つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

金日成政権の確立

2024-04-05 | Weblog

田母神俊雄氏のメルマガより

金日成政権の確立


〇 ソ連による金日成指導体制の確立

金日成が依拠する共産党組織は、
当初1945年10月に朝鮮共産党北部朝鮮分局
という形で結成された。

これが後に北朝鮮労働党を経て
朝鮮労働党となった。

日成は、ソ連の後押しで、
朝鮮労働党中央委員会委員長に推戴され、
実権を握ることになった。

朝鮮労働党こそが、
金日成が独裁体制を構築するうえで
不可欠の屋台骨となるものであった。

このシナリオを描き、実現させたのは
ソ連軍民政担当のイグナチェフ大佐であった。


民主主義国家においては、
選挙という平和的な
「権力闘争の仕組み」があるが、

共産党独裁国家においては
仁義なき権力抗争が行われ、
敗れれば粛清の憂き目にあう。

今日、孫の正恩が、
金王朝三代目として
政権基盤強化に腐心している。

2013年12月には、張成沢――
叔父(正日の実妹・敬姫の夫)で、
後見人的存在――が

「国家転覆陰謀行為」により死刑判決を受け、
即日処刑された。

選挙のない北朝鮮においては、
祖父・金日成の時代から永続的に、
絶え間ない仁義なき権力抗争が
水面下で繰り返されているのだ。


権力抗争において、金日成の最大の強みは、
ソ連占領軍から"御指名を受けた人物"
であることだった。

イグナチェフ大佐が、
金日成の庇護者として君臨していた。

そのような訳で、党創立大会では、早くも
「金日成同志は、『唯一の指導者』であり、

金日成同志をけなすものがいるとしたら、
それは反動であり裏切り者である」
と演説する者が現れた。

朝鮮民族特有のメンタリティである
事大主義(長いものには巻かれろ)は、
ソ連が北朝鮮を統治する上で、
殊の外便利であったに違いない。


〇 金日成の“政敵”と味方

金日成には、対抗せざるを得ない政治的党派
――“政敵”――が四つ存在した。

第一の、そして最大の党派は
朝鮮国内の共産主義者、
いわゆる国内派であった。

彼らは日本統治下で朝鮮国内に留まって
地下活動を続けてきた者達であった。

代表的人物に、朴憲永がいた。


第二の党派は、中国帰りの革命家達で、
延安派と呼ばれる集団であった。

代表的人物としては、
武亭、崔昌益、金枓奉などがいた。


第三はソ連軍と共に朝鮮に戻り、
ソ連軍が撤退した後も北朝鮮の政治に
関わり続けた朝鮮系ソ連人、
いわゆるソ連派であった。

代表的人物としては、許カイがいた。


これに対して、金日成を支える党派は、
パルチザン派とよばれた。

彼らは独立・建国を目指していた
朝鮮地域から見て国外である

満洲(中国東北部)とソ連領土を
拠点に活動していた為、
「国外パルチザン派」とも呼ばれた。


彼らは、満州における
抗日パルチザン闘争以来
金日成に従ってきた共匪あがりの人達で、

心から金日成に忠誠を誓っていたが、
いかんせん少数で、その数は、
200名に満たなかった。

パルチザン派の要人としては金日成、崔庸健、
金策、金一、朴成哲、李鐘玉、呉振宇、
李乙雪、林春秋、金東奎、呉白龍、李斗益、
金光侠、崔賢、姜健、徐哲などがいた。


なお、パルチザン派の中には、
第二次世界大戦後の朝鮮半島内の北半部の
体制(のちに朝鮮民主主義人民共和国となる)
に参加したグループがおり、

「甲山派」あるいは「国内パルチザン派」
とも呼ばれた。

のちに北朝鮮の建国活動、
及び統治機構に加わるが、やがて
北朝鮮内部の権力抗争に敗れて粛清される。

甲山派には李孝淳、金道満、朴容国、
許錫宣などがいた。


〇 金日成が権力の座に就くことができた事情

第一には、ソ連占領軍の存在、
特にイグナチェフ大佐による
バックアップである。

第二は、朝鮮が38度線で
分断されたことだった。

このことにより、
金日成のライバルになることができる
知名度の高い古参の革命家たちは、
殆ど南部朝鮮に偏在していた。

これら名の知れた革命家たちは、
「ソウルは朝鮮の首都であり、
朝鮮の政治の未来は平壌ではなく
ソウルで決まる」と考えていた。

第三は、金日成に対抗できる三つの党派
――国内派・延安派・ソ連派――が、
共同作戦を組んで、

単一の政治家を押し立てようとする
動きを示さなかったことである。


国内派すべてが朴憲永を
支持しているわけではなかった。

また、延安派のすべてが、
金枓奉を押しているわけでもなかった。

さらに、ソ連系朝鮮人は、
自分たちをそもそも一つの党派と
考えてはいなかった。

面白いことに、ソ連派は、
「金日成はソ連軍当局が選んだ人物である」
という、ただそれだけの理由で
金日成を支持したのだ。


〇 金日成による最初の粛清

金日成の人殺し――粛清――は
彼がソ連から北朝鮮に戻った
直後から始まった。

その最初の生贄は、
金日成のライバルとなりうる
北朝鮮地域における共産主義者の代表だった
玄俊赫(ヒョン・ジュンヒョク)であった。

金日成は(イグナチェフ大佐も)、
玄を排除しない限り自分がトップに
のし上がれないと判断したのだろう。


玄俊赫は金日成が平壌に入城した1週間後の
1945年9月28日に、民族主義者代表の
曺晩植(チョ・マンシク)と一緒に

トラックに乗っているところを
暴漢に襲われ死亡した。

金日成とイグナチェフ大佐の
共謀が疑われるという。


〇 金日成の保身術

"新生北朝鮮の首班"に推戴された金日成が
政敵から首班の座を脅かされないための術は、
ひたすらソ連に忠誠を尽くすことだった。

建国前後から、北朝鮮は
「プロレタリアートの祖国」たるソ連の
圧倒的な影響下に置かれ、

日成は「極東の衛星国」の「支配人」
に選ばれたわけであり、スターリンの期待通り、
言われるままに務めておる限りは、
クビになることはなかった。


〇 ソ連軍撤退後の金日成政権自立に備えた布石
  ――北朝鮮軍の建軍と保安組織の確立


ソ連占領軍は、侵入後一年もたたないうちに
1万の兵を残して、
3万の兵力を欧州正面に転用し、
48年12月には、ほぼ完全に撤退した。

ソ連軍がいなくなっても、
その威光がすぐになくなるわけではないが、
金日成は、権力を維持・確保するために

ソ連軍に代わる自前の軍と保安組織
(治安・警察機能)を立ち上げることが
死活的急務であることを知っていた。


日成はソ連軍当局の支援を得て、
建国宣言に先だって、
48年2月8日に朝鮮人民軍を創建した。

これに先立ち、46年末までに
四つの訓練所を開設し、
2万人の軍将校の養成を開始した。

士官候補生は、
当初はソ連軍から直接訓練を受け、
その後は教育訓練のためにシベリアに送られた。

その数はおよそ1万に達した。

軍の要職はパルチザン派が主流を占めた。

建国後は、約1年の間に約4万人が徴兵された。

朝鮮人民軍は戦争1年前の49年の時点で
6万の兵を擁し、三個師団で編成されていた。


また、保安組織としては、
正規の警察1万2千、政治思想警察3千、
秘密警察5千を組織し、

日成が初代保安隊司令官に就任したほか、
要職はすべて金日成を支えるパルチザン派が
実権を握っていた。

このようにして、金日成・パルチザン派は、
軍と保安組織を完全に掌握し、
政権基盤を確固たるものにした。

北朝鮮の金王朝政権を究極的に支えるものは
今も昔も軍と保安組織である。

写真はオウバイ


コメント
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