとより
日本共産党、朝日新聞など
左派のマスコミだった。

北朝鮮は、言うまでないが
当時も今も「地上の楽園」ではなく
「この世の地獄」である。

北朝鮮は、1977年、
社会主義の最終段階に突入し
「地上の楽園」になったことを宣言した。
もちろん大嘘である。

ただし、北朝鮮の中には
ほんの一握りだけ、
文字通り「地上の楽園」を
楽しめる人達がいる。
それが、金正日をはじめとする
金王朝の一族である。 

◉ 際限ない贅沢を求める独裁者

金正日の贅沢ぶりは
「世界一」と言われた。
マルクス主義の下では、
指導者は清貧であるなどと
言うのは、大嘘だ。
金正日は少なくとも
8カ所の広大な土地に

娯楽のための宮殿
――特閣と呼ばれる――を
建てた。

ゴルフコース、馬場、
ハーレー・ダビッドソンや
100台のベンツ用のガレージ、
射撃場、プール、
映写室(1万本以上の映画フィルムを所蔵)、
ワインセラー、遊園地、ジェットスキー、
野生のキジやカモが放たれた
狩猟場などが完備している。 

それぞれの宮殿は
一大リゾートで、
車がなければ回り切れず、
医師、看護師、料理人、
メイド、ボーイ、庭師、
マッサージ師、舞踏団、
警護官など約2千人が
配置されている。

アメリカから、
居場所を悟られて
殺害されないように、
全ての特閣が
常時金正日がいる状態を
演出(偽装)している。
どこへ行くにも23~24歳の
3人の女性(看護婦・秘書・
エスコート役、6カ月交代)を連れていく。
彼女たちは24時間体制で待機して
金正恩の意のままに応ずる。

◉ 外国の贅沢品に対する強烈な欲望

独裁者のスターリンや
毛沢東も贅沢の限りを尽くしたが、
それは国産品に限られていた。
彼らとは違い、金正日は
国産品では飽き足らず、
諸外国の「モノと人」にも
手を伸ばす。

外国の本、映画、飲食物、
高級ブランドの衣服、高級車、
時計など何でも買い、
欲しい人間がいれば
札束で連れてくる。
札束で連れてこれない場合は、
拉致さえも辞さない。

映画好きの金正日は、
1978年には韓国の映画監督の
申相玉とその妻で
映画女優の崔銀姫
(1976年に離婚)を拉致した。

他にも、娼婦、ストリッパー、
トルコのベリーダンサー、
歌手などの外国人女性、
ルーマニアのナイフ投げ芸人、
スウェーデンのマッサージ師、
ロシアのポップ歌手、
アメリカのプロレスラーなどを
呼び寄せた。

一方で、
北朝鮮人民に対しては、
外国の文化・情報を
一切遮断している。
ラジオは、北朝鮮の
一局の周波数に固定し、
外国語が書かれた包装紙や
ビニール袋でさえ
完全にシャットアウトされる。

この独裁者と
人民の際立った落差が、
異常な独裁国家の特徴だ。

◉ 世界一の美食家

金正日は、日本からも
専属料理人をスカウトしていた。
それが藤本健二氏である。
藤本氏は、金正日を
「世界一の美食家」だと
評している。
北朝鮮人民は
薄いトウモロコシ粥さえ
満足に食べられず、
草や木の皮などで
命を繋いでいる時に、
金正日の普段の食卓には
20~30種類の料理が
並んでいたという。

藤本氏によれば、
金正日はフカヒレ料理が好きで、
「フカヒレとアワビのスープ」、
「フカヒレの姿煮」、
「フカヒレと湯葉のスープ」を、
三夜連続で
食べたこともあったという。

刺身は、日本式の
生け作りが好きでワサビを添えた。
ウナギ、大ハマグリ、松茸ご飯、
アジ・サバの干物(大根おろし添え)も
好んだという。
また、グルメの範疇ではないが、
ラクダの肉やカメの卵、
オットセイの腎臓、
山猿の骨髄、
タンザニアのライオン油などの
精力剤も服用していた。

舌の肥えた金正日のために、
藤本氏は、日本はもとより、
中国やタイ、マレーシア、
チェコスロバキア(当時)、
デンマーク、イラン、
ウズベキスタンなどにまで
食材の買い付けに出掛けたという。

金正日の国内産食材は、
主席専用の農場・工場で生産され、
農場の勤務員は
食物を汚さないように
出勤前に入浴し、
少しでも体に異常があれば
農場には入れられなかった。
米、トウガラシ、魚介類、
メンタイ、リンゴ・ナシ、
酒類などは、供給地が決められていた。

◉ 酒豪

金正日が酒豪だというのは
有名な話だ。
特にヘネシーXOが好きだった。
また、レミーマルタンを
年間千本以上も
パーティーに使った時期もあった。
地下倉には世界の銘酒を
1万本以上も保管しており、
有名な銘柄の日本酒も
すべて取り揃えていたという。

金正日は、
自分は水を飲んで誤魔化し、
部下にはウイスキーなど
強い酒の一気飲みを勧め、
酔っぱらわせて
本音を吐かせようとした、
とも伝えられる。
晩年は、医者の勧めで
節酒に努め、
赤ワインを少々たしなむ程度だった。

◉ ヘビースモーカー

金正日は、ヘビースモーカーで、
国産の白頭山も吸ったが、
英国産のロマンズ
(1999年にブリティッシュ・
アメリカン・タバコに統合)が好きで、
常にタバコを
くわえていた。
年上の人達や
子供と接見するときも
タバコを吸いながら臨んだ。
晩年は、禁煙を試みたようだ。

◉ サボリーー「業務に精励」の偽情報

金正日は、特閣に閉じこもって
遊んでいても、
国内の放送、マスメディアは、
「金正日同志が昼夜を分かたず
業務に精励している」と、
国民に対して
偽りの宣伝を継続させた。
「一将功成りて、万骨枯る」と
言うことわざがあるが、
この言葉は金正日政権に
ピッタリ当てはまるのではなかろうか。

写真は頂いたアネモネ



コメント (2)
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